大師は「我は一にして多である」とおしゃっています。
「善無畏三蔵は之(我即宇宙)を説明し、「我はすなわちこれとは、決定して我はすなわち法界であり、我はすなわち毘盧遮那であり、我はすなわち普門の諸神である(大日経疏)」等といっている。
この天地一切を自己の内容として完全に一体を生きているのが本当の我であり永劫の佛であり摩訶毘盧遮那であるのであるから、この大日如来に体達するというのも本当の我に生きるというのも結局は同一の事を異なった角度から説明したことになるのである。それを大師は吽字義において「我はすなわち法界であり、我はすなわち法身であり、我はすなわち大日如来であり、我はすなわち金剛薩埵であり、我はすなわち佛であり、我はすなわち一切如来であり、我はすなわち縁覚であり、我はすなわち声聞であり、我はすなわち大自在天である、乃至、一にして多であり、小にしてしかも大を含む」と説かれている。(真言宗読本、栂尾祥雲)」
「善無畏三蔵は之(我即宇宙)を説明し、「我はすなわちこれとは、決定して我はすなわち法界であり、我はすなわち毘盧遮那であり、我はすなわち普門の諸神である(大日経疏)」等といっている。
この天地一切を自己の内容として完全に一体を生きているのが本当の我であり永劫の佛であり摩訶毘盧遮那であるのであるから、この大日如来に体達するというのも本当の我に生きるというのも結局は同一の事を異なった角度から説明したことになるのである。それを大師は吽字義において「我はすなわち法界であり、我はすなわち法身であり、我はすなわち大日如来であり、我はすなわち金剛薩埵であり、我はすなわち佛であり、我はすなわち一切如来であり、我はすなわち縁覚であり、我はすなわち声聞であり、我はすなわち大自在天である、乃至、一にして多であり、小にしてしかも大を含む」と説かれている。(真言宗読本、栂尾祥雲)」