彦根市の広報の情報。
彦根城博物館学芸員さんの記事によると、
彦根藩士の石黒務は藩政に携わった後、明治維新後は地方の官職を勤め、
明治14年に初代福井県令となりました。
福井県知事に就任したわけです。
就任中に井伊家に1通の手紙を出した。
13代将軍徳川家定の後継者を決めた時のことを振り返った内容が語られてる
周知のように後継者は紀州藩の徳川慶福と一橋家の慶喜の2人の争いとなった。
家定としては血縁関係の近い慶福を推した。
この意向を受けて大老となった直弼は事をすすめたのです。
ところが、世間では大老の専断で勝手に進められた、と流布されてしまった。
この間違った流布をを石黒は憤慨した。
大老の専断でなかったことは、家定の正室の天璋院(篤姫)さんも知ってたことだった、と言う。
さらに、この裏付けとして
石黒は、福井藩主松平慶永に当てた薩摩藩主島津斉彬の書状を旧福井藩士の家で見つけた。
その書状は、薩摩藩が慶喜を後継者にしようと運動したが家定や大奥に反対されたという内容でした。
この文書を直弼の冤罪を晴らす証拠にしてほしい
と井伊家に書き送ったわけです。
Φ(*^ひ^*)Φ
石黒は明治新政府の官僚として活躍しつつも、井伊家の旧藩士として直弼の冤罪を晴らしたいという思いもあり、その証拠まで見つけた。
この藩士の思いを今回知って認識をあらたにしました。
ご存知のように幕末の日米修好通商条約に関しても直弼は天皇の勅許が必要と主張してました。
最終的に勅許を得ずして条約締結となったわけだが、あくまでも直弼は将軍の意向に忠実に執行したということをわかってほしいものです。
井伊直弼公像
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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