福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

十三佛は自己曼荼羅を導く究極の密教曼荼羅であること・・30

2017-11-30 | 頂いた現実の霊験
十三佛は自己曼荼羅を導く究極の密教曼荼羅であること・・30
第七章
第十二節、大日如来。
   大日如来は純密教佛で密教古来の意味からいえば大日如来とは宇宙を人格的に見た呼称である。換言すれば唯一絶対の大日如来なる名を以て顕現したのである。大師は「世間の浅名を以て法性の深号を顕す」と仰せられた(般若心経秘鍵に「是れ則ち、大般若波羅蜜多菩薩の名なり、即ち是れ人なり。この菩薩に、法曼荼羅・真言三摩地門を具す。一一の字、即ち法なり。この一一の名は、皆世間の浅名を以て法性の深号を表わす。・・」とあり)が、大日の日とは太陽の事である。この日の上に無限絶対を表すべき「大」の字を冠らせて「大日」となし、無限絶対性を発揮せしめた。大日経疏に「世間の日も喩えと為すべからず、但その少分相似を取るのみ、ゆえに加ふるに大の字をもってす」(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一に「以如是等種種因縁。世間之日不可爲喩。但取其少分相似故。加以大名・・・。」)とあるのはこのことである。大日如来は梵語でいえば摩訶・毘盧遮那・佐坦他誐多で、直訳すれば、摩訶は「大」、毘盧遮那は「遍照」、佐坦他誐多は「如来」である。故に合すれば「大毘盧遮那如来」となる。ところで遍く照らすものは「日」であるから、大日如来と義訳したのである。疏には日ということについて除暗遍明と衆務成弁(日光の力で万物が生長すること)と光無生滅(雲に覆われていても滅したのではない)との三義を出して居る。大日如来とは遍法界身で即ち宇宙の総体を云う。横門からいえば宇宙の全部であると同時に竪門からは宇宙発現の本体で而もこの宇宙全部を総轄する所の主体で真言密教を説いたところの教主である。換言すれば大日如来の解釈が密教の宇宙観でまた人生観である。この如き最高最大の佛を十三曼荼羅で十二番目に置いたのはどんな訳か?元来無限とか絶対とかは吾人の思想上には浮かばぬことである。無限を有限に落在せしめ、絶対を相対に対比してはじめてしることができる。しかし吾人が人生観を得ようという場合にはこの無限絶対に対する宇宙観を得て後でなければ真の人生観は得られない。この意味で真の虚空蔵菩薩を知らんと欲せば、大日如来の絶対無限の境界を通過して真の虚空蔵菩薩を認識することが出来るのである。
密教には、同じ仏様を修法壇上の本尊として観ずるのに三重の浅深がある。
第一は、浅略門、観音・勢至の両菩薩は阿弥陀如来の両脇侍とせられておるから観音菩薩を阿弥陀如来の眷属として取り扱う如きもの。第二は、深略門で、観音菩薩は観音菩薩として独立した本尊として観ずるもの。第三は、深秘中の深秘で観音菩薩を唯一絶対の主として観ずるもの。この第三の場合は先ず大日如来を本尊と観じ、その大日如来の心月輪上に観音菩薩を観ずるのである。この境界は全く観音菩薩が唯一絶対の主尊となる。換言すれば観音菩薩は大日如来を通過して真の唯一絶対格を得るのである。この意味を理解すれば十三佛の第十二番目に大日如来が在す意味がよくわかるのである。大日如来を通過した虚空蔵菩薩は自らその趣が無限となるのである。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 十三佛は自己曼荼羅を導く究... | トップ | 聖人と狂人 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

頂いた現実の霊験」カテゴリの最新記事