日々の恐怖 6月20日 沖田総司と黒い猫
沖田総司は死ぬ三日程度前、俄にひどく元気になって、お昼頃、突然庭へ出てみたいという。
姉のお光が、新徴組にいる婿の沖田林太郎と一緒に、御支配の庄内へ行った留守で、介抱の老婆がいたが、心配して頻りにとめるけれども、聞かなかった。
いいお天気の日で、蝉の声が降るようだ。
丈の高い肩幅の広い総司が、白地の単衣を着て、ふらふらと庭へ出る。
すぐ前の植溜の、大きな木の根方に、黒い猫が一匹横向きにしゃがんでいるのを見た。
「 ばぁさん、見たことのない猫だ、嫌な面をしている、この家のかな?」
と訊く、そうじゃなさそうだと答えると、
「 刀を持ってきて下さい、俺ぁあの猫を斬ってみる。」
と言う。
仕方がないから納屋へ敷きつめの床の枕元に置いてある黒鞘の刀を持って来てやると、柄へ手をかけて、じりじり詰め寄って行く。
もう二尺という時に、今まで知らぬ顔をしていたその猫が、軽ろくこっちをひょいと見返った。
老婆が見ると、総司の唇は紫色になって、頬から眼のあたりが真紅に充血して、はぁはぁ息をはずませている。
総司は、
「 ばぁさん、斬れないーーーばぁさん斬れないよ。」
といった。
それっきり、如何にもがっかりしたようにひょろひょろと納屋へ戻ってしまった。
次の日も、またいいお天気。同じ昼頃になって、
「 あの黒い猫は来てるか、ばぁさん?」
と聞いた。
婆さんが出て行ってみると、不思議な事に、昨日と同じ梅のところに、その黒い猫がまた横向きにしゃがんでいる。
しかし、それをいったら、総司がまた出る、出てはからだに良くないと思ったので、
「 猫はいませんよ。」
と答えた。
総司は一度、
「 そうか。」
といったが、暫くするとまた、
「 ばぁさん、どうも俺ぁあの猫がいそうな気がする、もう一度見てくれ。」
という。
婆さんが出てみるとどうも不思議だ。
やはり猫はじっとしてそこにいる。
今度は、婆さんもどういううものか居ませんよとは言えなかったので、
「 来ています。」
と言った。
「 そうかーーーやはり、そうだろう。
ばぁさん俺ぁあの猫を斬ってみる。水を一杯くれ。」
納屋の出口へ突っ立って、婆さんの持ってきた水を、ごくごく喉を鳴らして飲んだが、顔を斜めにして眼だけは、じっと、その黒い猫を睨んでいる。
すでに血走って、頬のあたりが、時々びくびく痙攣していた。
背中を円にして、腰を落として、また小刻みに猫に近寄ったが、やはり二尺位のところで、猫は、昨日と同じに軽ろくこっちを向いた。
その猫の目を、総司はいつまでもいつまでも睨んでいる。
そして、ものの二十分も経つと、
「 ああ、ばぁさん、俺ぁ斬れない、俺ぁ斬れない。」
と、悲痛な叫びをあげると、前倒るように納屋へ転げ込んで、そこへぐったりと倒れてしまった。
婆さんの知らせで、すぐに医者を呼んで手当をしたが、総司はそれっきり、うつらうつらと夢を見ているようであった。
翌日の昼頃眼を閉じたまま、
「 ばぁさん、あの黒い猫は来てるだろうなぁ」
といった。
これが総司最後の言葉であった。
息を引き取ったのは夕方である。
この話は、介護の老婆から、後に沖田林太郎夫婦に語った実話である。
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