33番雪蹊寺から34番種間寺までは8キロです。2回目の時は途中で宿泊し朝4時頃甲殿というところにある34番奥の院に寄るつもりで遍路宿を出ました。ここは海辺でごうごうという海鳴りの音を足元に聞きつつ真っ暗な堤防を不安な気持ちで歩いているとタクシーが止まり、なかの中年の運転手さんが「すぐそこの会社にもどれば勤務明けになるので34番種間寺へ軽四輪で送っていきます」と言いました。心細かったのでありがたく好意に甘えることとしました。途中入り組んだ小さい湾の奥にある奥の院らしき社を真っ暗な中、参拝しました。(あとで34番種間寺のご住職に聞くと「そこは違います」とのことでした)。それでも時間があまり種間寺へは暗いうちにつきました。
種間寺は敏達天皇の六年(五七七)四天王寺造営のために来日した百済の仏師寺匠が、帰国の途中、海上安全を祈って薬師如来を安置し、後にお大師様が、この薬師如来をご本尊として寺を開創され、中国から持ち帰った五穀の種子をまかれたといいます。種間寺の寺名はこれに由来するとされます。
境内のベンチにずっと座ってまっていると5時すぎ、真新しい本堂を開け、ご住職が修法をはじめました。私もおずおずと中に入らせていただきました。後から地元の人らしき中年の男性があがってきて頭を振り乱して祈っています。わたしとこの中年男性二人だけで修法するご住職の後ろで座って拝みました。修法が終わるとご住職が壇から降りてこられます、ご住職に毎朝修法されているのですかと聞くと毎朝修法を行っているとおっしゃいました。ご本尊の薬師法ですかとお聞きしようと思いましたがどうも理趣法のようでした。
いずれにせよ、毎朝こうして檀信徒に開放してその前で修法をされるとはありがたいことです。あとでここの立派な本堂は御住職が毎朝行法をしたお蔭で建ったものとN老尼の話で知りました。
大師堂の前でも老婆が土下座して白髪を振り乱して頭を地にこすり着け、必死に拝んでいました。遠く離れたこどもか孫のことが心配なのかもしれません。必死の祈りの姿をみて声を呑みました、同時に「拝む」ということはこういうことなのだと思い知らされました。そして、辺りを憚らず土下座して拝むこの老婆の祈りは必ず聞き届けられるであろうと確信しました。
34番種間寺から 35番清滝寺へは仁淀川を渡って10キロくらいです。しかし1回目のときはなぜか疲れてふらふらでした。高知自動車道から清滝寺へ上る小道が分らずうろうろしていると、70代とおぼしき老遍路が風の様な速さで現れ、「そこをまがるんじゃ、ついてくればいい」といって猛スピードで歩いてゆきます。当方も負けじとついていきましたが息を切らせました。老人は「自分は毎月一万円位の年金を受け取りつつこうして廻っている。実家には帰らない。遍路をしているとなんとかなるものだ。今日は清滝寺の通夜堂に泊めてもらう」等と話してくれました。今年平成五30年には5万円の年金で日本中にボランテアにでかけている尾畑春夫さんという79歳の老人のニュースがありましたがまさに老人もこうなれば日本の宝です。金・金とあくせくしなくても有意義な人生を生ききることができることを証明してくれています。
老遍路に喜捨をしようと思いましたがなぜか言い出せないまま別れました。善意を形にするのは即座に行動する勇気がいるものです。
35番清滝寺はお薬師様がご本尊です。養老7年行基菩薩がご本尊薬師如来を刻まれ開創されその後、大師が修法された満願の日に金剛杖で突くと湧水が湧き出て鏡のようになったといい、寺号を医王山鏡池院清滝寺とされたとされます。
ここでは私の先輩K氏の末期癌の快癒を特におねがいしました。ここの霊水は88箇所中随一と聞きました。本堂に向かって右に滔々と湧き出る霊水があります。飲むと本当に甘い水でした。「空性法親王四国霊場御巡行記」では「・・種間寺過ぎて二淀川水の流れも清滝寺・・」とあります。御詠歌も「すむみつ゛をくめば 心の きよたきじ なみの はなちる いわのはごろも」です。
