福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの第9回江戸三十三観音・東京十社巡拝の記録6/6

2016-01-30 | 開催報告/巡礼記録
6、東京タワー裏話。東京タワーの完成は、全世界を驚かせ、日本の高度な建設技術をアピールし、科学技術・電信電波技術を発展させ、経済的にも高度経済成長の先駆けの役割を担った象徴的な建造物でした。この東京タワーの建造を発
案企画し、建設工事の全責任者で、テレビ放送の普及を意図した人に、松尾三郎(1913~1998)という人がいます。実は、松尾三郎は、私の従兄に当たり,東京タワーが出来上がる模様をよく話を聞かせてくれました。その、1~2話をご披露疲労しようと思います。松尾は、京都大学工学部卒業後、逓信省に、無線技術者として入省しました。上司には、松前重義氏(東海大学創立者・社会党衆議院議員・故人)やGHQの示唆で制定された電波管理委員会委員長の網島毅氏(1905~1995)が居られて、上司に恵まれたそうです。在勤中に、帝国海軍に召集、ジャワ・スラバヤの海軍砲兵工廠で30000人のインドネシア人を指揮する廠長として努めたそうです。終戦前に帰国、逓信省に復帰したのです。大平実験所(千葉県)を造り、米国のレーダー監視の実験をしたのですが、彼我の技術格差は如何ともしがたく、悔しい思いがしたといいます。その後、日本電信電話公社電気通信研究所方式部無線課長。この間、マイクロウエーブの研究で、マゥンテイン・ゲイン現象の論文で、昭和26年、ジュネーブの国際会議(CCIR)で発表し
反響を呼んだといいます。日本全国のマイクロ回線の研究と工事が完成したのと、超短波の研究が一段落した時、官吏の勤めを止め、昭和29年、請われて、設立間もないニツポン放送技術局次長として、在野に降りました。当時のニッポン放送には、日経連・経団連の日本を代表する財界の大物が出資者として名を連ねていた会社でした。植村甲午郎、水野成夫、岸道三、五島昇など錚々たるメンバーだったといいます。同社の専務であった鹿内信隆氏(フジテレビ社長)と、コンビで3ヶ月、9カ国23局のテレビ局を視察し、鹿内氏は、経営面を、松尾は、技術面を研究してきました。その結果、鹿内氏は、フジテレビを創立しました。同社の、スタジオ、放送技術は松尾の手になるものでした。テレビ会社を作っても、もう一つ、松尾の心を捉えているものがありました。
テレビ放送の草創期で、テレビ各局とも独自にテレビ塔を立てていました。いずれも170メートルの高さの低い鉄塔でした。そこで、松尾は、各局のテレビ放送を一本にまとめ、高い鉄塔を建てて、共同使用すれば、経済的であるばかりでなく、放送のサービスエリアも広がり、展望台も作って、観光資源の収入も期待でき、さらに効果的な期待は、日本の技術と経済力を世界にアピールできる唯一の手段であると確信したといいます。早速、この構想を、松尾はまとめ、鹿内専務に、企画書にして提示しました。企画書は「、高さ330メートルのテレビ塔を、神宮外苑の明治記念館正面に建設する。建設費は、30億円とし、7年間で償却する」という内容でした。驚いた鹿内専務は、330メートルものテレビ塔が、果たして出来るのか?と、企画書を受け取りながら、そのまま、机の引き出しの中にしまいこんでしまったそうです。
松尾が、テレビ塔の企画案を忘れかけていた時、鹿内専務から、「君と同じテレビ塔の建設計画案が、東京都建設局に提出された」といい、急ぎ、一日遅れで、松尾の「企画書」を、東京都に提出しました。先に持ち込んだのは、前田久吉氏(産業経済新聞社社長)で、二つのテレビ塔建設計画案を受理した東京都は、困惑した上、両者共同で建設することと結論を出したのです。これを受け、前田氏と松尾は、協議を繰り返し、両者集合して、新会社を設立することになりました。が、建設場所については、松尾の案は、入れられず、芝公園になりました。
昭和32年5月、東京タワーの建設のため、「日本電波塔株式会社」が発足します。松尾は、起案者であったことから、取締役技術部長として、新会社にうつり、新会社の全ての責任を負うことになりました。松尾の目論見は、二層の展望台を持ち、フランスのエッフエル塔を意識して、高さ333メートルの東京タワーにして、新しい、観光名所として、全世界に知らしめることでした。しかし、鉄塔を建てるには、芝公園は、地盤が悪く、建設は、難工事になりました。そのうえ、新しい通信電波技術を使い、アンテナ部分には、ハイテンション・スチールという軽くて強度のある鋼材を使いました。高い塔だから、設計技術上、軽くしなければならないそうです。この素材は、名古屋の大同製鋼しか作れないので、松尾は、同社に赴き、試作を繰り返し、完成させたといいます。また、船舶や鉄塔の設計図は、原寸と同じ大きさで作らなければならない。
原寸図は、船舶と違って、斜めに立ち上げた設計にしなければならない。原寸工には、初めての経験者も多く、ノイローゼで倒れた人が、続出したそうです。鉄塔の製作は、120メートルの所から二分され、下の部分を松尾橋梁、上の部分を三菱重工が担当するという苦肉の策をとりました。建設の過程で、いくつかの関連技術も開発され、太いワイヤーで、クレーンを宙吊りにするエレクターというクレーン技術も副産物として残りました。日本で始めての、高いタワーの工事のため、熟練した「鳶職」を集め、難工事に挑戦、松尾は、完成時まで、工事現場で、工事の陣頭指揮に当たりました。延べにして、大勢の工事作業者の人が携わったのですが、この工事で、事故で亡くなった人は、僅か、一人だったといいます。なくなった作業員を、増上寺で、手厚く弔ったということでした。
東京タワーが完成したのは、昭和34年5月。3年の歳月をかけて、威容を示しました。時、同じうして、皇太子(現昭和天皇)と美智子妃殿下がご成婚された時で、東京タワーから、テレビ各局の電波が発信されました。もし、東京
タワーでなく、テレビ各局のテレビ等から発信されたら、発信範囲をカバレッジといいますが、せいぜい、30キロのエリアのまでしか届かなかったでしょう。しかし、東京タワーの出現で、60キロのエリアまで届くようになったのです。この時点で、日本テレビだけは、プロ野球巨人軍オーナーで有名な正力松太郎氏が、社長で、頑として、東京タワーからの発信を拒んだのですが、結局、最後は、東京タワーに参加したという逸話もあります。
この時期は、社会全体が、まだ貧乏で、テレビも、容易には買えない。三種の神器といわれたテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の一つで、なかなか、手に入れることが出来ませんでした。が、人々の表情は皆、明るく、いきいき、していたと思います。生活は貧しく、苦しかったが、希望が持てた時代でした。そんな時に、出現した東京タワーは、生活の困苦にあえぐ、日本人に、未来の夢と希望を与える頼もしいシンボルだったと思います。
長々、お付き合いいただいて、済みませんでした。有難うございました。(角田

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