20番鶴林寺から21番太龍寺は11キロくらいです。歩いて 3時間位だったと思います。太龍寺山も「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」といわれるように阿波三大難所の一つとされます。 お大師様の「三教指帰」に「阿波太龍嶽にのぼりよじ土佐室戸崎に勤念す谷響きを惜しまず明星来影す。」とあります。これは求聞持法という密教最高の行をお大師様がここに行じられたことを記してあるわけで、真言行者の聖地ともいうべき霊場になっています。 弘法大師全集の「太龍寺縁起」には太龍寺で求聞持行者がいるかぎりは寺は栄えると書いてあります。行者の責任重大です。太龍寺への山道は通るたびにいつもお大師様と同行二人で歩かせていただいている気がしてジーンときます。太龍寺本堂前には「お大師様にお願いする資格があるのか。せめて小善を積み重ねていくほかないのではないか」という石碑があり全くその通りと思いました。
19年5月に回ったときは指導をうけているN師がわざわざ太龍寺に連絡していただいておりいろいろと今後の求聞持行のことも相談できました。又この後、N師が麓の遍路宿まではるばるお尋ねくださり、数十個のおはぎと多額のお接待を頂きました。 そして 21年にはここで念願の「求聞持」を成満できました。50日間一人でお堂に籠もりひたすら虚空蔵菩薩を拝み続けました。このいきさつは此のブログの「還暦求聞持成満の記」 にあります。いずれにせよここでは大変なお蔭をつぎつぎと頂いたのです。
それだけに本堂は上質のお香のかおりがたちこめ神韻縹渺たる雰囲気が漂っていました。ここは私が21年に求聞持を行じさせていただいた後、台風で本堂に境内の大木が倒れかかり本堂を修理しています。
25年にお参りしたときは以前同様に立派な本堂が再建されていて安心しました。
以前の本堂にはお蔭を受けたという額がかかっていました。それには「昭和八年四月に肺病平癒の祈願の為め四国八十八箇所巡拝中第二十一番札所太龍寺に於て病気全快し其の報恩謝徳の為記念に寫す」とあり遍路姿の中年の男性が写っていました。佐伯澄清師もその著「弘法大師百話」のなかで若き日当時不治の病といわれた肺病になり、お遍路で第二十一番札所太龍寺まで来たときお大師様に治らぬものならここで命を奪ってくださいと祈願したとき大師に抱きかかえられた気がしてそのあと快癒したと書いてありました。 佐伯澄清師の「太龍寺南捨身嶽霊験記」です。「 私は大正13年生まれで61才。青年時代肋膜炎を患い、どうにもならなくなり四国巡拝に旅立ちそこでお大師様に助けていただいた霊験を簡単にのべたい。当時私は高野山中学に学んで居たが休学して故郷の豊岡市福祥寺に帰り、寝たり起きたりの療養生活を続けていた。寺は祖母に両親、兄弟8人という大家族だった。折から食料難の時代でもあった。父は「家族が多くおまえに十分な治療もしてやれない。ついてはうちのご本尊はお薬師さまだから大随求陀羅尼というお経をおぼえて一生懸命おがんでほしい」といわれた。以来毎日ご本尊の前でこのお経をとなえることを日課とした。胸の病気が兄弟にうつつといけないので裏の長屋で一人住まいし、3度の食事も運んでもらっていた。24才の時兄の縁談が持ち上がったが寝たきりの弟が居るということではなしが壊れそうになった。兄だけではない、婚期をむかえた妹達もまだ居るのである。いたたまれない気持ちになった私は四国八十八所めぐりを始めた。笈ずるを負い、地図1枚をもって阿波の一番から打ちはじめた。病身のこととてゆっくりすすみ、やがて21番太龍寺ににぼった。ここはお大師様が求聞持法を修された霊跡である。心臓がくるしくて休み休みのばったので前の札所を朝でたのに21番についたのは昼過ぎだった。「すみませんが今晩お通夜させていただきたい」と納経所で頼んだが、「今は食料難で夜遅くきて降りることが出来ない人しか泊められない」という。わたしは仕方なく本堂で大随求陀羅尼を拝み、大師堂にも参りしようとすると、「こっちのほうが樂ですよ」と納経所で道をおしえてもらいその道をいくと、数人のお遍路さんが鈴を振って拝んでいる。そちらへ行くと岩の上にお堂がありそこはお大師様が求聞持法を修された南舎心嶽だった。『二十四にもなりながら家族の厄介になりながら生きているのなら早くあの世に引き取っていただきたい。でもなんとかいきてしごとがしたい。・・・それにしてもなんでこんな病気に罹りながく苦しまねばならないのか・・・』あれこれおもっているうちに耐えていた気持ちが堰を切ったようにこみあげてきて私は泣いた。あたりに人はいなくて私は一人で心ゆくまで泣いた。そうするとあつい涙とともに汚れや罪や悩みが洗い流され体がきよらかになっていく心地がした。そして誰かが私の体を抱きかかえてくれたような気がしたのである。・・・しばし陶然となっていた私がわれに帰りかけたとき私はその『声』を聞いた。左耳の後ろでそれはやさしい声を聞いた。それはお大師様のこえであったと私は今も信じている。・・・そうやって80日後に八十八所を打ち終えて家に帰り着いた。かえってからは薄紙を剥ぐ様に私は元気になり、とうとう肋膜も治ってしまった。其れを見た檀家のひとが『お大師様のおかげはほんとうにあるものだ。こぼんちゃんの顔は土色になっていてとてもたすかるまいとおもっていたが、信心というものはありがたいものじゃな』と口々に喜んでくれた。今思うに私は「鬼病」と「業病」をうけていたのではないか。「鬼病」は故人があの世で縁のある子孫に助けをもとめてよりすがるもので、「業病」は前世の自らの悪業の報いから来るものである。あとからわかったのだがわたしがご本尊のまえでおとなえした大随求陀羅尼【オン・バラバラ・サンバラ・サンバラ・インダリヤ・ビシュダネイ・ウン・ウン・ロ・ロ・シャレイ・ソワカ】は地獄を破り業を消す陀羅尼だったのである。はからずもこのお経を札所札所のご宝前でよませていただきお大師様のお慈悲がいただけたのである。」(以上、佐伯澄清師の「太龍寺南捨身嶽霊験記」)太龍寺はまさにこういう霊気の満ち満ちているところです。
