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日々の出来事 1月31日 ジャイアント馬場

2018-01-31 08:00:00 | A,日々の出来事_





  日々の出来事 1月31日 ジャイアント馬場





 今日は、ジャイアント馬場が亡くなった日です。(1999年1月31日)
ジャイアント馬場は、新潟県三条市出身のプロレスラーです。
プロレスラーになる前は、読売ジャイアンツの投手として活動、長嶋茂雄が入団して初めてキャッチボールをした相手です。
 野球については、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷めて引退します。
その後、1960年4月に力道山に弟子入りしは日本プロレスに入団します。
ジャイアント馬場と言うリングネームは、初めてアメリカに武者修行に行ったとき、プロモーターのビンス・マクマホン・シニアが名付けました。
アメリカでは、フレッド・アトキンスにプロレスを指導され多くの大舞台で試合をし、知名度も高く“日本人として初めてアメリカで成功したレスラー”と言われています。
 1963年に力道山が死去した後、ジャイアント馬場は日本プロレスのエースとしてリングに上り、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得、また、アントニオ猪木とのタッグでインターナショナル・タッグ王座を獲得するなどの活躍を見せました。
 1972年に全日本プロレスを旗揚げし、社長になりますが、この頃から練習量が落ち、動きがスローモーション化します。
そして、ハエがとまる水平チョップや、ロープの反動で跳ね返ってきた相手レスラーが足を上げて待っているジャイアント馬場の位置を探してカーブを描いてぶつかって行く十六文キックなどの優れた得意技を開発しました。
 この頃から、ジャイアント馬場は多くの芸人の物まねの対象となり、関根勤に“あっぽ~!”の物まねを許可したり、バラエティ番組に出たりで、そのキャラクターは親しみを持って迎えられました。
それでも、ジャイアント馬場は生涯現役を通し、社長やタレントの仕事に比重を移しながらも前座としてリングに上がり続けます。
そして、試合数は、最後にリングに上がった1998年12月5日までで、5769試合にのぼりました。
















☆今日の壺々話










ジャンアント馬場の現在






 週刊新潮2012年7/14号です。
そこには、ジャイアント馬場は十三回忌を終えて未だに墓がないという記事がありました。

 ジャイアント馬場は未だに墓に埋葬されていない。
火葬されて焼骨となり、骨壺に納められ、告別式に始まって法要を重ね十三回忌まで終えているというのに、未だに埋葬が済んでいない。

 ジャイアント馬場の奥さんといえば元子夫人です。
骨壺が埋葬されない理由というのも、その元子夫人に起因するものらしい。
元子さんとジャイアント馬場との出会いは、十代のとき。
元子さんの実家は兵庫県明石市にある大実業家であり、当事は読売巨人軍のタニマチをしていました。
それで、度々、千葉茂や川上哲治といった往年のスーパースターを自宅に招いて食事会などをしていました。
 そして、或る年、巨人軍に入団したばかりの馬場正平、後のジャイアント馬場も巨人軍の選手として招かれました。
それがジャイアント馬場こと馬場正平と元子さんとの出会いで、二人は交際を始める。
超大型投手の馬場正平は期待の選手であったものの、左肘にケガを負ってプロ野球選手を断念し、プロレスラーへと転身する。
 そのプロレスラーへの転身を機に二人は結婚を決意するが、元子さんの実家がプロレスラーに転身したことが理由で馬場との結婚に猛反対をし、結婚までには実に10年を擁しました。
二人の結婚は、元子さんの友人によると、初恋を実らせた結婚だったと言います。
二人は仲の良い夫婦である。
全日本プロレス時代の同僚の証言として、その馬場夫妻の仲の良さぶりを表すコメントが掲載されている。

“ 現役時代は全国巡業で、一年間ずっと元子さんが一緒でした。こんなレスラーは後にも先にも馬場さんだけです。”