むかしからここの霊水は有名だったと思われます。あまりにおいしいので写真にとりました。
不思議はそのあとです。
後で拡大すると水小屋の梁に快癒を祈念したK氏と同じ名前のまだ新しい納札が貼られていたのです。同じ名前の人がつい最近遍路にきていたのです。
帰ってK氏に連絡してみると半年もたないといわれたK氏は奇跡的に回方に向かい外国旅行にまで行っていました。医者が驚嘆していました。
お薬師様は衆生の病を癒してくださる仏さまです。平幡師の「四国遍路」によると、以前には本堂にお蔭を受けた人たちの奉納した額・松葉杖・ギブス等が並んでいたようです。
なんというありがたいことでしょうか。四国遍路に何度も来る人がいますがこういうお蔭をいただきお礼に来ている人も多いのだろうと思います。
3度目の遍路のときは境内にワンボックスカーが止まっていました。中から若いご夫婦と小学校3,4年とおもわれる男の子が出てきました。しかしよくみるとまだ中に寝たきりの小さい子がいます。家族で此の子の祈願をして周っているのだとすぐ分かりました。小学生らしき男の子は甲斐甲斐しく霊水を運んでいました。寝たきりの弟に飲ませるためでしよう。両親の前で大人びて行動するのが不憫至極でした。この家族に幸あれと心から祈らずにはいられませんでした。
◇
ここは薬子の乱で出家した平城天皇第三王子高岡親王(のち大師の高弟の真如法親王となる)が渡印を計画された寺でご自身で逆修塔を建てられ、印度へ出発されました。壮絶なご決意です。高岡親王は東南アジアでトラの犠牲となったと伝えられています。(親王はマレーシアのジョホール・ バルで薨去されたとして1970年1月 高野山親王院関係者がここに供養塔を建立されているということです)
清滝寺には真如法親王の森がありますがここはいらずの森ということになっています。原生林のように鬱蒼としげっています。古来斧が入ってないのでです。
清滝寺の麓には「土佐市観光」というタクシー会社の建物が田んぼのなかにたっています。
一回目の遍路の時は帰りにタクシーに乗ろうと立ち寄ったら運転手は出払っていて、社長みずから自家用車で次の遍路宿までお接待していただきました。ここでは35番清滝寺へ登るお遍路さんの荷物を無料で預かってくれます。陰徳をつんでいる会社です。かならず発展すると思いました。
種間寺は敏達天皇の六年(五七七)四天王寺造営のために来日した百済の仏師寺匠が、帰国の途中、海上安全を祈って薬師如来を安置し、後にお大師様が、この薬師如来をご本尊として寺を開創され、中国から持ち帰った五穀の種子をまかれたといいます。種間寺の寺名はこれに由来するとされます。
境内のベンチにずっと座ってまっていると5時すぎ、真新しい本堂を開け、ご住職が修法をはじめました。私もおずおずと中に入らせていただきました。後から地元の人らしき中年の男性があがってきて頭を振り乱して祈っています。わたしとこの中年男性二人だけで修法するご住職の後ろで座って拝みました。修法が終わるとご住職が壇から降りてこられます、ご住職に毎朝修法されているのですかと聞くと毎朝修法を行っているとおっしゃいました。ご本尊の薬師法ですかとお聞きしようと思いましたがどうも理趣法のようでした。
いずれにせよ、毎朝こうして檀信徒に開放してその前で修法をされるとはありがたいことです。あとでここの立派な本堂は御住職が毎朝行法をしたお蔭で建ったものとN老尼の話で知りました。
大師堂の前でも老婆が土下座して白髪を振り乱して頭を地にこすり着け、必死に拝んでいました。遠く離れたこどもか孫のことが心配なのかもしれません。必死の祈りの姿をみて声を呑みました、同時に「拝む」ということはこういうことなのだと思い知らされました。そして、辺りを憚らず土下座して拝むこの老婆の祈りは必ず聞き届けられるであろうと確信しました。