21番太龍寺からはまた素晴らしい昔からの遍路道を降りていきます。鬱蒼とした木々が遍路道を覆っています。22番までは11キロくらいです。最後は平地をしばらくあるくと22番平等寺につきます。此処で泊まるときは門前の遍路宿「山茶花」しかありません。此処でもよく泊まりました。17年には定年遍路が何人かで賑やかに晩酌をしていたのを思い出します。
ここは弘法大師御修行のみぎり薬師如来の尊像が現われ光明が四方に輝き、大師がさっそく加持水を求めて一つの井戸を掘られたところ乳の如き白い水が湧きあふれたところといいます。
その霊水で身を清められた大師は、百日間の修行の後、薬師如来を刻み、本尊として安置し一切衆生を平等に救済されるため、寺号を平等寺(山号を白水山)と名づけられたとのことです。
この霊水は、本堂石段の左にあり、枯れることなく、こんこんと湧き出ています。万病にきく「弘法の霊水」として、全国に知られています。
「日本随筆紀行,神仏に祈る」には佃実男が「遍路の霊験」として22番白水寺(平等寺)にある説明文を書き写しています。説明文です。「・・私は去る大正十二年以来病気の為いざりとなり、名医名灸はもうすまでもなくあらゆる手段を用いましたが何の効もなく、・・・ある夜四国遍路の夢を見ましたのでこの上はお大師様におすがりせんと本年四月上旬、妻ウメノ(四十九)にいざリ車を曳かし、子供と三人、一番を札始めに順次参拝、平癒を祈願しつつ六月七日ようやく御当山に参詣いたしました。・・一心にご本尊薬師如来と御大師様とを念じておりますと、ここにきまして丁度三日目の早朝、門前に網代笠を被られたお坊様が下りてこられ、私を見て、『あなたは足が不自由ですか、一心に信心なさればご利益は戴けますから信心なさい、これはお賽銭です』と十銭下され、五、六歩行ってから立ち返りまた十銭くださいました。あまりの慈悲に目うるみ、ありがとうございましたと合掌したときはお坊様の姿は消えておりました。あまりの不思議さに一生懸命祈願しておりますと、突然いざリ車が震動し車の外に振り落とされそうにはりましたので驚き、車の手木につかまりますと、不思議にも知らぬ間に足が立っておりました。この奇跡、再三車にすがり立って見ますと、足は完全に立ちました。余りの有難さに、無意識に『南無大師遍照金剛』と叫びました。自分に返ったときには、六年間苦しんだいざりは全快し、・・ただひたすら感涙に咽びました。ご利益の御標としていざリ車を御本尊様御宝前に奉納する次第であります。徳島県板野郡北畠村字江尻 高畑伊四郎(四十四歳)」
もう一つ奉納板があります。
「いざりとなり父と四国遍路の途にのぼり、大正十二年十月下旬当院に着き、日夜当院主の加持をうけて一心に御本尊様に平癒を祈願していたところ、足のいたみは薄紙をはぐ如く薄らぎついに杖にて歩行することができるようになり父と共に有難涙にくれました。お礼を御本尊様に申し喜びの余り車を奉納いたします。大正十二年十二月十七日筒井林之助(三十三歳)」
またこの随筆には「もう一台にはいざりになり妻と伯父の曳くいざりぐるまでこの寺に着いたとき歩けるようになったので車を奉納したとのべてある。まるで壺坂霊験記である。」とつけくわえてありました。
19年にお参りした時は門前にタクシーが止まり中から手首まで倶梨伽羅紋々のヤクザ風の若者が遍路装束で出てきたのには驚きました。のちに此の若者とは一緒に道中をしたのですがそれは後で述べます。この19年には遍路指導をしてくださったN老尼が車で追いかけてきて太龍寺の麓からここまで車のお接待をしてくださいました。当方は歩き遍路なので車は此処までにしていただくことにしましたが、別れ際に師の車の運転をしてきた若い女性に「高原僧正はありがたい方だから握手をしていただきなさい」といい握手をさせられました。肉感的な美女です。どうしてこういう美女が老尼のお供をしているのか不思議に思いました。しかし当方は遍路の身です。思わず「碧巌録」の「 枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」の句(修行僧が若い女性を老婆にあてがわれて一切色気は感じませんと断った言葉)が脳裏に浮かびました。僧侶の戒律では故意に女人に触れることは、摩触女人戒といいます。「もし比丘、淫欲の意にて、女人の身とあい触れ、若しは手を捉り若しは髪を捉り、若しは一一の身分に触れるものは僧伽婆志尸罪(そうぎゃばしざい)なり(四分律)」とあり、衆僧の前で悔過し許されなければ罪を滅することができないとされています。昔なら大変ことになる所でした。かくいう当方は俗世ですれっからしになっているうえに老境に入っているので全く心配はいりません、しかし枯木となった遍路にもお試しはあるものです。くわばらくわばらです。
ここは平地にある霊場ですがいつも霊気に満ちています。