懺悔道としての哲学より・・・・自己は一通りや二通りの悪人ではない。極重悪人だといいながら、私は極重悪人なることを自覚しておるぞという我執、驕慢が附いてまわる。しかし懺悔は・・自己の為す他の所業と異なり自己の無力を自ら自覚するというより、自己を越えたものよりそれを諾わしめられるというべきである。・・懺悔は不断に繰り返されねばならず、そこに懺悔の無限性がある。(注 1)
懺悔により煩悩を消し去ることはできないにしても、煩悩の裏は涅槃であり、向きがかわれば涅槃にほかならない。真実の光がそこに差し込んで居るかぎり暗になることはない。懺悔に懺悔を無限に重ねながら、そのときそのときにおいて懺悔は完成しているのである。・・・懺悔はかかる極重悪人をもすくい取るゆえにわたしの所業ではありえない。それは念仏の働きであり、弥陀名号の働きである。したがって真宗では「如来よりたまわりたる念仏」(注2)とか「唱えさせられる念仏」とかいうのである。(続
(注 1、われわれは毎日、華厳経からとった懺悔文「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡 、従身語意之所生、一切我今皆懺悔」を読経の前に唱えます。)
(注2、歎異抄に「・・法然聖人のおおせには、『源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。・・』」とあります。
懺悔により煩悩を消し去ることはできないにしても、煩悩の裏は涅槃であり、向きがかわれば涅槃にほかならない。真実の光がそこに差し込んで居るかぎり暗になることはない。懺悔に懺悔を無限に重ねながら、そのときそのときにおいて懺悔は完成しているのである。・・・懺悔はかかる極重悪人をもすくい取るゆえにわたしの所業ではありえない。それは念仏の働きであり、弥陀名号の働きである。したがって真宗では「如来よりたまわりたる念仏」(注2)とか「唱えさせられる念仏」とかいうのである。(続
(注 1、われわれは毎日、華厳経からとった懺悔文「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡 、従身語意之所生、一切我今皆懺悔」を読経の前に唱えます。)
(注2、歎異抄に「・・法然聖人のおおせには、『源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。・・』」とあります。