いよいよ土佐の国にはいります。
24番最御崎寺までは90キロ近くあります。17年の時は番外札所鯖大師に泊まる事にして歩きはじめました。途中牟岐町というところではテントを張った接待所がありました。
女性が三人出てきて私のポンチョ合羽をまっすぐになおしてくれました。以前どこかの札所で土地の古老が「鯖大師は早く着きすぎるともっと先まで歩けと追い出されますよ」等と親切に教えてくれていたのを思い出したので時間調整をしようと接待所の中に座り込みました。その間地元大学作成の遍路に関するアンケートに記入したり、さつまいもを三つも頂いたりして30分以上休みました。そして十二分に休んだので接待所の皆さんに見送られ快調に歩き出しました。しかしそのあと恐ろしいことが待っていたのです。 少し歩くと古江トンネルという小さいトンネルの横に旧遍路道という表示がみえました。
トンネルよりこちらが風情があっていいだろうとなんの気なしにトンネル横の道に入り、表示に従いトンネルの上を通って山道をくもの巣を払いつつ進みました。途中大きな蟹がぞろぞろあるいていました。
「今昔物語集・巻十六・山城国女人依観音助遁蛇難語第十六 」などでは蟹満寺の縁起として観音信者の娘を蟹が大蛇から守る話がでてきます。蟹は子を抱いて育てるところなどから古来霊的な生き物とされています。昔生家の寺の裏山に小さい沢蟹がいて子供心にこんな山奥にどうして蟹がいるのかと不思議だったのを思い出したりしました。
この遍路道の蟹達も何となく行き倒れた無数の遍路の霊のような気がして思わず亡者を成仏させる光明真言を唱えていました。(参考、光明真言は「おんあぼきゃべ いろしゃのう まか ぼだらまに はんどま じんばら はらばりたや うん」です。光明真言和讃には「帰命頂礼大潅頂、光明真言功徳力、諸仏菩薩の光明を二十三字に蔵めたり、『おん』の一字を唱うれば、三世の仏にことごとく香華燈明飯食の供養の功徳具われり『あぼきゃ』と唱うる功力には、諸仏諸菩薩もろともに二世の求願をかなえしめ、衆生を救け給うなり、『べいろしゃのう』と唱うれば、唱うる我等が其のままに、大日如来の御身にて説法し給う姿なり、『まかぼだら』の大印(だいいん)は、生仏不二と印可して、一切衆生をことごとく、菩提の道にぞ入れ給う、『まに』の宝珠の利益には、此世をかけて未来まで、福寿意(こころ)の如くにて、大安楽の身とぞなる。『はんどま』唱うるその人はいかなる罪も消滅し、華の台に招かれて、心の蓮を開くなり『じんばら』唱うる光明に無明変じて明となり、数多の我等を摂取して有縁の浄土に安(お)き給う。『はらばりたや』を唱うれば、万の願望成就して、仏も我等も隔てなき、神通自在の身を得べし、『うん』字を唱うる功力には、罪障深きわれわれが、造りし地獄も破られて、忽ち浄土と成りぬべし、亡者のために呪を誦じて、土砂をば加持し回向せば、悪趣に迷う精霊も速得解脱と説きたまう、真言醍醐の妙教は、余教超過の御法にて、無辺の功徳具われり説くともいかで尽くすべき、南無大師遍照尊、南無大師遍照尊、南無大師遍照尊」)とあります。)
なおもいくと海の方に向けて矢印がありそれにしたがって歩いていると、突然道が途絶えました。大波でさらわれたか地震で崩れたかしたらしく10数メートルはあろうかと思われるはるか下の海岸まで切り立った崖になっているのです。
ここで引き返せばよかったのですがお遍路は来た道を引き返すということが心理的にできないのです。1キロ以上はあるいて来たものですから引き返せなくてそのまま松の木の根っこにつかまり海岸までズルズルと下りてしまいました。海岸は岩ばかりで奥まった所に波が運んできた大きなゴミの堆積物がありました。このゴミの山の辺りに何とも言えない不気味な気配を感じます。 こんな不気味な気持ちは初めてです。