 それで、また埋葬が済んでいないという話に戻りますが、新潟県三条市の馬場家側では埋葬に関しては元子さんに任せており、当初は元子さんが神戸に墓をつくるという話だったが、なかなか墓はつくられない。
元社長のジャイアント馬場に墓がないと知ると、全日本プロレスの関係者が“ジャイアント馬場記念館”を作って、そこにお墓を建てたらどうかという提案もしてみたが元子さんの返事はかんばしくなく、そうして、ずるずると埋葬しないという状態が続いている。
 馬場家には二人の姉が居て、そこに週刊新潮が取材すると、「馬場家としてはお墓の事は全て元子さんに任せてあるから気にしていません。元子さんと疎遠になっている訳でもなくて、盆暮れのご挨拶はしているし、こちらから仏壇の飾り物を贈ればお礼状も頂きます。元子さんがちゃんと骨壺を管理してくれていれば、言う事はありません。」と、埋葬の件は元子さんに一任している。
 では、何故に元子夫人は埋葬をしないのか? 
週刊新潮が元子夫人本人に直撃すると、元子夫人は(手元に骨壺があると)「馬場サンが近くにいるような気がして気持ちが落ち着く。」と話しました。
 どうやら、元子さんは骨壺を独占して申し訳ないと気持ちでは思いながらも、骨壺を手放せないという心境で、ずるずると年月を経過させてしまっているらしい。
それ故に、親戚や全日本プロレスという会社としても、元子夫人に対して「お墓をどうするのか? 遺骨はどうしたのか?」と催促するような無粋な真似は辞めて、元子夫人に一任することにしているようだ。
と言う訳で、ジャイアント馬場の墓はありません。















ジャンアント馬場の過去






ジャイアント馬場さん


 ジャイアント馬場さんは、中高生のころから体が大きかったので、部活で大きな運動靴を履いていました。
それで、ある日、外に置いていた自分の靴を見たら、野良猫の親が子猫たちを入れていたので、その日は靴を持たずに登校しました。
ジャイアント馬場さんは、足が臭くない、心の優しいいい人なのです。
















インタビュー




 プロレスのベルトをかけたタイトルマッチ直前の控え室で、チャンピオンがインタビューに答えた。

「 今日、何か作戦はありますか?」
「 作戦だと? そんなもんあるわけねえだろ!! 何が来ようとこの自慢のチョップでなぎ払って、ロープからラリアットをお見舞いしてその後ボコボコにしてやるのさ!!」

インタビュアーは挑戦者にも同じ質問をした。
挑戦者は答えた。
「 作戦? そんなもんねえよ! とりあえず適当に攻撃したあとチョップを喰らって、ロープからラリアットで倒されて、そしてボコボコにされるのさ!!」













Q&A





質問
ジャイアント馬場の十六文キックって、よけられないんですか?



回答

初めてスカル・マーフィに言われて出した時は相手をKOし、ミスター珍戦では相手を死なせかけたので、相手に力量に応じて自分で当たってもらうスタイルに変えました。
前田がニールキックをカカトでやったらけが人を出し、ふくらはぎでやってもクレームが続出したので、太ももの裏で当たるようにしたのと同じです。
ロビンソンとオースチン・アイドルも受けなかった気がする。
アイドルは全盛期は二度と呼ばれませんでした。


よけれません。
昨日就職した新人が社長の握手を断れますか?
よけるからには、それ以上の盛り上がりを求められます。
蹴られることが1流のあかしなのです。


もしよけてしまうと“十六文キックに恐れをなして逃げた腰抜野郎”と言われます。
あの十六文キックに耐えられない程度の身体しか作っていないとも思われてしまいます。
当然、よけられるけどよけない、が正解でしょう。
「腰抜け」「ヘタレ」「怖いならリングに上がるな」と観客全員から罵声を浴びせられるよりマシです。


「しがらみ」という魔法がかかってますので、よけられないんです。
足の裏にギャラの数字が小さく書いてあり、それを見ようとして食らってしまう、という話も耳にしたことがあります。


