福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その144

2014-09-21 | 四国八十八所の霊験
 大体いつも帰りは88番大窪寺からバスでもう一度87番長尾寺まで戻り、電車で高松、岡山経由で高野山に登ります。徳島からフェリーで和歌山にでることもありますが、岡山経由の方が早いのです。
高野山には数えきれないほど登っていますが遍路姿は17年のこのときが初めてでした。衣とは別の雰囲気です。
遍路姿も高野山の霊気にピッタリあっています。いいものです。

 参道では遍路の人と何度か行きあい挨拶をしました。
お互い遍路同士は語らずとも姿を見ただけでジーンとくるものがあります。結願のお遍路さんの白衣は黄ばんで傷んでいて背中の「南無大師遍照金剛」の文字も薄くなりかけています。
道中の長さを無言で物語っているのです。
 御廟前の石畳に座ると同行二人でお大師様も共に回っていただいたのだとひしひしと感じました。
理趣経を上げ、お大師様にお礼を申し上げました。
そのあと不動堂の横で納経してもらいました。

 高野山は標高900m、周りを1000m級の八葉の蓮華にたとえらる8つの山に囲まれています。
大日経には曼荼羅造壇の適地として山中の平地で木々があり花が咲き水のあるところとされていますがまさにぴったりの地相です。
高野山開創は大師四十三歳(弘仁七年、八一六年)の御時です。
丹生高野の両明神より高野山の地を托された大師は、2匹の犬の案内のもと、高野山へと登られ、そこが大日経の説く、東西に龍の如く水脈が流れ、8つの峯に囲まれた、蓮華の台のような浄土であり密教道場を開くに適地であるとさとられました。さらにそこには大師が唐より投げられた三鈷杵がのっている松があったのです。
大師は以下の上表をされて弘仁七年高野山を下賜されます。
「紀伊の国伊都の郡高野の峯にして入定の処を請け乞はせらるる表
沙門空海言す。空海聞く、山高きときは雲雨物を潤す、水積もるときは魚龍産化す。このゆえに耆闍の峻嶺には能仁の迹休せず。孤岸の奇峰には観世の跡相続す。其の所由を尋ぬれば地勢自から爾るなり。又台嶺の五寺に禅客肩を比し、天山の一院に定侶袂を連ぬることあり。是れ國の寶、民の梁なり。伏しておもんみれば我朝歴代の皇帝、心を佛法に留む。金刹銀臺櫛のごとくに朝野に比び、義を談ずる龍象、寺ごとに林をなす。法の興隆ここにして足んぬ。但だ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客(四禅定をなすひと)乏しく、幽藪窮巌に入定の賓まれなり(深山幽谷で修行の人まれである)。實に是れ禅教未だ傳はらず、住所相応せざるが致すところなり。今禅教の説に准ずるに深山の平地尤も修善に宜し。
 空海少年の日、このんで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向かって去ること両日程、平原の幽地あり。名けて高野といふ。計るに紀伊國、伊都郡の南に當る。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。今思はく、上は國家の奉為にして下は諸の修行者の為に荒藪を芟り夷げて(かりたいらげる)聊かに修禅の一院を建立せむ。經の中に誠しむることあり。『山川地水は悉く是れ國主の有なり。若し比丘他の許さざる物を受用すれば即ち盗罪を犯す』てへり。加之、法の興隆は悉く天心に繋けたり。若しは大なりとも、若しは小なりとも、敢えて自ら由にせず。望請すらくは彼の空地を賜はることを蒙って早く小願を遂げむ。然らば四時に勤念して雨露の施しを答せむ。
若し天恩允許せば講ふ、所司に宣付せよ。輕しく震扆(ついたて)を塵して伏して深く悚越(しょうえつ・・恐縮する)す。沙門空海誠惶誠恐謹言
弘仁七年六月一九日 沙門空海上表」


 今昔物語でも「弘仁7年6月大師はご自身が唐でお投げになった三鈷の落ちたところを探して大和の国を歩いておられた。途中、猟師や仙人があらわれお大師様を高野山に案内した。
そこは八つの峰に囲まれた平原で巨大な松が林立しており中の一本に唐で投げた三鈷が打ちたてられていた。
猟師は高野明神、仙人は丹生明神であり大師にこの土地をさしあげるといった。」とかかれています。

 高野山はなぜ千数百年後のいまも多くの人が参詣しているのか。それはひとえにお大師様が承和2年(835)「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いもつきなん」(衆生を未来永劫救ってやる)とおっしゃり高野山奥の院に入定されているからです。
 生身のまま「定」にはいっておられ、現在も衆生済度につとめられているからです。
また「一度参詣高野山 無始罪障道中滅」(高野山秘記)といわれてもいます。一度高野山にのぼると罪業がみな消えるということです。
 平安時代には藤原道長、頼道親子がそれぞれ奥の院に参拝しています。
道長は奥の院に「金泥法華経」「般若理趣経」を納経しています。
白河上皇、鳥羽上皇、後宇多法皇なども参拝しています。 昭和天皇もお参りされました。

 奥の院参道の両脇には歴代天皇、法然上人、親鸞聖人、などの各宗の祖師方、熊谷直実、平敦盛、上杉謙信、武田信玄、織田信長、明智光秀、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康、結城秀康等戦国武将の6割の墓所が並ぶといわれ、全部で10万基とも20万基ともいわれています。  奥の院参道には、数々の句碑や歌碑も点在します。「父母(ちちはは)のしきりに恋し雉子(きじ)の声」松尾芭蕉、「炎天の空美しや高野山」高浜虚子、「やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君」与謝野晶子などなどです。

 また16世紀には高麗陣敵味方供養碑碑を島津義弘、忠恒親子が造立しています。
最近では北ボルネオ戦の日本軍、豪軍、現地人の総霊供養塔があります。2004年に高野山が世界遺産に登録されたのはこういう敵味方供養碑を委員が視察してこの敵味方をを差別しない思想を高く評価したためといわれています。
其の外、白蟻供養碑や動物供養塔、企業の殉職碑も多く建てられています。
こういうものをみると生死の海を流転するいのちということをひしひしと思わされます。仏教は死をどう捕らえているのでしょうか。そして「いのち」とは何でしょうか。それについて、世親の『倶舎論』には、心不相応行法の一つとして「命根」があり、「体温や意識を保持する勢力で、寿命のことである」と定義されています。これが仏教の説く「いのち」です。これは言い換えれば、「生死するいのち」です。従って、仏教で説く「いのち」には生と死が含まれています。
 参道は樹齢数百年の杉の大木に囲まれ、師僧の墓もここにあります。成満のご挨拶をしました。行く前に杉の落ち葉など掃除してきれいにしたはずなのに1ヶ月の間にもう落ち葉がたまっていました。
改めて掃除をしました。


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