福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

神仏一体資料、17

2020-01-17 | 護国仏教
四国41番 龍光寺。ここは以前は札所そのものが稲荷宮とされていました。真念「四国徧禮道指南」にも「四十一番稲荷宮」とあります。四国88所霊場会公式ホームページにも、「・・地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。
縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる。創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している
。」とあります。いまでも正面石段を登りつめた一段と高いところが稲荷社で、本堂は参道途中の左手に、大師堂は右手にあります。

・42番 仏木寺、本堂の裏に「神明宮」あり。

・43番明石寺。ここは役行者から5代目にあたる寿元行者が、紀州熊野より十二社権現を勧請して十二坊を建立して修験の道場としています。弘仁13年(822年)、弘法大師が荒廃した伽藍を再興し、四国霊場札所に定めた。明治維新まで明石寺は神仏習合であり、伽藍は明石上の坊、住職は別当職と呼ばれていた。当時、神殿には熊野権現を祀っていた。
また43番奥の院の「白王権現(はくおうごんげん)」は明石寺から数百メートルにあります。
ここには大きな石の御神体があり、「宇和旧記」によると「十八、九の娘が、軽々と大石を両腕に抱き歩いていたが、当所まで来たとき夜が明けてしまったので、そのまま置き去にしてしまった。その女は観音の化身か龍女か、その石を白王権現と崇め、祠を奉った」とあり、43番御詠歌「聞くならく千手の誓いふしぎには大盤石もかろくあげ石」もこの伝説と関連しているようで、このことから元々は「あげいしじ」の寺名で、地元の方は「明石寺」のことを「あげいしさん」「あげしさん」と呼ぶそうです。

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