第十九番下野大谷(現在も第19番は天開山大谷寺(大谷観音))
東野州河内郡荒針郷の内、天開山大谷寺の艸創は、相傳ふ大同弘仁の比にして、開祖並びに本尊の作者古来未決なりと云。本尊は
岩山に鐫(ほり)つくる。千手千眼の立像にして御長一丈六尺(約4.85m)なり。罪悪の重き者は尊容を拝し奉らず。唯常の岩山とのみ見ると。御堂も即ち山に造副て内陣は山、外陣は御堂なり。堂の直上の岩覆ひ系りて、俗に稱する舟光の如し。仍って五六間の屋上に曽て雨露の降羅ることなし。荒針郷の内地方一里の間は五丈十六丈の岩峙ちて屏風を立廻す如く、其の中廣く平にして實にや大谷と稱すべし。岩下水涌き出て自ら川を成し、要害自然の城郭なり。昔此の中に毒蛇住て毒水を流し出せり。鳥獣蟲の属に至るまで、是に觸れば忽ち死する故、諺に地獄谷と申せしとぞ。仍って旅人の為に印を立て、忘れても汲やしつらんの高野の例を效(まな)びたりと。(雨月物語に、高野山の玉川は毒をもっているので大師が此の歌を作られたという。「わすれても汲みやしつらん旅人の高野の奥の玉川の水」。)若し人誤てこの水に中る者は、必ず湿瘡(かさぶた)の患に罹る。甚だしき」に至っては、死地を免れず。五穀も枯れ、艸木も凋て民家の憂朝夕に及び、所謂悪渓の鰐魚の如く、老若已に地を替んと欲す。時に湯殿山の行者とて、同行三人の沙門来たり、此の里人に対して曰く、傳聞く、此の大谷の中に毒蛇住みて、毒水を流すと。我等降伏の秘法を以て汝等が患を除くべし。湯殿羽黒月山の行者は、都て穀物の廃れるを救ひ、人の為に我身を顧みざる菩薩大悲の修行なりと。三僧、毒蛇の谷へ入り玉ふ。荒針の郷人是を聞て或は喜び或は訝りけるに、三僧十餘箇月を經て、彼の大谷の中より出来り、我等此の程毒蛇を退治して、永く此の地の患を除く。遄く渓の中を一見て老若心緒を安んず可しと。三人錫を飛ばして立ち去れり。土人等彼の教に任せ、谷幽く尋ね入所に高き岩山の一方に千手千眼の尊容並びに脇士の不動、毘沙門天、妙相歴然と鐫つけたり。三尊の光明赫奕として、山谷一面に金色の如し。土人斯る不思議を見奉り、多年我等が怖畏の地たるに遷て殊勝の尊像現じ玉ふは、雲泥相違の奇特あんりと。荒針郷の老若男女感涙袖を絞らざる者なし。尒しより湯殿山の修行を貴み、且観世音に帰依して菩提の道に入る者多かりしと。是大谷寺の濫觴なり。谷の行留に毒蛇の住みたる池あり。今清浄の蓮池と成りぬ。其の側に彼の毒蛇を祀り、弁財天と崇む。大谷寺奇景の山水なり。
和州宇陀郡室生山は真言宗根本の道場にして野山大師の開基なり。山幽く郷遠くして、清浄閑寂の靈山たり。山を環りて大渓河あり。悪龍住て害を為し、三四里の間に人家絶たり。弘法大師開基の時、渓河の悪龍出て毎事に障げをなす。大師降伏の護摩を修して(渓河に悪龍の淵と云有り。其の上の険阻なる山腰に護摩壇崛有り)特に大師信好の山なり。故に一首の自製に云、このみをば 高野の奥に殮(かく)せども 心は 室生に有明の月。大唐より将来の法具は、勅命にて皆此の山に収め玉ふ。寺に悪龍退治の獨鈷あり。大師護摩の壇上より、彼の悪龍に擲著玉ふ時、彼が熱氣に蕩て半滑らかなり。又世儒の中にも似たる事あり。唐の韓退之は古今文才に鳴る者なり。或時佛骨の表を上つり、憲宗皇帝の意に背き、つみせられて湖州に謫る。其の地に悪渓と云所あり。其の谷に大なる鰐魚住て、人を取り六畜を食盡す。民甚だ是を悩居たるに、韓公、患を救んと元和十四年(819年)四月廿一日、羊一、猪一を渓の中へ投げ入る。是を鰐魚の餌に與へ、文を作りて讀祝せしに、其夜大風起り、雷電頻りにして、数日の後、水悉く涸き鰐魚西の方六十里に移り去って、此の患絶て民安穏を得たりと。本集丗六に鰐を祭る文載たり。凢詩歌の理にて鬼神を感じ、障碍を退ることは勿論態に玅を得て名人と成ては萬事天地の一理なり。昔伶人の助元は笛に妙を得たる者なり。一人山路を過る時、谷より大蛇匍出て、已に逋る可方なき故に、助元心を定めて、人の将に死せんとするに、其言ことや善と。