遍路宿に次々と泊まり四万十川を渡り足摺岬近くまできました。
ここあたりの国道は大きなトラックや観光バスが猛スピードで行き交います。その巻き起こす風圧で笠などすぐ飛ばされてしまいます。何度も笠に手をかけて押さえます。まるで昔テレビで見た木枯し紋次郎のようで自分でもおかしくなります。しかし車の風圧は深刻です、小柄な女性は風の渦で車輪に巻き込まれることもあると聞きます。 そしてなにより可愛そうなのが蝶です。無数の蝶が風圧に煽られてアスファルトに叩きつけられていました。中には失速して道に横たわっているだけの蝶もいて、それらは羽をそっと持って離れた叢に置いてやりました。数え切れない数です。キリがありません。
また蝸牛やだんごむし・バッタなども轢かれてアスファルトのうえで干からびています。生きている虫たちはできる限りもとの叢に戻し、車に轢かれた蛇も何匹か道端の叢に安置してやりました。ロードキルというそうです。最近では動物横断のためのエコロードというものも作られはじめていると聞きますがそんなものは焼け石に水です。
◇
それにしてもこうして無数の生き物が人間にとって「便利だから」ということだけのために毎日犠牲になっていることなど東京や大阪で生活している人々には想像もできないでしょう。それどころか無数の動植物のいのちを更に娯楽の対象として奪って平気でいます。無限の過去から続いている我々の命はそれぞれの生で計り知れない生命を犠牲にして今日まで続いてきています。累計すると天文学的数になるでしょう。 24年の区切り打ちで60番横峯寺から降りてくるときも無数のミミズがお遍路の車に轢かれて千切れて悶えていました。お遍路に来てまで殺生をしなければならないというなんともいえない人間の業の底知れない深さをこのときも思い知らされました。こういう現象をどう考えていいのかわかりませんでした。
こういうどうしようもない業にたいして、我々はいくら懺悔しても足りないのですが、遍路でのお参りの時も、お経を読む前には必ず懺悔文「我昔(がしゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょあくごう) 皆由(かいゆ)無始(むし)貧瞋痴(とんじんち) 従身(じゅうしん)語意(ごい)之(し)所生(しょしょう) 一切(いっさい)我(が)今皆(こんかい)懺悔(さんげ)」
(私が昔から作ってきた諸々の悪業は、皆無始以来の貧瞋痴により、身と口と心でこれをつくりだしてきました。 今一切を仏様に懺悔いたします。)を唱えます。
更に密教僧は護身法といって行の前に印を結びますがその最初が「浄三業」という印です。また「三密観」という印も結ぶことがあります。これらは自分の身口意で犯してきた罪を徹底的に一つ一つ思い出して懺悔するものです。これが徹底してできれば行は成就すると言われていますが、いままでの罪業をすべて思い出すのも大変なことです。いつも傷口に塩を自分で塗りこめているような気がします。更に過去世の罪まで遡って懺悔するとなると相当想像力を要しますし行の時間も懸かります。わたしも遍路途中で思い出したくもない過去の罪業をかなり毎回懺悔できるようにはなりましたが無意識の裡に犯している罪は全く自覚出来ていません。
ここあたりの国道は大きなトラックや観光バスが猛スピードで行き交います。その巻き起こす風圧で笠などすぐ飛ばされてしまいます。何度も笠に手をかけて押さえます。まるで昔テレビで見た木枯し紋次郎のようで自分でもおかしくなります。しかし車の風圧は深刻です、小柄な女性は風の渦で車輪に巻き込まれることもあると聞きます。 そしてなにより可愛そうなのが蝶です。無数の蝶が風圧に煽られてアスファルトに叩きつけられていました。中には失速して道に横たわっているだけの蝶もいて、それらは羽をそっと持って離れた叢に置いてやりました。数え切れない数です。キリがありません。
また蝸牛やだんごむし・バッタなども轢かれてアスファルトのうえで干からびています。生きている虫たちはできる限りもとの叢に戻し、車に轢かれた蛇も何匹か道端の叢に安置してやりました。ロードキルというそうです。最近では動物横断のためのエコロードというものも作られはじめていると聞きますがそんなものは焼け石に水です。
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それにしてもこうして無数の生き物が人間にとって「便利だから」ということだけのために毎日犠牲になっていることなど東京や大阪で生活している人々には想像もできないでしょう。それどころか無数の動植物のいのちを更に娯楽の対象として奪って平気でいます。無限の過去から続いている我々の命はそれぞれの生で計り知れない生命を犠牲にして今日まで続いてきています。累計すると天文学的数になるでしょう。 24年の区切り打ちで60番横峯寺から降りてくるときも無数のミミズがお遍路の車に轢かれて千切れて悶えていました。お遍路に来てまで殺生をしなければならないというなんともいえない人間の業の底知れない深さをこのときも思い知らされました。こういう現象をどう考えていいのかわかりませんでした。
こういうどうしようもない業にたいして、我々はいくら懺悔しても足りないのですが、遍路でのお参りの時も、お経を読む前には必ず懺悔文「我昔(がしゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょあくごう) 皆由(かいゆ)無始(むし)貧瞋痴(とんじんち) 従身(じゅうしん)語意(ごい)之(し)所生(しょしょう) 一切(いっさい)我(が)今皆(こんかい)懺悔(さんげ)」
(私が昔から作ってきた諸々の悪業は、皆無始以来の貧瞋痴により、身と口と心でこれをつくりだしてきました。 今一切を仏様に懺悔いたします。)を唱えます。
更に密教僧は護身法といって行の前に印を結びますがその最初が「浄三業」という印です。また「三密観」という印も結ぶことがあります。これらは自分の身口意で犯してきた罪を徹底的に一つ一つ思い出して懺悔するものです。これが徹底してできれば行は成就すると言われていますが、いままでの罪業をすべて思い出すのも大変なことです。いつも傷口に塩を自分で塗りこめているような気がします。更に過去世の罪まで遡って懺悔するとなると相当想像力を要しますし行の時間も懸かります。わたしも遍路途中で思い出したくもない過去の罪業をかなり毎回懺悔できるようにはなりましたが無意識の裡に犯している罪は全く自覚出来ていません。