34番種間寺から 35番清滝寺へは仁淀川を渡って10キロくらいです。しかし1回目のときはなぜか疲れてふらふらでした。高知自動車道から清滝寺へ上る小道が分らずうろうろしていると、70代とおぼしき老遍路が風の様な速さで現れ、「そこをまがるんじゃ、ついてくればいい」といって猛スピードで歩いてゆきます。当方も負けじとついていきましたが息を切らせました。老人は「自分は毎月一万円位の年金を受け取りつつこうして廻っている。実家には帰らない。遍路をしているとなんとかなるものだ。今日は清滝寺の通夜堂に泊めてもらう」等と話してくれました。今年平成五30年には5万円の年金で日本中にボランテアにでかけている尾畑春夫さんという79歳の老人のニュースがありましたがまさに老人もこうなれば日本の宝です。金・金とあくせくしなくても有意義な人生を生ききることができることを証明してくれています。
老遍路に喜捨をしようと思いましたがなぜか言い出せないまま別れました。善意を形にするのは即座に行動する勇気がいるものです。
35番清滝寺はお薬師様がご本尊です。養老7年行基菩薩がご本尊薬師如来を刻まれ開創されその後、大師が修法された満願の日に金剛杖で突くと湧水が湧き出て鏡のようになったといい、寺号を医王山鏡池院清滝寺とされたとされます。
ここでは私の先輩K氏の末期癌の快癒を特におねがいしました。ここの霊水は88箇所中随一と聞きました。本堂に向かって右に滔々と湧き出る霊水があります。飲むと本当に甘い水でした。「空性法親王四国霊場御巡行記」では「・・種間寺過ぎて二淀川水の流れも清滝寺・・」とあります。御詠歌も「すむみつ゛をくめば 心の きよたきじ なみの はなちる いわのはごろも」です。
むかしからここの霊水は有名だったと思われます。あまりにおいしいので写真にとりました。
不思議はそのあとです。
後で拡大すると水小屋の梁に快癒を祈念したK氏と同じ名前のまだ新しい納札が貼られていたのです。同じ名前の人がつい最近遍路にきていたのです。
帰ってK氏に連絡してみると半年もたないといわれたK氏は奇跡的に回方に向かい外国旅行にまで行っていました。医者が驚嘆していました。
お薬師様は衆生の病を癒してくださる仏さまです。平幡師の「四国遍路」によると、以前には本堂にお蔭を受けた人たちの奉納した額・松葉杖・ギブス等が並んでいたようです。
なんというありがたいことでしょうか。四国遍路に何度も来る人がいますがこういうお蔭をいただきお礼に来ている人も多いのだろうと思います。
3度目の遍路のときは境内にワンボックスカーが止まっていました。中から若いご夫婦と小学校3,4年とおもわれる男の子が出てきました。しかしよくみるとまだ中に寝たきりの小さい子がいます。家族で此の子の祈願をして周っているのだとすぐ分かりました。小学生らしき男の子は甲斐甲斐しく霊水を運んでいました。寝たきりの弟に飲ませるためでしよう。両親の前で大人びて行動するのが不憫至極でした。この家族に幸あれと心から祈らずにはいられませんでした。
◇
ここは薬子の乱で出家した平城天皇第三王子高岡親王(のち大師の高弟の真如法親王となる)が渡印を計画された寺でご自身で逆修塔を建てられ、印度へ出発されました。壮絶なご決意です。高岡親王は東南アジアでトラの犠牲となったと伝えられています。(親王はマレーシアのジョホール・ バルで薨去されたとして1970年1月 高野山親王院関係者がここに供養塔を建立されているということです)
清滝寺には真如法親王の森がありますがここはいらずの森ということになっています。原生林のように鬱蒼としげっています。古来斧が入ってないのでです。
清滝寺の麓には「土佐市観光」というタクシー会社の建物が田んぼのなかにたっています。
一回目の遍路の時は帰りにタクシーに乗ろうと立ち寄ったら運転手は出払っていて、社長みずから自家用車で次の遍路宿までお接待していただきました。ここでは35番清滝寺へ登るお遍路さんの荷物を無料で預かってくれます。陰徳をつんでいる会社です。かならず発展すると思いました。