いよいよ36番青龍寺です。
土佐市内高岡町の喜久屋という遍路宿に何度か泊まりました。ここの老女将は熱烈な大師信者で夕食の後私を特に呼び止めて話し込んだことがあります。 それによると若い時には何度も遍路をしたということでした。 そしてお遍路仲間の宮崎の呉服店のおかみさん(長友すてさん)が一回の遍路でガンが治ったのでそのあと毎年2回ずつ35年間にわたり 計70回お礼の遍路をしたこと、その女将さんはのち地元宮崎高鍋に88箇所を開創したこと、 お遍路さんにもらったたくさんの納札を俵につめて天井のはりからつるしておいた家が周りの火事から守られたことなど夜を 徹して話し込んだのでした。
そしてここからがこの遍路記をそもそも書くことになった核心です。
すなわち翌日お参りする予定の36番青龍寺での必救祈願法を伝授されこれを他の人にも教えてほしいといわれたのです。(必救祈願法はあとで出てきます)。
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さきの菊屋旅館を朝早く出て、昔懐かしい疎水に添って市内を歩き、36番青龍寺を目指します。四国の疎水は深そうで水が滔々と流れているのに手すりがなく落ちると大変です。地元の人が心配になります。ときどきモローの「川面に浮かぶオフェリア」の画を思い出します。
36番青龍寺は青い土佐湾を望みながら宇佐大橋を渡り色岬を通るとまもなくです。昔は渡し舟でのお参だったと書いてありました。大変風情があったと思われます。いまでもこのさきの横波スカイラインを含めここは遍路道の中で最も美しいところではないでしょうか。
この道に沿ってミニ88箇所があり石のご本尊様が並んでいます。17年にはたくさんの地元の人達が出て掃除をしていました。
36番青龍寺は120段の石段をあがると正面が本堂、左に大師堂があります。
大師は唐の長安青龍寺で恵果阿闍梨から真言密教を伝授されました。そして、これを偲んで弘仁6年(815)年に自刻の波切不動尊を本尊に同じ名の青龍寺を開かれました。
恵果阿闍梨はお大師様の「秘密曼荼羅付法伝」に真言代7祖としてかかれています。
「(恵果阿闍梨は)唐の歴代の皇帝玄宗、粛宗、代宗の国師であり、代宗、徳宗、順宗は恵果阿闍梨を師として結縁灌頂をうけた。
長安の青龍寺にあって多くの降雨止雨をはじめとする霊験を現し衆生済度につとめられた。
(お大師様に)金胎両部の伝法灌頂を授け儀軌、印契など全て授けたところ「ことごとく心に受けること猶し瀉(しゃ)瓶(びょう)のごとし」であった。」ということです。
また、お大師様の「請来目録」という書には恵果阿闍梨はお大師様に対し、
「(密教を持って)早く故国に帰り以って国家に奉り、天下に流布して叢生の福を増せ。しかればすなわち四海泰く万人楽しまん。これすなわち佛恩を報じ師徳を報ず。国の為には忠なり。家においては孝なり。」「我と汝と(恵果阿闍梨とお大師様と)久しく契約ありて、誓って密蔵を弘む。我、東国に生まれて必ず弟子とならん」と仰ったとあります。
大師堂の下を左に回ると小さい恵果阿闍梨の祠(ほこら)があります。
この祠は何度もお遍路にきた人も知らないくらいひっそり佇んでいます。
遍路宿喜久屋の老女将に教えてもらった祈願法はこうです。
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「 1、まず本堂で助けたい人の住所、氏名、数え年を仏様に述べたあと願いごとをする。次に大師堂で同じ内容で拝む。
2、さらに恵果阿闍梨の祠の前で同じ様に拝む。
3、お願いしたら祠の右に握りこぶし大の石が積みあがっているのでそのうちの一つを持ち上げ同じようにお願いする。
4、お願いしたらその石を裏返して落とす。するとゴーンと地響きがして地下の恵果阿闍梨に願いが届き助けて頂ける」
というものでした。
女将は甥が重病で足を切断しなければならなくなった時ここの恵果阿闍梨の祠で祈願したら切断を免れたといいました。
私もここでは知り合いの重度うつ病患者の快癒を祈願したところ、なんと半年後には回復して退院し、今は幸せな日々をおくっています。お礼に2回目の遍路では寺族の方に恵果阿闍梨廟の維持費をすこし置いてきました。
その代わり恵果阿闍梨は一生に一度しか願いは聞いてはいただけないとのことでした。
遍路宿喜久屋の老女将はこの祈願法を地元の人以外にも教えてほしいといっておりましたのでいろいろなところでこのことを書いています。今回もこうして約束を果たせてほっとしました。
