第十七番 はやし寺と號す 定林寺 。御堂三間四面南向。
本尊十一面觀音 立像御長一尺六寸(約40㎝)
當寺開闢の來由は、徃昔壬生の良門とて東國に双なき英雄有、其性剛強にして慈心なく、殺害せらるゝ者 多く、國民にも家臣にも事に觸、時にのぞんでは情なきふるまいのみありければ、家臣林太郎定元と云者頻に諌てやまず、良門甚怒て定元を放逐し、其領する處の財産を没収す。忠言耳に逆ふ習ひ今にはじめぬ事ながら、湯武は諤々を以て昌へ、桀紂は唯々を以て亡ぶ(孔子家語、「孔子曰、良藥苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行。湯・武以諤諤而昌、桀・紂以唯唯而亡」。)。忠良の臣國を去て侫者時を得たり。良門の家運風前の燈の如し。定元は古郷を離て當所に知音ありしかば、遙々此里に至て知れる人を尋ぬるに、 其人は某年某月日空しくなりて跡吊ふ人もなしと答ふ。定元限なく憂、其邊に旅舎を求め暫く労を休め けるに、其妻長途の疲にや一朝の露と消へぬ。哀情膓を断ども、泣々一株の木の下に埋め、自も遯世せばやと思へども、三歳の嬰兒あれば心ひかれてせんすべなく、日頃の勇気も弓折矢盡で泣あかしけるが 程なく病の床に臥て妻と日をへだつる事三日にして、同く道の邊の艸葉の露と成ぬ。哀さ言ん方なし。爰 に空照と云沙門有、此嬰兒旅舎に孤となる、人として誰か是を愍まざらんや、吾佛弟子と成て何ぞ是を 見て只にやまんと。墨の衣の袖を覆ひ、とかくして生育ぬ。月日の過る事白駒の隙を行が如し(はっくのげきをいくがごとし。「荘子・知北遊」にある。白い馬が走り過ぎるのを壁のすきまからちらっと見るように、月日の経過するのはまことに早い)。此兒巳に成童に及で仕へを求む。空照是を供なひ、關東に仕ふべき家を尋るに、宿世の縁にや良門田獵に出で、此兒 と空照が道の傍に立るを見て、招て此兒が相皃凡人ならず、沙門吾に得させよと云。空照が曰、公の姓名 如何。答曰、壬生の良門と云。空照掌を拍て曰、奇成哉此皃は是君に仕へて、程なく忠言を盡せし林の太 郎定元が子なりと、具に始終を語る。良門大に感じ、則空照とともに屋形にたづさへ皈り、自童子に首服を加へ、林源太良元と名付、父が舊領を授け、空照が生育の巧を賞し、恩祿山の如しと雖も敢て受ず、某出家の身也、財寶望む處にあらず、願くば公慈心にして物を害せず、民を済恵を厚くし、收處を少し散ずる處を多し給へ、是愚僧が願也と云ければ、良門感じて侫臣を遠ざけ忠良を賞し、自ら法花經を金字に書寫し、定元夫婦の菩提の為彼塚の邊宮路の里に一宇を建て、定元が姓名を以て定林寺と號す。觀世音の霊像は後年佛の告に依て安置す。世俗林寺と云は、定元が姓氏なるを以てなり。當寺の詠歌に曰、
「あらましを 思ひ定し 林寺 かね聞きあへず夢ぞさめける」
此の意は浮世の仇成事を思へば、晩鐘の響、晨鐘の音を耳にふぇれても、必ず無常の切成る心をこりて、長夜の妄夢はさめつべし。古歌にも世の中を思ひ定て見る時は散社花の盛也けりと詠ぜし、思ひ定るの字此歌に同意也。思ひ定し林寺と云は、定林寺の二字を讀り。