遍路道が途絶え仕方なく崖を降りて海辺に出ましたが、岩ばかりで標識などあるわけがありません。岩の間を這うようにして前にすすみます。しかし行けども行けども海と岩ばかり。暗い灰色の海からはドドーンと絶えず山のような波が打ち寄せます。そうしているうち突然原因不明の呼吸困難に陥り、岩の間にかがみこまざるをえなくなりました。 なぜかまったく息ができなくなりました。必死に息を吸い込もうとしますが吸えません。肺が詰まってしまったような感覚です。息が出来ないまま岩の上にうつぶせにならざるを得ません。是で死ぬのかなと思いました。相当な時間が経ったような気がします。寄せくる灰色の大波を見ながら、なぜか太平洋戦争で潜水艦で戦死した叔父のことが突然頭をよぎりました。遠い南洋の海中で息ができず溺死したときは、さぞかし寂しく、苦しく無念だったろうと思いました。大波をみながら自分も自宅から遥かに離れたこんなところで窒息死するのだという恐怖心が頭をよぎります。
昔のお遍路さんならもともと死出の旅ですから「有難い、これでお大師様のところにいける」と思ったかもしれませんが自分はいざとなると全く覚悟ができてないことを思い知らされます。今迄何十年もさんざんお大師様を拝んできたつもりなのにすっかりそういうことは忘れてしまっています。現世への未練たらたらでした。自分は行者としてこれから本格的な行をしなければならないし、まだ家族の面倒もみなければならないのだと思い、必死で八十八所掛け軸や納経帳を抱きしめました。「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」と唱え続けました。
そのうち目の前の岩が明るくみえはじめました。なぜかそこへ行けば助かると思いました。必死でそこへ這っていくと徐徐に呼吸もできるようになりました。「ありがたいこれで助かった」と思いました。額を岩に擦り付けてお大師様にお礼をしました。
「お前の死ぬときはこうして呼吸困難で死ぬことになるぞ」と教えていただいたのかもしれませんし、また遥か南洋で潜水艦で死んだ伯父の供養もせよとのお諭だったのかもしれません。それにしても不思議なそして不気味な出来事でした。
真念「四国徧礼功徳記」には遍路修業の心得として「・・徧礼する人の中にもさまざまなことがある。例えば若く健康な人でもにわかに足がすくみ気分が悪くなることがある。しかし懺悔し願を立てればやがてよくなる。また年が七十八十になる老人ですら、健康のまま巡ることもある。人々の信心の程度に応じていろいろな相が現れて、かつは恥ずかしく、かつは尊く思えるのである」とありました。まさに自分自身を恥ずかしく思った次第です。
続日本紀には土佐の国は神亀元年(724)遠流の地にさだめられたとあります。万葉歌人として名高い石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)は密通により土佐にながされ「父君にわれは愛子(まなこ)ぞ 母刀自(ははとじ)に われは愛子(まなこ)ぞ 参上(まいのぼる)八十氏人(やそうじびと)の手向けする恐(かしこ)の坂に幣奉り われはぞ退(まか)る遠き土佐道を」(都へ上る多くの旅人が手向けをして越えていく恐ろしい国境の峠で私は遠い土佐への道を下っていく。)という歌を万葉集に残しています。
日本霊異記にも「親王(長屋王)の骨は土佐国にながしつ。ときにその国の百姓死ぬるひと多し。・・・親王の気によりて国の内の百姓みな死に亡すべし。」などという記述があることをあとで知りました。奈良時代は橘奈良麻呂の乱に連座した大友古慈斐、藤原仲麻呂の乱に連座した池田親王、その後道鏡に連座した弟の弓削浄人、広方、広田、広津などおおくの貴種が流されてきています。こういう流人の地として 土佐の海岸は恐れられていたようです。
その後海岸の岩から岩へと歩き続けて、やっとはるか上に国道のガードレールが姿を現したので、背丈以上の萱草を掻き分けつつよじのぼりました。国道に這い上がるとすぐそこが番外鯖大師でした。
