釈雲照師「十善業道経講義」
「十善業道経に『忍辱の荘厳のゆえに仏の円音を得て衆の衆好を具し』とある・・(以前、「忍辱」とはいかにも消極的な言葉で前近代的で好きになれませんでしたが先日アップしたようにパラリンピアンの「状況を受け入れることは限界を受け入れることではない」という言葉に出会い、この「忍辱」というのはまさにこれであろうと思いました。状況は受け入れるがそこに甘んじるのではなく果敢に状況に挑戦するということでした。)
・忍辱に法忍と衆生忍とがある。・・
・「衆生忍」とは人に対する堪忍。
・「法忍」とは雨が降ってかなわぬとか、風が吹いていけないとか、病気で苦しくてかなわぬとかいう、それをよく辛抱する、これが法忍という。
・「円音」とは仏は円満にしてかけたところがないから一音を以て説法なさるのを十人が聞くと十人共にありがたいとお受けをし十人共にその意に適う。百人聞けば百人共に適う。千人万人が聞くと千人万人共にその意に適ふて皆我がために結構なご説法をしてくださるありがたいことじゃというて色を好むものはその色を好む心が止み、腹を立てるものはその腹を立てる心が止む。・・無慈悲なものは無慈悲の心が止んで慈悲の者になる。このように仏の一音の中に衆生のその類その類に随って各その解を得、利益を蒙ることである。仏の演説説法はただ一音であるけれども衆生が各その類に随ってその解釈を異にし皆我がために説法なさると思う。こういうのが円音というものじゃ。
・「衆の相好を具す」とは立派な容貌、身体の具合、手の挙げよう、足の下ろしようがよくできてくるのである。」・・・釈雲照師「十善業道経講義」