福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの「江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝記録第10回 」その4

2016-02-18 | 開催報告/巡礼記録
角田さんの「江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝記録第10回 」その4

江戸札所第24番 長青山 寶樹寺 梅窓院(東京都港区南青山2-26-38)
札所本尊 泰平観世音菩薩
宗派 浄土宗

浄土宗梅窓院は、寛永20年(1643年)徳川家康以来の家臣、老中青山大蔵少輔幸成が、逝去した時、幸成の下屋敷内に、13,247坪を画して、側室(法名 長青院殿天譽利白大姉)を大檀越として、建立されました。(因みに現在の梅窓院の敷地は,3000余坪です)寺号は、青山幸成の「梅窓院殿香譽浄薫大禅定門」の法名(戒名)と側室の法名から、長青山寶樹寺梅窓院と名付けられました。開山は増上寺二十三世遷譽貴屋上人(後に当院に隠居)の弟子、戴蓮社頂譽上人冠中南龍老和尚でありますが、大本山増上寺十二世中興普光観智国師を勧請して、開山祖としました。以後、青山家の菩提寺として、今日まで、歴代の当主、十三代の御霊を、お祀りしてあります。梅窓院のご本尊である阿弥陀仏は、山の手六阿弥陀の一つとして信奉されています。また、泰平観世音は、鑑真和上が、中国から招来し、奈良・東大寺の大仏殿に奉安されてましたが、源頼義親子が、奥州追討のときに、この、霊像を念持佛として、奉持、陣中の守護を祈ったといいます。その後、南部公に伝わり、南部公から、青山公に、嫁に行く姫君が輿入れのとき、お内仏として、青山公の仏間に守置していたといわれています。昭和20年5月の東京大空襲で観音堂は、消失しましたが、篤信の人たちの願いにより昭和25年、観音堂を再建しました。その時に、泰平観世音として奉安しました。泰平観世音は、江戸時代から、「青山のお観音様」と愛称されていました。しかし、そのお堂も老朽化し、平成12年復興の大工事を始めで平成15年6月新本堂棟が完成、同16年11月落慶式を執行し、現在は、、刷新された寺院の1階の観音堂に安置されています。この泰平観世音菩薩は、戦争中は、「武運長久」が祈願されていましたが、現在は、「世界平和」を求願する霊像として、お参りされております。

山内の堂宇は、東京大空襲で、無礙光会館を除いて、すべて焼失してしまいました。焼け残った無礙光会館は、大正14年に建築された和洋折衷様式の鉄筋コンクリート造りで、当時は、近代的な建築物とされて、港区青山のシンボルとして注目を集めてきました。昭和48年に、内部の改修を施して、本堂・客室として使用してきましたが、老朽化が進んだため、新本堂建立の大工事を起工することになり、平成15年、新観音堂・庫裏・客殿・浄土宗開宗の祖である法然上人が安置されている祖師堂を組み入れた一大伽藍と変貌を遂げました。

また、墓地内には、最勝宝塔(供養塔)、東屋(休憩所)などの建物や御開基青山家歴代の墓、シーボルトの弟子として蘭学を学んだ竹内玄同の墓、赤帽・赤服・赤塗りの馬車に乗り「天狗煙草」を売り歩いたという明治時代の奇商、岩谷松兵の墓、江戸時代に幕府の禁に反して建立されたというキリシタン燈篭もあります。(同寺案内書より)

