原文「
五に、一とは、阿哩也嚩路枳帝冒地薩怛嚩の三摩地門なり。(ごに、いちといっぱありやばろきていぼうじさとばのさんまじもんなり。
「無智」というより、「無所得故」に至るまで、是れなり。(「むち」というより、「むしょとっこ」にいたるまで、これなり。
この得自性清浄如来は、一道清浄妙蓮不染を以て、(このとくじしょうじょうにょらいは、いちどうしょうじょうみょうれんふぜんのもって、
衆生に開示して、その苦厄を抜く。(しゅじょうにかいじして、そのくやくをぬく。
智は、能達を挙げ、得は、所証に名づく。(ちは、のうだつとあげ、とくは、しょしょうになづく。
既に理智を泯ずれば、強ちに一の名を以てす。(すでにりちをみんずれば、あながちにいちのなをもってす。
『法華』『涅槃』等の摂末帰本の教、(『ほっけ』『ねはん』とうのしょうまつきほんのきょう、
唯だこの十字に含めり。(ただこのじゅうじにふくめり。
諸乗の差別、智者、之を察せよ。(しょじょうのしゃべつ、ちしゃ、これをさっせよ。
頌に曰く、
じゅにいわく
蓮を観じて自浄を知り
はちすをかんじてじじょうをしり
菓を見て心徳を覚る
このみをみてしんとくをさとる
一道に能所を泯ずれば
いちどうにのうしょをみんずれば
三車即ち帰黙す
さんしゃすなわちきもくす
訳・・・
般若心経の第二章の分別諸乗分(諸宗を分別して述べる)は中が「建」・「絶」・「相」・「二」・「一」に分かれるといったが、このうち第五番目の、「一」では、聖観自在菩薩(阿哩也嚩路枳帝冒地薩怛嚩)のさとりの境地即ち天台のおしえをのべている。「一」とは「一道清浄」というすべての教えが法華経・涅槃経の一乗に帰するというおしえをあらわすもの。
経文でいえば、「無智亦無得 以無所得故」のところがそれである。
これは観自在菩薩が悟られた時の姿、得自性清浄如来となって説かれた教えである。理趣釈に「得自性清浄如来は観自在菩薩の異名なり」とある。即ち、どんな境遇に沈んでいてもすべての衆生は仏性を持っており、それはあたかも穢れのない未敷蓮華が泥中に生じているようなものであるという教えである。
この教えにより衆生の苦厄を取り除くのである。
「無智亦無得」の「智」は、さとりを求める主体を示し、「無所得故」の「得」は、達せられるさとりのことをいう。ここではこのふたつが別々で存在するのではなく一体であるので「無」という。
このような境地では、主体を示す「智」も客体を示す「理」も不二でありべつべつには存在しないから「一」として示した。これは天台の教えである。
『法華経』や『涅槃経』などに説いている教え(三乗(声聞・縁覚・菩薩)をまとめて、根本の一つの教え(一乗)に帰入させる教え)は、
実に「無智亦無得 以無所得故」という十の文字にことごとく含まれている。
智慧ある人は十分に考えなさい。
頌にいう。
蓮華が泥中から出ても清らかであるように、衆生の心も煩悩に苛まれていても本来清らかであることを悟り、
蓮華の種を見て、心にあらゆる徳性がそなわっていることをさとる。
法華一乗の教えにおいて、本来主体と客体というものはなく一つであることを悟れば、
法華経で説く三車の教え、すなわち羊車(声聞)・鹿車(縁覚)・牛車(菩薩)という三乗の教えは、大白牛車というべき天台法華一乗の教えの中 に帰入してしまうのである。
(ここまでが各宗派の教えを解説した、「分別諸乗分」である)
五に、一とは、阿哩也嚩路枳帝冒地薩怛嚩の三摩地門なり。(ごに、いちといっぱありやばろきていぼうじさとばのさんまじもんなり。
「無智」というより、「無所得故」に至るまで、是れなり。(「むち」というより、「むしょとっこ」にいたるまで、これなり。
この得自性清浄如来は、一道清浄妙蓮不染を以て、(このとくじしょうじょうにょらいは、いちどうしょうじょうみょうれんふぜんのもって、
衆生に開示して、その苦厄を抜く。(しゅじょうにかいじして、そのくやくをぬく。
智は、能達を挙げ、得は、所証に名づく。(ちは、のうだつとあげ、とくは、しょしょうになづく。
