1/4,今年も、早や、師走を迎え、何かと、気ぜわしい時期となりました。福聚講(高原耕昇講元)は、12月6日(日)、本年最後となる、第8回目の江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行を行いました。この日は、好天気に恵まれ、日中は、歩いていると汗が出るくらいの気温でした。午前10時、東京メトロ地下鉄方南町駅集合。この日は、常連組、7人で、定刻にスタート。駅の出口を出て、大通りの横断歩道を渡ろうとしたとき、後から、慌しくN・T子さんが、駆けつけてきて、無事、合流できました。N・T子さんは、病院に入院、治療を受けていたお母さんが、退院して、自宅に戻れたので、この日、年の最後となる巡礼行に参加して、お母さんが、無事、退院出来た事などを、仏さまにお礼参りをしたいとの一念で、群馬・前橋から、駆けつけて来ました。これで、総員8人(婦人2人)の巡拝行と成りました。
Sさんの案内で、中野・南台の住宅通りを歩くこと15分。第一番札所である寶福寺に着きました。
江戸三十三観音(昭和新撰江戸札所)第17番札所。如意輪山 寶福寺(東京都中野区南台3-43-2)
本尊 如意輪観世音菩薩 宗派 真言宗豊山派
縁起 昔、聖徳太子が、諸国巡遊された時、紫雲たなびくこの地を霊地として、堂宇を建立、如意輪観音像を奉安、国家安穏を祈願されたときからが、寺の始まりといいます。その後、聖武天皇の時代に、信行大僧都が、当地に来て,住み着き、霊感によって、聖徳太子孝養の像を刻んで、祀り、求世菩薩行を実践して、人々に教化に努めたそうです。しかし、その後は、長い歳月が流れましたが、浄僧おらず、香華を捧げる人たちもいなくなり、消息がわからなくなりました。
寛元時代、守海上人が、この地にこられ、荒れ果てた諸堂を改修し、中興第一世と称せられました。また、正徳年間、第十六世・栄雅大僧都が、当地の秋元氏に生れ、修行の末、秘法の伝授を受け、感激のしるしに、本堂を改修し,法流を開基、門前に等身大の石地蔵を造立しました。さらに、天保年間、栄勝法印が、客殿を建立。昭和9年、弘法大師の御遠忌を記念して観音堂が、改築されました。中野観音と言われて、人々から信仰されてきたと言い伝えられています。
大通りから、住宅街に入り、片側に、杉の木立や、黄色に染まった木々が並び、反対側には、大きなビルに挟まれたアスフアルトのうえに、石畳が並べられた長い参道を歩くと、寶福寺の、正面入口の石柱にたどり着きます。参道には、黄色の葉が散乱していて、季節の終わりを感じさせられました。木造と鉄筋コンクリートの折衷建築である本堂に上がります。折から、ご本尊の鎮座まします祭壇前には、法事が行われる用意が施され、椅子が並べられていました。このため、私たちは、この祭壇となりに、白地の薄い御簾で囲まれているもう一つの祭壇に向かって、勤行をお勤めしました。私たちの、笈ずる白装束姿を見て、住職である斉藤真純大僧正が、本堂のこれから、法事を行う祭壇の説明をしていただきました。祭壇奥には、仏画が描かれた布が下げ飾られていて、祭壇全体の照明効果を考慮した仏燈が、天井から吊り下げられあり、仏燈の点滅する数によって、内陣を暗くしたり、明るくしたりして、照明効果によって、仏の神秘な効果を演出するそうです。仏画を、仏燈の明るさを調節して、美的効果と深遠な仏の神秘を表すことは、光源の出し方に工夫を要し、斉藤住職様は、西洋名画のレオナルド・ダビンチの最後の晩餐の絵の光源の取り方など西洋美術研究の一端を紹介されるなど、熱心に説明いただきました。お話しですと、隣にある、御簾で囲まれた内陣と、ご本尊に関する話の方が、もっと面白い内容がある。今回は、時間がないから、また、次の機会にしましょうと、仰つて戴きました。
話は、変わりますが、寶福寺の入口に、掲示板があり、「寶福寺観音堂再建ご寄付のお願い」のポスターが貼られていました。内容は、「平成21年7月9日早朝の火災により、観音堂が全焼し、以来総代世話人等と再建について約三年間協議の結果、再建することが決まりました。落慶は、平成二十七年秋ごろ予定しております。時節がら誠にご負担な事とは存じますが、上記趣旨をご理解ご賛同の上、ご寄付くださいますようお願い申し上げます。合掌」とあり、観音堂建築の詳細な、設計図が、添えられていました。
確かに、お寺は、住職個人の物ではありません。本来、お寺の僧侶は、ご本尊をお守りし、仏道修行が、本務で、世俗社会で、働くことはまったくせず、無収入のはずです。観音堂の建設資金をどうするのか。人から、戴くことしかないでしょう。檀家があれば、檀家の人たち、熱心な信者のひとたち等等、所詮、人様から、戴くしかない。というのが実情だと思います。ですから、僧侶は、人々に、仏を信じ、生きる力を与え、精一杯生きることに努める。その見返りとして、お寺をあたえらる。住む所を与えられるものだと思うのです。お寺は、宗教法人として、固定資産税は、免除されています。端的に言えば、お寺というのは、皆が作った公共物でもあるでしょう。個人の財産では有りません。しかし、話は、飛躍しますが、最近、私が、見聞きするお寺さんは、住職が、結婚して、こどもをつくり、子供が大きくなって、父親の住職から世襲で、お寺を引き継ぎ、既得した権益を受け継いでゆくという現実を目の当たりにします。俗世の相続とちっとも変わらない。お寺は、私有物かとつい、錯覚を起こします。佛教でも大乗仏教国である日本の、最も、特異な現状ではないかと、思うことしきりです。つい、寶福寺の掲示板を見て、思った次第です。