若い男女のカップル・原宿族が、跋扈する表参道ー青山通りから、入った所に梅窓院があります。喧騒賑やかな俗世の戯れと、粛然と一線画くすように、威勢よく伸び茂った丈の高い金明孟宗竹が、長いコンクリートの参道を覆うように整然と立ち並ぶ情景に、先ず脅かされます。竹の根元には、ところどころ、青や赤の布で作られた被り物を纏った可愛い小さなお地蔵さんが、二体ずつ置き並べられ、思わず、微笑ましくなります。竹のアーチに感心しながら、進んでゆくと、「アッ!!」と驚くような、近代建築の粋を凝らしたような、総ガラス張りで、縦横の水平線が幾何学的に整然と並べ組まれた大きなたモダンな建物に圧倒される思いがする、"お寺”に着きました。どうやら、この建物は、最近、東京五輪で話題になった国立競技場で、設計が採択された、世界的な建築家である隈研吾氏の手になるものと解かりました。隈氏は、東京・高尾山の京王線高尾山口の駅舎の設計もしていて、もうおなじみの建築家です。瓦屋根や回廊をなくし、シンプルで都会のオアシスのような感じを取り入れ、特に、竹は、下が茶色のものを選び、わび・さびの雰囲気を醸し出すようにしたといいます。

お寺とはいえ、近代ビルの中に入ったような感じがします。お寺の建築物も、これまでのような、木造と土壁や、鉄筋コンクリートで出来たものでなく、梅窓院のような、現代の美的感覚の粋を凝らした設計による建築の寺院が増えるだろうと思います。確かに、広い面積の境内をを持つ寺院は、経済効率の悪い小さな建物の寺院を作るより、有効面積を充分に生かした建物を造ったほうが、経済効果もあり、これからの時代に合わせて、経済的にも効率が上がることは必至だと思います。勿論、本堂は、バリアフリーになっています。このお寺は、地下2階、地上5階の寺院です。地下1階は広い講堂。地下2階は、祖師堂。地上1階は、入口ロビー、観音堂。2階は本堂・客殿。3階は、書庫。4階は、小本堂(法堂)で、家族葬や少人数(20人)の法要が営めるそうです。5階は客殿。50人が入れる和洋折衷の法事が出来る空間です。そして、別棟ビル14階にも客伝があり、実に機能的な構造のお寺です。感心するばかりで、これまでのお寺の通念を忘れ、見慣れてくる思いになりました。

ところで、同寺を建立し、青山という地名にもなった青山家には、面白い史実があります。徳川の歴代将軍・幕府を支えた青山家は、江戸時代を代表する大名です。本家は、兵庫県篠山で、分家は、岐阜県郡上で、同寺を建立した青山幸成は、家康、秀忠に仕えた青山忠成の四男で、郡上青山家の出身です。青山家は、譜代大名で、問題が起きた藩を統治することしばしばで、遠州掛川、摂津尼崎、信濃飯山、丹後宮津、そして落ち着いたのが岐阜・美濃郡上でした。有名な、お盆に夜を徹して踊る盆踊りの「郡上おどり」の町です。青山家が、郡上に転封してきたには、前藩主の金森家が、一揆により改易、領地没収となったからです。金森氏が、藩主当時、郡上で「寶歴騒動」・郡上一揆といわれるもので、水田の検地方法に反対する百姓が、「百姓皆々一味同心」という連判状を作り、江戸に直訴したのです。その結果、百姓達の願いが叶い藩主金森氏は、改易されました。この一揆は、当時では、珍しい成功例だといいます。金森氏の改易を受けて、宝暦9年(1758年)、青山家が、郡上にはいりました。時の青山家当主・青山幸道は、郡上に入った時、出迎えの者に、300文ずつ与えたところ、これに感激して、披露した地踊りの姿が、「三百」といわれ今も残っているといいます。また、幕末の郡上では、「凌霜隊」があります。幕府から朝廷にと移るなかで郡上藩は、朝廷側につくのですが、江戸藩邸では、幕府が勝つことも想定して、「凌霜隊」を組織し、幕府応援のため、会津に向わせたのです。この戦いは、朝廷側の勝利となり、「凌霜隊」は、投獄されました。後に、釈放されますが、当時の混乱した模様がわかります。(真山剛氏のルポより)

御詠歌 あこがれて 天つみそらを 眺むれば 心に見ゆる 慈悲の面影

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