高知からのバス旅は毎度 徳島県の池田町を通ります。
その池田を走るときいつも この山あいの小さな町に 夏春と連続して全国制覇をした
あの池田高校が ここにあるんじゃね と毎度思うのです。
『攻めだるま』 と呼ばれた蔦文也監督のもと 池田高校野球部の存在が全国区になった
のは わずか11名の部員で勝ち進んだ 昭和49年のセンバツ準優勝のときです。

現役のころ それももう10数年前になりますが 関連会社からの出向者で 元池田高校野球部出身の
男性と 3年間机を並べました。
蔦監督のもと 明けても暮れても野球漬けの毎日は 当時の監督が若く バリバリの体力であったため
鉄拳制裁で鼻血を流すことは珍しくなく それでも一人として 野球部をやめなかったと言います。
今では新聞沙汰になる暴力監督は なぐるだけでなく その後は部員を自宅に呼び 奥さんの手料理で
腹いっぱい食べさせてくれたと さわやかイレブンの少し前の部員であった彼は 遠くを見つめる眼差しで
語りました。
当時は高知の企業も 野球部のあった会社がいくつかあり ぜひうちにと誘われて 蔦監督の言葉
『 好きな野球をやって 給料がもらえるとは最高!』 との助言に後押しされて この会社に決めた
と彼は言っておりました。
大卒が当たり前の社内で 高卒の彼には 悔しい思いもたくさんあったと想像できますが 彼が言うには
あのつらい野球部の練習を思えば 何があっても大したことではない あれが今の自分の原点になって
いる との言葉が思い出されます。
彼と仕事をしたのはわずかな年数でしたが そのとき蔦監督の訃報を聞き 年休を取ってお葬式に参列し
多くの教え子に見送られ 監督は天へ昇った とも当時聞きました。
池田高校が連覇をした当時 『 高校野球の監督で 蔦さんほど ノックのうまい監督はいない 』と
当時も 相当の歳だった監督を 野村克也氏がほめておりました。
また 攻めだるまの名にふさわしく バントがきらいな監督で 当時のベンチでの采配は TVへ映るたびに
行け 行け! の指示ばかり繰り返され ベルトがゆるいのか 動くたびにユニフォームのズボンを 丸っこい
体をゆすりつつ 上げておりました。

夏春連覇の池田高校は 水野投手(元巨人) 畠山選手(元大洋)を擁し 他を寄つけぬ強さがあり
当時のライバル校は 箕島 PL 報徳学園等でしたが池田を始め 当時のライバル校にもかげり
が見え ここしばらくは甲子園出場すら 毎度とはいきません。
高校野球が強いといわれた高知県勢も同じくで 甲子園での1勝が なかなか難しくなりました。
センバツは明徳義塾が決まり こちらも勝ち進んでもらいたいところですが 全国の高校野球ファンは
池田高の活躍も きっと望んでいるはず。
蔦監督が逝ってはや10年以上が経ち 今でもカリスマとして長く語られる監督は 我々の世代には
しっかりと胸に刻まれておりますが 平成生まれの若い世代には もう伝説の監督になりました。

『 山あいの町の子供たちに 一度でいいから大海(甲子園)を 見せてやりたかったんじゃ 』
池田高野球部 監督 蔦文也
カリスマ監督は 達筆者でもありました。