御詠歌 うつろなる この世にありて たのみする 如意の観音宝福の寺
Sさんの案内で、中野・南台の住宅通りを歩くこと15分。第一番札所である寶福寺に着きました。
江戸三十三観音(昭和新撰江戸札所)第17番札所。如意輪山 寶福寺(東京都中野区南台3-43-2)
本尊 如意輪観世音菩薩 宗派 真言宗豊山派
縁起 昔、聖徳太子が、諸国巡遊された時、紫雲たなびくこの地を霊地として、堂宇を建立、如意輪観音像を奉安、国家安穏を祈願されたときからが、寺の始まりといいます。その後、聖武天皇の時代に、信行大僧都が、当地に来て,住み着き、霊感によって、聖徳太子孝養の像を刻んで、祀り、求世菩薩行を実践して、人々に教化に努めたそうです。しかし、その後は、長い歳月が流れましたが、浄僧おらず、香華を捧げる人たちもいなくなり、消息がわからなくなりました。
寛元時代、守海上人が、この地にこられ、荒れ果てた諸堂を改修し、中興第一世と称せられました。また、正徳年間、第十六世・栄雅大僧都が、当地の秋元氏に生れ、修行の末、秘法の伝授を受け、感激のしるしに、本堂を改修し,法流を開基、門前に等身大の石地蔵を造立しました。さらに、天保年間、栄勝法印が、客殿を建立。昭和9年、弘法大師の御遠忌を記念して観音堂が、改築されました。中野観音と言われて、人々から信仰されてきたと言い伝えられています。
大通りから、住宅街に入り、片側に、杉の木立や、黄色に染まった木々が並び、反対側には、大きなビルに挟まれたアスフアルトのうえに、石畳が並べられた長い参道を歩くと、寶福寺の、正面入口の石柱にたどり着きます。参道には、黄色の葉が散乱していて、季節の終わりを感じさせられました。木造と鉄筋コンクリートの折衷建築である本堂に上がります。折から、ご本尊の鎮座まします祭壇前には、法事が行われる用意が施され、椅子が並べられていました。このため、私たちは、この祭壇となりに、白地の薄い御簾で囲まれているもう一つの祭壇に向かって、勤行をお勤めしました。私たちの、笈ずる白装束姿を見て、住職である斉藤真純大僧正が、本堂のこれから、法事を行う祭壇の説明をしていただきました。祭壇奥には、仏画が描かれた布が下げ飾られていて、祭壇全体の照明効果を考慮した仏燈が、天井から吊り下げられあり、仏燈の点滅する数によって、内陣を暗くしたり、明るくしたりして、照明効果によって、仏の神秘な効果を演出するそうです。仏画を、仏燈の明るさを調節して、美的効果と深遠な仏の神秘を表すことは、光源の出し方に工夫を要し、斉藤住職様は、西洋名画のレオナルド・ダビンチの最後の晩餐の絵の光源の取り方など西洋美術研究の一端を紹介されるなど、熱心に説明いただきました。お話しですと、隣にある、御簾で囲まれた内陣と、ご本尊に関する話の方が、もっと面白い内容がある。今回は、時間がないから、また、次の機会にしましょうと、仰つて戴きました。
話は、変わりますが、寶福寺の入口に、掲示板があり、「寶福寺観音堂再建ご寄付のお願い」のポスターが貼られていました。内容は、「平成21年7月9日早朝の火災により、観音堂が全焼し、以来総代世話人等と再建について約三年間協議の結果、再建することが決まりました。落慶は、平成二十七年秋ごろ予定しております。時節がら誠にご負担な事とは存じますが、上記趣旨をご理解ご賛同の上、ご寄付くださいますようお願い申し上げます。合掌」とあり、観音堂建築の詳細な、設計図が、添えられていました。
確かに、お寺は、住職個人の物ではありません。本来、お寺の僧侶は、ご本尊をお守りし、仏道修行が、本務で、世俗社会で、働くことはまったくせず、無収入のはずです。観音堂の建設資金をどうするのか。人から、戴くことしかないでしょう。檀家があれば、檀家の人たち、熱心な信者のひとたち等等、所詮、人様から、戴くしかない。というのが実情だと思います。ですから、僧侶は、人々に、仏を信じ、生きる力を与え、精一杯生きることに努める。その見返りとして、お寺をあたえらる。住む所を与えられるものだと思うのです。お寺は、宗教法人として、固定資産税は、免除されています。端的に言えば、お寺というのは、皆が作った公共物でもあるでしょう。個人の財産では有りません。しかし、話は、飛躍しますが、最近、私が、見聞きするお寺さんは、住職が、結婚して、こどもをつくり、子供が大きくなって、父親の住職から世襲で、お寺を引き継ぎ、既得した権益を受け継いでゆくという現実を目の当たりにします。俗世の相続とちっとも変わらない。お寺は、私有物かとつい、錯覚を起こします。佛教でも大乗仏教国である日本の、最も、特異な現状ではないかと、思うことしきりです。つい、寶福寺の掲示板を見て、思った次第です。
御詠歌 うつろなる この世にありて たのみする 如意の観音宝福の寺