24番最御崎寺までは90キロ近くあります。17年の時は番外札所鯖大師に泊まる事にして歩きはじめました。途中牟岐町というところではテントを張った接待所がありました。
女性が三人出てきて私のポンチョ合羽をまっすぐになおしてくれました。以前どこかの札所で土地の古老が「鯖大師は早く着きすぎるともっと先まで歩けと追い出されますよ」等と親切に教えてくれていたのを思い出したので時間調整をしようと接待所の中に座り込みました。その間地元大学作成の遍路に関するアンケートに記入したり、さつまいもを三つも頂いたりして30分以上休みました。そして十二分に休んだので接待所の皆さんに見送られ快調に歩き出しました。しかしそのあと恐ろしいことが待っていたのです。 少し歩くと古江トンネルという小さいトンネルの横に旧遍路道という表示がみえました。
トンネルよりこちらが風情があっていいだろうとなんの気なしにトンネル横の道に入り、表示に従いトンネルの上を通って山道をくもの巣を払いつつ進みました。途中大きな蟹がぞろぞろあるいていました。
「今昔物語集・巻十六・山城国女人依観音助遁蛇難語第十六 」などでは蟹満寺の縁起として観音信者の娘を蟹が大蛇から守る話がでてきます。蟹は子を抱いて育てるところなどから古来霊的な生き物とされています。昔生家の寺の裏山に小さい沢蟹がいて子供心にこんな山奥にどうして蟹がいるのかと不思議だったのを思い出したりしました。
この遍路道の蟹達も何となく行き倒れた無数の遍路の霊のような気がして思わず亡者を成仏させる光明真言を唱えていました。(参考、光明真言は「おんあぼきゃべ いろしゃのう まか ぼだらまに はんどま じんばら はらばりたや うん」です。光明真言和讃には「帰命頂礼大潅頂、光明真言功徳力、諸仏菩薩の光明を二十三字に蔵めたり、『おん』の一字を唱うれば、三世の仏にことごとく香華燈明飯食の供養の功徳具われり『あぼきゃ』と唱うる功力には、諸仏諸菩薩もろともに二世の求願をかなえしめ、衆生を救け給うなり、『べいろしゃのう』と唱うれば、唱うる我等が其のままに、大日如来の御身にて説法し給う姿なり、『まかぼだら』の大印(だいいん)は、生仏不二と印可して、一切衆生をことごとく、菩提の道にぞ入れ給う、『まに』の宝珠の利益には、此世をかけて未来まで、福寿意(こころ)の如くにて、大安楽の身とぞなる。『はんどま』唱うるその人はいかなる罪も消滅し、華の台に招かれて、心の蓮を開くなり『じんばら』唱うる光明に無明変じて明となり、数多の我等を摂取して有縁の浄土に安(お)き給う。『はらばりたや』を唱うれば、万の願望成就して、仏も我等も隔てなき、神通自在の身を得べし、『うん』字を唱うる功力には、罪障深きわれわれが、造りし地獄も破られて、忽ち浄土と成りぬべし、亡者のために呪を誦じて、土砂をば加持し回向せば、悪趣に迷う精霊も速得解脱と説きたまう、真言醍醐の妙教は、余教超過の御法にて、無辺の功徳具われり説くともいかで尽くすべき、南無大師遍照尊、南無大師遍照尊、南無大師遍照尊」)とあります。)
なおもいくと海の方に向けて矢印がありそれにしたがって歩いていると、突然道が途絶えました。大波でさらわれたか地震で崩れたかしたらしく10数メートルはあろうかと思われるはるか下の海岸まで切り立った崖になっているのです。
ここで引き返せばよかったのですがお遍路は来た道を引き返すということが心理的にできないのです。1キロ以上はあるいて来たものですから引き返せなくてそのまま松の木の根っこにつかまり海岸までズルズルと下りてしまいました。海岸は岩ばかりで奥まった所に波が運んできた大きなゴミの堆積物がありました。このゴミの山の辺りに何とも言えない不気味な気配を感じます。 こんな不気味な気持ちは初めてです。
