第四章第二、三句の答説(三句の問に対する答え)其の二
大日経住心品に「菩提心をを因とし 大悲を根とし 方便を究竟とす.」という句がありますがこれについて金山猊下は、
「『菩提心を因とす』というがこれは『発心』のことをいっているのである。この発心に二つあって、一つは神仏を向こうに置いてする発心(自他を分ける発心)。しかし真言宗は修業によって神仏ともとから一体であったことを自覚するもので有る」ということをおしゃっています。私も密教修法は求聞持等いろいろなものを成満し、うちでも毎朝修法を行っていますが、自他一如の境地になっても行が終われば元に戻ります。本物ではないということでしょう。
本文・・「菩提心を因とす」というがこれは無上の仏果を求める心の発起をいう。仏果を成ずるにはまず仏果を求める心の発起が根本であるとするのが「菩提心を因とす」である。広義にいえば人がはじめて宗教心を起こすことをいう。・・この発心に二つある、一つは如来と人、神と人の対立関係の上に生ずる信仰、もう一つはかかる対立を超え、絶対法身を直接体得しようとする教えである。大日経は後者である。・・・かかる境地を体得するのは信であるというならその信は自他を分ける信でなく、無分別の信でなければならぬ。・・そして深く道を修するにいたると求めようとする菩提の体は求めようとする自分の心であることがわかる。大日経にこのことを「云何んが菩提とならば、実の如く自心を知るなり」と言っている。・・大日経疏にも「・・菩提心は即ち是れ白浄信心の義なり」といっている。
大日経住心品に「菩提心をを因とし 大悲を根とし 方便を究竟とす.」という句がありますがこれについて金山猊下は、
「『菩提心を因とす』というがこれは『発心』のことをいっているのである。この発心に二つあって、一つは神仏を向こうに置いてする発心(自他を分ける発心)。しかし真言宗は修業によって神仏ともとから一体であったことを自覚するもので有る」ということをおしゃっています。私も密教修法は求聞持等いろいろなものを成満し、うちでも毎朝修法を行っていますが、自他一如の境地になっても行が終われば元に戻ります。本物ではないということでしょう。
本文・・「菩提心を因とす」というがこれは無上の仏果を求める心の発起をいう。仏果を成ずるにはまず仏果を求める心の発起が根本であるとするのが「菩提心を因とす」である。広義にいえば人がはじめて宗教心を起こすことをいう。・・この発心に二つある、一つは如来と人、神と人の対立関係の上に生ずる信仰、もう一つはかかる対立を超え、絶対法身を直接体得しようとする教えである。大日経は後者である。・・・かかる境地を体得するのは信であるというならその信は自他を分ける信でなく、無分別の信でなければならぬ。・・そして深く道を修するにいたると求めようとする菩提の体は求めようとする自分の心であることがわかる。大日経にこのことを「云何んが菩提とならば、実の如く自心を知るなり」と言っている。・・大日経疏にも「・・菩提心は即ち是れ白浄信心の義なり」といっている。