直に終焉の覚悟を致め、途の側に安座して、還城樂の一曲を吹たるに、大蛇頭を垂れて是を聞き、倏ち害心を翻して、元の谷底へ還りしと(古事談に見たり)(古今著聞集 魚虫禽獣第三十に「伶人助元、府役懈怠のことによりて、左近府の下倉に召し籠めらる。「この下倉には、蛇蝎の住むなるものを」と恐れをなすところに、案のごとく、夜中ばかりに大蛇来たれり。頭は獅子に似たり。眼は鋺のごとくにて、三尺ばかりなる下を差し出だして、大口を開きて、すでに飲まんとす。助元、魂失せながら、最後と思ひ切りて、腰なる笛を抜き出でて、還城楽の破を吹く。大蛇、来たりとどまりて、首を高くもて上げて、しばらく笛を聞く気色にて帰りにけり。」)
巡禮詠歌「名を聞くも深き恵みに大谷寺 祈る信のしるしなる哉」
此の詠歌について、昔承安年中、参州の城下に農夫の貧しき者あり。不惑の歯の過ぎるころ、始めて一人の男子を設け、乏き檐端の月花と夫妻旦夕の樂みなり。然るに幼児三歳の春、其の父貢役の為に鎌倉へ下り、数年逗留の間に、私に奉輩の婦女に馴れ、終に彼の古郷の下野に下り、宇都宮の居して、徒に故國の妻子を忘却せり。然るに参州の妻子等は明暮父の歸を待乳山、としふり行ども音信もなく、其子十一歳の秋の末、母は病の床に露と消失、遺る哀は孤(みなしご)の世渡る舟の梶もたへ、桂(かから)ん嶋も啼くばかり、土地の鎮守へ日参して、我が父娑婆に在ならば、一度逢はしめ玉はれと、唯恵念に祈るにぞ、時に神慮の憐みに、汝の父に逢んと欲せば、下野宇津宮に
下り、大谷寺にて祈るべしと、夢想の告を蒙りぬ。此の時彼の者十二歳にして、名をば源三郎と申たり。夫れより乞食して毛野に下り、大谷寺に参詣して、早く我父に逢せ玉へと、至心に祈念し奉る。父を慕の切なる孝心、豈大悲の感應無らんや。或夜本尊僧形を現じて、彼が居眠る外面に来たり、汝が参詣の人に就て、銘々名を問ひ、國を尋ば、終には父に逢べしと掲焉(あらた)なる靈告に豫り、夫れより近邊を徘徊し、晝は乞食して飢を凌ぎ、夜は御堂の外にて名号を唱へ、日々参詣の人につき、名を問ひ國を問ければ、意を知らぬ里の人、狂氣と嘲る者多し。其の年も已に暮行て翌る正月十日の夜、観世音又夢に告玉くは、明日南の街道より貴賤参詣する中に、必ず汝が父ありと、再び大悲の示現を蒙り、源三意の喜び限りなく、翌る十七日の早天より南の門外を往来して、老若推合中を狼狽ける、然るに彼が足元へ一人跌き倒し者あり。源三何意なく扶起して、例の口實に其の名を問ふに、果して尋ねる我父なり。互いに表は見覚ざれども紛もなき親子の対面。二人の嬉さ云ん方なく、暫く前後を忘じて啼居たり。是単に大悲の御曳合せと逮際りの香花を供養し、親子連立、故國の吉田へ帰りしとぞ。親を慕ふ孝子の信、師孝を示す、大悲の恵み、是豈感應なからんや。
愚謂に、此の地は岩山還り峙ちて、屏風を立廻すに似たり。譬ば鉢の底に在て仰で天を望むが如し。此の地景に依りて、天開山大谷寺と名くる乎。白孔六帖(白居易撰の「白氏六帖」に後世の注釈書を合体させたもの)に云、天、碧落を開く。又、大唐中興の頌に云、地闢け天開くと。又、山海経に云、東海の外、大荒の中に山有り、大谷と名く、と。日月の出る所なりと。又字書に、泉出て川を通り、谷と為る。水半見して、口に出るに从(したが)ふ。山峡の水路也と。
弘法大師秘蔵記に云、水を以て五智に喩ること如何。水性澄寂、一切色相顕現するを大圓鏡に喩ふ。一切の萬像、其の水に影現して無高無下平等なるを平等性智に喩ふ。其の水中に一切の色相の差別明了に現身するを妙観察智に喩ふ。其の水、遍せざる處なきを法界体性智に喩ふ。一切の情非情の類、水に依って滋長を得るを成所作智に喩ふ。東寺杲宝の云、秘經にバン字を水字と名く。水輪の種子なる故也。胎蔵界の大日は五字を以て真言と為す。五字は即ち五智也。金剛界の大日は「ば」の一字を以て真言と為す。恐らくは五智の徳を欠るに似たり。仍って今、水輪に於いて五智の徳を釈して以て闕失の過無きを顕す也。(六の終)