遍路道が途絶え仕方なく崖を降りて海辺に出ましたが、岩ばかりで標識などあるわけがありません。岩の間を這うようにして前にすすみます。しかし行けども行けども海と岩ばかり。暗い灰色の海からはドドーンと絶えず山のような波が打ち寄せます。そうしているうち突然原因不明の呼吸困難に陥り、岩の間にかがみこまざるをえなくなりました。 なぜかまったく息ができなくなりました。必死に息を吸い込もうとしますが吸えません。肺が詰まってしまったような感覚です。息が出来ないまま岩の上にうつぶせにならざるを得ません。是で死ぬのかなと思いました。相当な時間が経ったような気がします。寄せくる灰色の大波を見ながら、なぜか太平洋戦争で潜水艦で戦死した叔父のことが突然頭をよぎりました。遠い南洋の海中で息ができず溺死したときは、さぞかし寂しく、苦しく無念だったろうと思いました。大波をみながら自分も自宅から遥かに離れたこんなところで窒息死するのだという恐怖心が頭をよぎります。
昔のお遍路さんならもともと死出の旅ですから「有難い、これでお大師様のところにいける」と思ったかもしれませんが自分はいざとなると全く覚悟ができてないことを思い知らされます。今迄何十年もさんざんお大師様を拝んできたつもりなのにすっかりそういうことは忘れてしまっています。現世への未練たらたらでした。自分は行者としてこれから本格的な行をしなければならないし、まだ家族の面倒もみなければならないのだと思い、必死で八十八所掛け軸や納経帳を抱きしめました。「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」と唱え続けました。
そのうち目の前の岩が明るくみえはじめました。なぜかそこへ行けば助かると思いました。必死でそこへ這っていくと徐徐に呼吸もできるようになりました。「ありがたいこれで助かった」と思いました。額を岩に擦り付けてお大師様にお礼をしました。
「お前の死ぬときはこうして呼吸困難で死ぬことになるぞ」と教えていただいたのかもしれませんし、また遥か南洋で潜水艦で死んだ伯父の供養もせよとのお諭だったのかもしれません。それにしても不思議なそして不気味な出来事でした。
真念「四国徧礼功徳記」には遍路修業の心得として「・・徧礼する人の中にもさまざまなことがある。例えば若く健康な人でもにわかに足がすくみ気分が悪くなることがある。しかし懺悔し願を立てればやがてよくなる。また年が七十八十になる老人ですら、健康のまま巡ることもある。人々の信心の程度に応じていろいろな相が現れて、かつは恥ずかしく、かつは尊く思えるのである」とありました。まさに自分自身を恥ずかしく思った次第です。
続日本紀には土佐の国は神亀元年(724)遠流の地にさだめられたとあります。万葉歌人として名高い石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)は密通により土佐にながされ「父君にわれは愛子(まなこ)ぞ 母刀自(ははとじ)に われは愛子(まなこ)ぞ 参上(まいのぼる)八十氏人(やそうじびと)の手向けする恐(かしこ)の坂に幣奉り われはぞ退(まか)る遠き土佐道を」(都へ上る多くの旅人が手向けをして越えていく恐ろしい国境の峠で私は遠い土佐への道を下っていく。)という歌を万葉集に残しています。
日本霊異記にも「親王(長屋王)の骨は土佐国にながしつ。ときにその国の百姓死ぬるひと多し。・・・親王の気によりて国の内の百姓みな死に亡すべし。」などという記述があることをあとで知りました。奈良時代は橘奈良麻呂の乱に連座した大友古慈斐、藤原仲麻呂の乱に連座した池田親王、その後道鏡に連座した弟の弓削浄人、広方、広田、広津などおおくの貴種が流されてきています。こういう流人の地として 土佐の海岸は恐れられていたようです。
その後海岸の岩から岩へと歩き続けて、やっとはるか上に国道のガードレールが姿を現したので、背丈以上の萱草を掻き分けつつよじのぼりました。国道に這い上がるとすぐそこが番外鯖大師でした。