福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの「江戸33観音東京10社巡拝記録」3/5

2015-11-21 | 開催報告/巡礼記録
3、11月8日午前11時15分、同寺を後にして、表通りに出ます。隣は、見事な朱色の大鳥居が屹立しています。牛込高田の穴八幡宮です。通りの向かい側は、大勢の学生達がぞろぞろ列を成して、歩いています。早稲田大学・文学部の校舎が並び立っており、この日は、文化祭が催されているそうです。 第3番礼所 穴八幡宮(東京都新宿区西早稲田2-1-11) 御祭神 応神天皇[品陀和気命]仲哀天皇[帯中日子命]神功皇后(息長帯比売命)
放生寺の境内を隣り合わせる穴八幡宮は、江戸時代まで、神仏一体として、寺社の区別はなく別当とよばれる僧侶(放生寺住職)が、社務を執り、開創以来350年の歴史のうち、230年は、「光松山放生寺八幡宮」として、神寺一体、一つのものとして発展し徳川家代々の祈願寺として多くの尊信を得てきたものでした。しかし、明治維新になって、明治政府の神道国教化政策の一環として、神仏分離が布告、断行されました。明治2年,当時の放生寺第十六世実光上人の徒弟、景明坊が復飾し、高田近江と名乗り、穴八幡の神主となり、「寺」と「社」を分割して、現在に至っています。一言添えると、「一陽来福」のお守りは、寺と神社を分割する以前(天保年間)から、除災招福・金銀融通の祈祷を修して信徒に授けたのが始まりです。少し長くなりますが、この際ですので、「寺」と「神社」のお守りの違いについて、おはなししておきます。
「寺」と「神社」では、お守りの違いは?
お守りのご利益(金銀融通)、貼る方角、授与する期間は、同じですが、「一陽来フク」の「フク」の字が違います。江戸時代から、授与しているお守りは、「寺」のほうは、」「福」の字を用いています。神社のお守りは、「一陽来復」です。
Q、「寺」と「神社」のお守りを、両方祀ってもいいでしょうか?
A,神様も、仏さまも、私たちをお守りいただいています。昔は、一つだったものが、お寺と神社に分かれて現在に至っているわけで、双方のお守りをお祀りすることはいいことです。
Q,「寺」と「神社」で、受けた場合、どのように、お祀りすればいいでしょうか?
A,お寺と神社のお守りを祀られる場合は、方角にズレなどがありますので、縦に並べてお祀りされることがよいでしょう。その際、お守りの形等から、神社のお守りを上にされてお祀りされるとよいでしょう。
Q,家に不幸があっても祀つてもいいのでしょうか?
A,例えば、身内がなくなった場合、風習として、神棚を四十九日までの間、結界してしまいますが、「一陽来福」は、幸、不幸関係なくお祀りして頂いて結構です。(放生寺ンパンフレットより)
穴八幡宮の由緒です。 康平5年(1062年)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が、凱旋の折、日本武尊命の先蹝に倣って、この地に、兜と太刀をおさめて、氏神、八幡宮を勧請し、長く東北鎮護の社としてっ祀られました。
寛永18年(1641年)宮守の庵を作るため、南側の山裾を切り開いた所、神穴が出現し、この時期から、穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年、この地に居住していた幕府の祐筆、大橋龍慶が、方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。このころ、神木の松から、瑞光を放ち、いろいろ奇瑞のあったことが三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。慶安元年(1648年)社殿再興のおりに、幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安2年(1649年)社殿を始め数々の殿舎が、竣工し、8800余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して、将軍家祈願所としての規模も整い、以後、江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も、幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、とくに、元禄16年(1703年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。
安政元年(1854年))青山火事のため類焼し、幕府より造営料などが、奉納されましたが幕末の多事と物価高騰のため、仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後、昭和初年に、旧時の盛観に復しましたが、今次の大戦により、社殿は、ことごとく烏有に帰しました。しかし、戦後は、いち早く、仮社殿により再興し、その後、崇敬者の御芳志等により、平成元年から、慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿・後社殿の造営を始め、平成十年の随神門竣工をもちまして、往時を偲ぶ姿に復し引き続きその他の再建、又、境内地の整備に着手し、今日に至っています。(由緒札から)
また、小雨が降りだしました。広々とした神域を囲むように植えられた松並木が、小雨に洗われて、光り輝いています。朱色の山門も目も鮮やかに映えて見えます。参詣人は、まばらでしたが、一足早く、七五三のお参りをする親子連れが、数組、思い思いに、記念写真を撮っていました。この日に備えて、羽織袴の男の子、色鮮やかな振袖姿の女の子.両親も正装して、揃って、神殿に入り、神主から、玉串のお祓いを受けていました。微笑ましい、この季節ならではの風物詩です。
この穴八幡宮の神社と、放生寺を合わせた、往時の聖域を想像してみると江戸幕府始め、大名旗本たちの寄進などがあり、豪勢な光景が眼に浮かびます。しかし、明治維新後は、神社維持の資源であった拝領屋敷地、御旅所、門前町屋、境内山林など全て、明治政府から上地を命ぜられ、神仏分離の強制を受け、氏子は、分離されて四散して、衰微してしまいました。今日、この悪政とも言うべき神仏分離を思うとき、明治政府は、神仏を恐れず、傲岸な政策をよくも実行したものだと、慨嘆せざるを得ません。ここでも思うのです。こんな神仏に惧れを感じ無い卑劣な人間たちが、なぜ傍若無人に振舞うことができたのかと。 何故?
しかし、明治12年(1879年)大正天皇が、小児の虫封じ祈祷を謹修されてから、少しずつ、崇敬者が増えたそうです。この、虫封じの祈祷は、正保3年(1646年)三代将軍厄除けの祈祷をしてから以来、幕府の祈祷所として月々祈祷札を大奥に納め、代々将軍の参詣も数十回におよび、江戸市民にも広がったということです。明治12年(1879年)大正天皇ご誕生のおり、明治天皇御生母のご参拝、明治34年(1901年)昭和天皇御生誕に当たっては、大正天皇御生母のご参拝があり、昭和に至り、今上陛下をはじめ、戦後は、皇太子殿下ご生誕にさいし、虫封じの御札御守を宮中に奉献しているといいます。
また、神社入口の前に、流鏑馬の銅像が立てられています。享保13年(1728年)八代将軍吉宗が、世嗣の疱瘡平癒祈願のために、神社北の馬場で奉納されたのが始め、以来、将軍一代の重事のあるごとに、神事を奉納祈願したといいます。明治維新後は、中断していましたが、昭和9年5月、今上陛下御生誕を奉祝して再開、鏑矢御守を宮中に封建しました。戦時中は、再び、中断しましたが、昭和39年から、復活し毎年10月10日に執行してきましたが、平成12年から、体育の日に執行されています。(同社参詣の栞より)

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