馬ひでの助

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西国街道歩き、島上郡衙~今城塚古墳

2020-12-05 22:58:00 | 摂津国の史跡
2020年10月25日
西国街道、寄り道してます。
島上郡衙の反対側に
素盞嗚尊神社

ここに芥川廃寺という郡寺があったそうです。



鳥居の額には「神郡社」と書いてある。
郡全体が神域だった神社ということか?

「手水鉢」

寺の塔の心礎でした。




マップを見てわかるようにこの近辺は郡の中心地として役場や寺社、そして大きな古墳があります。

やっぱり摂津国の国府もこの付近にあったと考えていいのでは?

そして、

「今城塚古墳」

巨大の堀と土塁は城を彷彿させますが、実際に
城砦として戦国時代に使われたので今城塚と命名されてます。
足利義栄や織田信長の陣所となったので、古墳が改変されたに違いない。

模型

この日は太鼓の演奏イベントが開催されてました

今城塚古墳は、継体天皇陵と推定されてます。
天皇家の跡継ぎがとだえそうになったので越前・近江出身のおおど王が迎えられて即位。
継体天皇は、
現在の天皇家のルーツとも言える天皇なのに、
スマホで「けいたい」と入力しても「携帯、形態」しか変換されない。
なんでやねん!
今やこの古墳は公園化されて厳粛さは全くない。
古墳でどんちゃん騒ぎするのは不敬ではないかい?
宮内庁としては、木簡とか文献史料が出てこない限り天皇陵として認定しないとか?
いやはや…。


ま、そのおかげで天皇陵を発掘調査できたのだが。
継体天皇、河内国樟葉で即位したものの淀川、木津川沿いを遍歴し、
大和の都に入れたのは、なんと即位19年後でした。
系譜に問題ありとか、抵抗勢力が阻止したとか、摂津近辺での基盤固めに時間がかかった、などの諸説あります。

いずれにせよ歴代の天皇陵で、摂津に陵墓があるのは継体天皇だけ、です。
即位に際して越前・近江だけでなく摂津・河内・山城などの勢力の後押しがあり、三島地区は天皇の地盤となったのではないだろうか?


今城塚古墳には、何度も来てるので今回はぐるっと一周するだけにしました。

街道をさらに西へ向かうと
茨木市太田地区に入る。
「太田茶臼山古墳」
こちらは宮内庁管轄で、継体天皇三嶋藍野陵と命名されてる。

マップには、継体天皇陵と記載されてますね。
宮内庁管轄なので中に入れないので、こちらもぐるっと一周して街道に戻りました。
今城塚古墳が、戦国時代以後砦・陣跡に改変されて、天皇陵という認識が消滅し、こちらの茶臼山古墳が
江戸時代に継体天皇陵と推定されてしまったようです。

古墳から少し南へ向かうと
「太田城跡」

多田源氏の太田氏が築いた、とされる。
源義経と戦って敗れたそうです。




余談ですが、追手門学院大学の「追手門」は、大坂城の大手門の敷地に学校が造られたのにちなんでます。

大坂城大手門の場所は茨木市太田ではないでよ、念のため。

続く…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪



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