扶桑略記(高野春秋には二十二日となっていますが扶桑略記では道長の参拝は二十三日となっています)
(治安三年1023十月)「同十七日、入道前大相國紀伊金剛峯寺に詣ず・・二十三日払暁、廟所に詣ず。是に於いて山窟雲晴漢天雨晴なり。法華経一部般若理趣経丗部を供養す。權小僧都心誉講師となる。今事情を案ずるに弘法大師は密教の祖師、智証大師の外舅なり。今講師は智証大師の門徒、顕密に兼長す。屈する所故あるなり。演説の詞、富楼那を傳ひ顕密の道、關霧を開くかと疑ふ。僧正申されて言ふ「大師入定の後、漸く二百年とならむとす。廟堂の戸殊に開闔せず。而して先年石山僧都淳祐なる者有り、安住一念 斯以百日、午時、廟堂の戸人無くして少し開く」と。禅下、深くこの語を信ず。観念の中、廟戸桙立(ほこだち)、自ら以って之仆る。満座の眼、忽ち以て之を驚く。瑞相の感此に於いて之を現ぜり。」
栄華物語巻第十五にも
「高野に参らせたまひては、大師の御入定のさまを覗き見たてまつらせたまへば、御ぐし青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、あざやかに見えたり。御色のあはひなどぞ、めづらかなるや。ただねぶりたまへると見ゆ。あはれに弥勒の出世、龍華三会の朝にこそはおどろかせたまはめと見えさせたまふ。」