よけられません 魔法にかかったように吸い寄せられて行くんです。


避けたくても避けられないんです。
プロレスラーにだけ効く不思議な魔術を馬場さんは持っていて、一部の超一流のレスラーを除いて全てのレスラーはそれに逆らえずあの足に吸い込まれてしまうのです。


日本で「円」を稼ぐ事をやめようと思えば・・・。


よけられますが、馬場さんの最大の見せ場なので、よけてはいけません。













ビートたけしの昔のネタ





ジャイアント馬場

・投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた。
・巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の森の頭を叩いてしまった。
・車のサンルーフから頭を出して運転していた。
・車の窓から顔が出ない。
・飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる。
・タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった。
・ゴルフもショートコースはパターしか使わない。
・カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった。
・一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった。

ついでに、ウルトラマンが怪獣と戦うときの身のこなしは、ジャイアント馬場を参考にしていたと言うことです。




同様のものに和田アキ子伝説があります。



 和田アキ子伝説

・引き戸を押して開けた。
・自動ドアが10M手前で開いた。
・ため息でかがみを割った。
・草食動物を狙っている。
・女になろうとしている。














嫁の得意技





 新人歓迎会、宴会芸を求められて困っている嫁をフォローしに隣に行く。

俺「…みんな、期待してるんだから、何かしないと。」
嫁「…何かと言われても。」
俺「…僕とデュエットでもする?」
嫁「…私、歌下手です。」
俺「・・・(その下手さをみんな楽しみたいんだよ!)」

“ 場に馴染もうとしない嫁にムカっ!”

嫁は明らかにイッパイイッパイ助けるを求める視線をこちらに。
 よく見ると美形ではないが、薄幸っぽい表情が庇護欲をそそる。

俺「何でもいいんだよ、得意技とか、本当にない?」
嫁「…得意技? あ、ある!」
俺「良かった、それでやればいいんだからね。」
嫁「…でも、一人で出来ないから。」
俺「僕ができる事なら手伝うよ。」

今まで弱った感じの上目遣いが急に生き生きとした笑顔になる。
結構可愛いじゃんと思った。
 後で聞くと嫁はこの時、俺と結婚すると神様から啓示があったらしい。
何の神様か不明だけど。

嫁「お、お願いします。」
俺「えー、みなさん、いよいよ嫁さんが得意技を出すそうです!」

一同拍手、パチパチパチパチ!!!

 工場の福祉施設のたたみの部屋、嫁の指示で仰向けに寝転ぶ俺。
立ったまま俺の脚をとり、自分の脚を間に入れて、俺の脚を折り畳み、ステップオーバー、クルリと反転、勢いつけて腰を落とす嫁。
“さそり固め”が炸裂。

「 イデデデデ!!」

 小学校の時、クラッシュギャルズのファンだったそうだ。
ギャラリー大爆笑、嫁テレまくり、俺突然の事でマジに痛く、涙目。
俺はあの日ギブアップして、そのままずっと嫁の尻に敷かれている。















還暦のジャイアント馬場について思うこと
(1998年記)





ジャイアント馬場が60歳になったらしい。
1938年1月23日生まれ。
ことしは1998年だから・・・・。
うん。
確かに60歳。
還暦だ。
計算は合っている。

でも。
60歳でプロレスなんてしていいのか・・・?
法律違反ということはないか・・・?
しかも、誕生日のリングでは見事に勝利を飾っている。

あの痛々しいほど細い腕で、チョップしている写真がスポーツ紙に載っていた。
なんで勝てるのだ?