既に理智を泯ずれば、強ちに一の名を以てす。(すでにりちをみんずれば、あながちにいちのなをもってす。
『法華』『涅槃』等の摂末帰本の教、(『ほっけ』『ねはん』とうのしょうまつきほんのきょう、
唯だこの十字に含めり。(ただこのじゅうじにふくめり。
諸乗の差別、智者、之を察せよ。(しょじょうのしゃべつ、ちしゃ、これをさっせよ。
頌に曰く、
じゅにいわく
蓮を観じて自浄を知り
はちすをかんじてじじょうをしり
菓を見て心徳を覚る
このみをみてしんとくをさとる
一道に能所を泯ずれば
いちどうにのうしょをみんずれば
三車即ち帰黙す
さんしゃすなわちきもくす
訳・・・
般若心経の第二章の分別諸乗分(諸宗を分別して述べる)は中が「建」・「絶」・「相」・「二」・「一」に分かれるといったが、このうち第五番目の、「一」では、聖観自在菩薩(阿哩也嚩路枳帝冒地薩怛嚩)のさとりの境地即ち天台のおしえをのべている。「一」とは「一道清浄」というすべての教えが法華経・涅槃経の一乗に帰するというおしえをあらわすもの。
経文でいえば、「無智亦無得 以無所得故」のところがそれである。
これは観自在菩薩が悟られた時の姿、得自性清浄如来となって説かれた教えである。理趣釈に「得自性清浄如来は観自在菩薩の異名なり」とある。即ち、どんな境遇に沈んでいてもすべての衆生は仏性を持っており、それはあたかも穢れのない未敷蓮華が泥中に生じているようなものであるという教えである。
この教えにより衆生の苦厄を取り除くのである。
「無智亦無得」の「智」は、さとりを求める主体を示し、「無所得故」の「得」は、達せられるさとりのことをいう。ここではこのふたつが別々で存在するのではなく一体であるので「無」という。
このような境地では、主体を示す「智」も客体を示す「理」も不二でありべつべつには存在しないから「一」として示した。これは天台の教えである。
『法華経』や『涅槃経』などに説いている教え(三乗(声聞・縁覚・菩薩)をまとめて、根本の一つの教え(一乗)に帰入させる教え)は、
実に「無智亦無得 以無所得故」という十の文字にことごとく含まれている。
智慧ある人は十分に考えなさい。
頌にいう。
蓮華が泥中から出ても清らかであるように、衆生の心も煩悩に苛まれていても本来清らかであることを悟り、
蓮華の種を見て、心にあらゆる徳性がそなわっていることをさとる。
法華一乗の教えにおいて、本来主体と客体というものはなく一つであることを悟れば、
法華経で説く三車の教え、すなわち羊車(声聞)・鹿車(縁覚)・牛車(菩薩)という三乗の教えは、大白牛車というべき天台法華一乗の教えの中 に帰入してしまうのである。
(ここまでが各宗派の教えを解説した、「分別諸乗分」である)
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/6707830d9a793e2303d9d02bbdee7119
>「無苦集滅道」の一句五字は仏の声を聴いて悟った声聞をあらわす。
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/dd91d8f7d53a8ab53fb5812a86f296ea
>「無智亦無得」の「智」は、さとりを求める主体を示し、「無所得故」の「得」は、達せられるさとりのことをいう。
ここではこのふたつが別々で存在するのではなく一体であるので「無」という。
接頭語の「無」に付いて、無苦集滅道の無は空だと思い、執著をしないようにと付けられた接頭語と思っていました。
様々な説明が有り、無苦集滅道は苦集滅道もないなどとの説明が見られます。
無智亦無得 以無所得故
同様に主観として知る、智慧というものにも執着せず、客観として得る智慧にも執着しない。
空性という無所得無執着の存在である故に、彼岸に到れば智慧を得たいなどにも執着しない。 と思っていましたが・・・
>ふたつが別々で存在するのではなく一体であるので「無」という。
この説明は初めて見せて頂き、無に対して新たな意味が有る事を知りました。
有難う御座いました! 合掌