【Q】箕郷町は箕輪と何村が合併した?
イ)車郷
ロ)箕里
ハ)群馬
答えは一番下↓
≪箕輪城へgo≫
2015年5月1日(金)
昨夜の計画変更では桐生市に決めたが、
高崎城跡に行った以上、箕輪城を行かないわけにはいかない
腕の痛みなんかには負けないぞ!
高崎駅。
駅ロッカーに荷物預けて
9時発の群馬バスに乗りました。
箕郷行きのバス、途中のバス停の名前が、
築縄入口、行力入口、楽間団地入口など「入口」の付くバス停が目についた。
新興団地を結ぶ路線なのかもしれぬ?
09時27分、「四ッ谷バス停」で降車する。490円也
09時33分、「箕郷公民館」
箕郷は「みさと」と読む
中に入り受付で、「百名城スタンプ」ゲット。
事務所の女性が地図くれて行き方を丁寧に教えていただきました
ありがとうございました
m(_ひ_)m
これはホントに助かった
おかけで城跡までスムーズに行けました。
公民館を出て北上!
マンホールの絵柄は
城跡と梅。
09時45分、郵便局を曲がる
藤棚がきれいです
『道具屋敷』があった
城下町案内の看板、いいですね。
どんな城下町だったのだろうか?
ここを左へ行くとすぐに
『大手門』
と書いてあるが、大手口です。
城跡に来た気分が嬉しい
腕の痛みも忘れます。
ただ、車で登城する人はたぶん見逃すと思います
公民館の職員さんが、狭いけど大手門横をそのまま真っ直ぐ登ったほうがいい、と助言してくれたのでこれに従いました
読めない看板、新調してね
軽トラ1台しか通れない村の中の小道だが
往時は大手道だったのかな?
『丸戸張(まるとはり)』
枡形虎口の内部か、と思ったが
砦とか馬出しなどと言われてるようです。
名前から推定すると山の裾から張り出した曲輪、と思える(素人考え)
この北側に大手門があった。
門は井伊直政が高崎城に移る時に一緒に移された。
箕輪城は地元の豪族長野氏が築き、その後武田氏→信長時代は滝川一益→北条氏、そして、最後に徳川氏の最前線の重要な拠点として井伊直政が入った。
ので、現在の遺構は井伊時代のものです。
ちなみに武田氏時代は真田幸隆が城代になってる。
幸村の祖父なので来年の大河ドラマでは登場するかな?
丸戸張から榛名白川のほうを眺めたが木々や電信柱が邪魔!
畑地の中を通る
この付近に門があったのかも?
道路に合流しました。
10時06分、
『白川口埋門』
群馬県内唯一の埋門の遺構だとか?
高崎城でも見たぞ!
いや、あれは現在の復元だった…
両側の石垣の上に木や石を渡してその上に土手を盛ってトンネルにした、と書いてある。
今は無いけど、トンネルをくぐりました
反対側から見上げた
下は白川河原。
今は田んぼ、向こうは川の堤防かな?
こちら、井伊時代に大手となったが、それまでは搦め手(城の裏側)だった。
河原への秘密の抜け道だったそうです。
いざというときは西の鷹留城に逃げたのか?
余談ですが、
佐和山城、大手は中山道鳥居本宿側にある。
現在、大手側からは危険で登れません。
我が輩は1月にその北側の方から登りました。
一般に城の東の龍潭寺側から登るのが普通ですね。
佐和山城大手門論争というのがあります。
大手門は石田三成時代に途中で琵琶湖側、つまり龍潭寺側に変えられた、という説です。
案外、井伊時代に搦め手から大手に変えたのではないか?
と思えてきた(素人考えです)
それはともかくとして、この後、
駐車場のある、簡単には読めない漢字のメインの門へ向かいます。
続く👍
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本日の答え、
『車郷』くるまさと
箕輪+車郷=箕郷
古代、豪族車持君がこの地をおさめていた。
その車が群馬に変化したといわれる
くるま➡ぐんま
群馬県発祥の地ともいえる。
箕輪城を築いた長野業政は上野西部群馬郡長野郷の豪族で長野氏は
在原業平の子孫と称する。
で、代々名前に「業」がつく。
ブログ
http://blog.goo.ne.jp/hakusiyu/0?guid=ON
Φ(*^ひ^*)φ
今日も柿ちぎりした
40個ぐらい取った
毎日、一個づつ食べてる
今年の柿は馬い
ニャー
馬ひでにゃん
(*⌒Q⌒*)ヒヒーン