36番青龍寺には奥の院があります。曲がりくねった国道を横切って更に登っていくと鳥居が何本もありそこが入り口になっています。靴は脱ぐように書いてあります。こういうところがありがたいのです。靴を脱いでさらにいくと両側には36童子が並んでいます(注)。お不動様とその眷属の36童子を同時にお参りできる処はなかなかありません。それにしても36童子のお姿についてはどの儀記に書かれているのでしょうか、調べたいと思っていますがまだ果たせないでいます。
36番にお参りするときはここにも必ずお参りすることとしています。さすがにここまではだれも登ってきません。土下座してこころゆくまで理趣経を上げます。不動堂の遥か下には青い海が見えます。ここはだれにも秘密にしておきたいほど静謐な霊気あふれる場所です。2度目のおまいりのときは此の下のぬかるみで足をとられて二度ほど転びそうになりましたが錫杖につかまって2度ともころばずにすみました。錫杖には数限りなく助けられています。
一度目はお参りの後、横波スカイラインをとおらず須崎市に向かって歩きはじめました。
普通の農道でしたがなぜかお大師様が一緒にあるいてくださっている感じがして有難くてたまりませんでした。
寺から十数キロ歩いたとき軽トラックが止まり町まで乗せてくれるといいます。運転していた七十代の男性は「うちは青龍寺の檀家です。青龍寺の御老僧はなんともいえず有難かった」としみじみいいます。よほど修行を積んだ方だったと見えます。拝顔したことはありませんがなんとなくありがたいお顔が浮かんでくるような気がしてきます。昔はこういうありがたい老僧が多く居られたものです。青龍寺からずいぶん離れたところで檀家の人にお接待されるとは思いませんでした。
(注。三十六童子については決定的典拠となるお経本がありません。大法輪平成二年一月号に村岡空師の「日本の不動尊信仰」という文がありますがこれに「天台座主の尊意(9世紀)が撰した「吽迦迦羅野儀軌」三巻にもとずき「仏説聖不動経」が編まれ、(ここに三十六童子が出)そしてそれを真言系の行者が部分的に手直しし、現在の形が生まれた。」とあります。
また昭和五二年四月号大法輪には「不動明王と使者」の題で真鍋俊照師が書いておられ、東寺の亮禅、宝蓮華寺亮禅共著の「白宝口抄」(十三世紀)では三十六童子のうち最後の妙空蔵童子を除いた三十五童子が出ているとしています。さらに理体坊良智という人は「不動法」の中で、「二童子、八大童子、三十六童子、七曜二十八宿、十二天、三十六禽など一体不二と想え。普門中一なり。すなわち本有と本体との大源なり。(すべては宇宙にちりばめられた星屑にすぎない。それも結局は法身大日の不二の法門という大きな白い紙袋の入り口に吸収されてしまう)」としています。
36童子のご真言 です。
1 矜迦羅童子
おん ばらさき たつたり そわか
2 制叱迦童子
おん しゆと とば うんばつた
3 不動恵童子
おん しゆまり ばさら だんかん
4 光網勝童子
おん そば ろぎ ばった ばった そわか
5 無垢光童子
のうまく からばん きりく
6 計子爾童子
おん かく まり そわか
7 智慧幢童子
おん そんば さんば さんばんそわか
8 質多羅童子
うん たらまち しつたら うんばつた
9 召請光童子
おん まり ままり しゆまり しゑまり とどまり ばつた
10 不思議童子
おん ろけい そわか
11 羅多羅童子
おん らた らた らま そわか
12 波羅波羅童子
おん はら しつ びたまに あんをん そわか
13 伊醯羅童子
おん だぎに ゑい そわか
14 獅子光童子
おん まり たりたり そわか
15 獅子慧童子
おん まい たりや そわか
16 阿婆羅底童子
のうまく けん さくそわか
17 持堅婆童子
おん まんしん だらに そまや そわか
18 利車毘童子
おん しばれい そわか
19 法挟護童子
おん ぎやきてい とんばんば きりく
20 因陀羅童子
おん いんだらや そわか
21 大光明童子
のうまく さまんだ かんまん きりく
22 小光明童子
おん しんばら そわか
23 仏守護童子
おん あぼぎや ばだらや そわか
24 法守護童子
おん きまれい そわか
25 僧守護童子
きりく さんばん たらく
26 金剛護童子
おん だきに ゑい きりく そわか
27 虚空護童子
おん めいが しやに へんばら うん そわか
28 虚空蔵童子
おん そんやば そんやば そわか
29 宝蔵護童子
おん まか きやらば そわか
30 吉祥妙童子
おん びだまや そわか
31 戒光慧童子
おん さらいて さらいて そわか
32 妙空蔵童子
おん こうなん とくじつ そわか
33 普香王童子
おん あい びしやに はつた はつた そわか
34 ぜんにし童子
おん はんめい ばざやら きしやうん
35 波利迦童子
おん けん まにまに そわか
36 烏婆計童子
おん たらまや きりく そわか )