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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その30

2018-10-30 | 四国八十八所の霊験
38番金剛福寺には朝早くつきすぎて山門が締まっていて入れなかったことがあります。開く時間までと思い門の前で座り瞑想をしていると、門前の土産物屋のおじさんが「ここは7時にならないと入れてくれませんよ」とわざわざ教えてくれます。相当の時間、瞑想できました。7時になり門があき、中に入ると12万平方キロという立派な庭が太平洋の大海原を背景に目前に広がりました。
ここは大師が巡錫中に千手観音様を感得され、嵯峨天皇から「補陀落東門」の勅額を賜って伽藍を建立されたところです。澄禅「四国遍路日記」には「金剛福寺、昔は寺領七千石余にして七百坊在して天正年間にことごとく衰微したるなり。今は寺領百石なり、本堂南向き、本尊千手」とあります。相当の名刹として中村から足摺岬一帯の中心であったのでしょう。頼富本宏「四国遍路とは何か」では「・・三十八番金剛福寺には・・本尊の三面千手観音立像(南北朝時代作)の三面形式は熊野補陀落山本尊と相似したものである。・・・」として金剛福寺は「補陀落信仰の道場であるとともに熊野信仰の拠点であったとも推測される。(17世紀寂本の「四国徧禮」)「霊場記」には『鎮守熊野権現天神の社にあり』とされ近年に熊野社が再建されている」とあります。
たしかに御詠歌は「ふだらくや ここはみさきの ふねのさほ とるもすつるも のりのさだやま」です。ここには歴代渡海行者供養のための「補陀落渡海供養碑」がありました。井上靖「補陀落渡海記」では、熊野補陀落寺の住職金光坊が代々住職の渡海の年61歳の11月となったことによる恐怖と葛藤を記していますが、これは何とかの勘繰り・・というほどの大間違いの解釈です。実際は渡海住職は衆生済度のやむにやみがたい強い願いによって渡海されているのです。そういう意味では、他の四国霊場に多くある、霊場住職の土中入定と全く同じ動機です。
 根井浄『補陀落渡海史』(法蔵館)によると補陀落渡海は平安時代から江戸時代頃まで行なわれ、全国で56例あるとされます。そのうち室戸、足摺岬関連もおおいのです。抜書きします。「・長保年間(999-)日円坊足摺岬より渡海(さた山縁起)。長保3年(1001)11.18 賀登上人足摺岬より渡海(観音講式・発心集・地蔵菩薩霊験記・蹉 山縁起・観音冥応集)・12世紀末? 室戸の蓮台上人南海往生(南路志)・讃岐三位夫の入道入水(発心集・観音冥応集)・理一上人足摺岬より渡海(長門本平家物語)・ある上人室戸岬より渡海(観音利益集)・康元2年(1257)実勝上人室戸岬より渡海(四座講縁起・星尾寺縁起)・康元4年(1259)3月22日、 行者常徳室戸岬より渡海(金剛頂寺文書)・正安4年(1302)以前、ある足摺岬より渡海 (とはずがたり)・享徳4年(1455)阿日上人足摺岬より渡海(さ蹉山縁起)・寛正2年(461)ごろ 正実沙弥足摺岬より渡海(さ蹉 山縁起)・永禄7年(1564) 伊予堀江における渡海(フロイス書簡)・明治42年(1909)天俊、足摺岬沖に補陀落入水(金剛福寺伝承)」というものです。土中入定と同じように明治になっても渡海僧がいたとは驚きと、敬服の至りです。お大師様のおっしゃるように末法はないのだ・・と思わざるを得ません。
こういう歴史のなせる業か、このさきの足摺岬には自殺志願者も多く訪れるところです。こうした伝承も影響しているのかもしれません。田宮虎彦の「足摺岬」もここへ自殺するために来た青年が遍路宿で思いとどまった話が書かれています。宿でお遍路さんが、青年に、過去を語る場面がありました。お遍路さんは、戊辰戦争のときの列藩同盟の藩士で、妻と子を殺してから、薩長連合に切り込みをかけたが死に切れずに生き残った等の話をしているうちに青年は自殺をあきらめ東京へ帰ります。「足摺岬」は、主人公が再び足摺岬を訪れる場面で終わります。田宮虎彦自身はのちに自殺しますが、氏もお遍路をしていればよかったのにと思いました。
 後に述べる44番大宝寺への遍路路で出会った遍路もここ足摺岬へ自殺のために訪れて遍路の鈴の音に救われた人でした。後でのべます。



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