会社にいる60歳前後のおじさんたちが、
屈強な若いレスラーと闘っているところを想像してみる。


馬場さん・・・。
やっぱりそれは無理があるよ。


会社で机に向かっているだけなのに、

「 そろそろアナタは定年よ。ね、引退しなさい。」

と勧告されてしまう年齢なのだ。


赤いちゃんちゃんこ着て、
長生きしてメデタイメデタイってお祝いされる歳なのだ。
レスリングをしている場合ではないのではないだろうか。


少なくとも人間の生理に違反しているな。
アメリカだったら、訴えれば勝訴できるかもしれない。

「 見ていてスリルがありすぎる。
いつ死んじゃうか、心配でたまらない。
それ以来毎日悪夢に悩まされ、とうとう会社もやめざるを得なくなった。
ジャイアント馬場は60歳でプロレスをする、
という人間生理に違反する行為を公然とし、
私の生活をおびやかしているのだ!」

優秀な弁護士をつければ、勝てるかもしれない。
なにしろ「私がこんなにバカなのは私を産んだ両親のせいだ」という訴えが
勝ってしまう国だからな。


もちろん、プロレスにスポーツ的な面と興行的な面があるのは理解しているつもり。
馬場さんのプロレス界に対する多大な貢献も、わかる。

でも、ジャイアント馬場が60歳で勝ち続けることは、
きっとプロレス界にとっても本人にとってもイイコトではないと思うのだけど・・・。


( あ、ここらへん、熱狂的なプロレスファン&馬場ファンの方は気にしないで読み飛ばしてください。
あまり状況をわからずに書いています。)


ところで。
彼みたいに現役にこだわるタイプの人は、わりとボケやすい。
現役を引退したとたん、ガタッと気力と意欲を失って、ボケることが多いようだ。


ジャイアント馬場がボケたら、こりゃ大変だ。
“寝たきりジャイアント”になっても大変だが、
( おむつを換えるのも一日がかりだ。)
やっぱりボケた方が大変だと思う。


夜道を徘徊なんかした日にゃ、危険だ。
危険すぎる。


夜道で出会うボケた馬場ほど怖いものはない。
帰宅をいそぐ暗い夜道で、急に16文キックなど見舞われたら生死にかかわる。
いや、急にあの声で「アッポ~~!」とか叫ばれただけでも心臓発作ものであろう。
ジャイアント馬場が引退後どの街に住むか、これは要チェックである。


ちなみに、僕もボケる気がする。
すごくしっかりしていた祖父母がちょっとそうなって、父母はかなり介護に苦労していた。
ボケは遺伝もあるらしいから、父母も、そして僕も、あぶない。


僕の場合、もちろん夜道でいきなり16文キックなどはしない。
(ちなみに足は28cmなので、もしキックをしたらわりと効くかもしれない。)

ただ、
ただ不安なのは“食べボケ老人”になるのではないか、ということだ。

食べボケ。
つまり食べたのを忘れたり、食べ物の区別がつかなかったりするボケ症状。
それこそ「Chain Eating」し続けて、家族などに多大な迷惑をかける予感がしてならないのだ。


鬼ほど食べた後、食べたことを忘れてもっと食べさせろと暴れたらどうしよう。
ポトスの葉をせんべいと間違えてバリバリ食べたらどうしよう。

そして、
夜中に「夜道徘徊」ならぬ「レストラン徘徊」をしたらどうしよう。


夜中の2時ころ、シャッターが閉まったフレンチ・レストランのドアを叩いて、

「 ディナータイムですよ~! お客さんですよ~!
開店してくださいっ! 予約した○○ですよ~!
おなか減ったってば! なんか食べゆ~!
お~い! あれ?こんなところにトリュフが・・・、もぐもぐ。
うーん、これはとてもいい黒トリュフですね。」

などと、
暴れたあげく犬の糞をしたり顔で味わったりしたら、どうしよう!


どうしよう・・・・。
本当にそんなことをしそうだ。
予感が、ひしひしと、する。


いや真剣な話。
これに関してはまったく自信がないのである。

僕の引退後の住まいの周囲4キロには、
ジャイアント馬場が引越ししてこないことを、
レストランを開かないことを、
そして、なるべく犬を飼わないことを、
ここで、切にお願いしておきたいのである。















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