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ぽかぽか春庭「両大戦間のモダニズム1918-1939煌めきと戸惑いの時代 in 町田市立国際版画美術館」

2024-11-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241116
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(5)「両大戦間のモダニズム1918-1939煌めきと戸惑いの時代」展 in 町田市立国際版画美術館

 10月第4水曜日の美術館散歩は、町田市国際版画美術館をぶらり。

 町田市立国際版画美術館の口上
 1920年代のフランスとアメリカは、第一次世界大戦後の好景気に沸き「狂騒の時代」と呼ばれる華やかな時代を迎えました。自動車や飛行機といった工業的なモティーフ、サーカスやキャバレーの喧騒、最新のファッションを身にまとうモダンガールなどからインスピレーションを得たアーティストたちの作品は、現代への賛美ともいえるものでした。
 一方でこの時代にはドイツを中心に、戦争の惨禍を深く刻み込んだ作品や、享楽的な世相への皮肉、あるいは近代化に対する不安感を表現した作品も生まれました。事実、世界恐慌やファシズムの台頭によって平和な時代は10年ほどで終焉を迎え、1939年の第二次世界大戦勃発によってアートシーンは大きく揺さぶられることとなります。
 本展覧会では、ふたつの世界大戦の狭間にあたる約20年間に焦点を当て、モダニズムの時代を版画に表したアーティストたちの作品230点を展示します。パリのファッション雑誌を彩った色彩豊かなポショワール(ステンシル)、市井の人々の生活を描き出したドイツの版画集、シュルレアリストの実験的な銅版画など、社会の変革期につくられた作品は100年後を生きる私たちに何を問いかけてくるでしょうか。

1  両大戦間に向かって:Before 1918
2  煌めきと戸惑いの都市物--
3  モダニズムの時代を刻む版画
4  「両大戦間」を超えて:After 1939

 会場の章立ては時系列に沿っていましたが、無料日のせいか思ったより混んでいて、人のいないところを縫って見ていたので、どの版画がどの時代だか覚えていません。ほとんどは撮影OKでしたが、撮影禁止マークの絵については、買い求めた絵ハガキなどからの引用です。

フェリックス・ヴァロットン「街頭デモ レスタンプオリジナル」1893木版


ファン・グリス「彗星清算人」1910

 ハレー彗星が地球に近づいたとき、衝突するのではないかと右往左往するパリの人々。

ブリゾー「私の車」1912-1913 ジャビエ・ゴゼ「薔薇の中の薔薇」1912-1913
  

ラブルールean-Émile Laboureur 1877-1943) 「前線の小さな売り子たち」1917


ラブールド&ファルケ 「百貨店」


エドゥアール・G・ベニート「ディアナ」1920頃 「キルケ」1920頃
  

シャルル・マルタン「愛の死」1920頃  「ためらい」1920頃
  

シャルル・マルタン「ヨット遊び」1920頃 「テニス」  
 
シャルル・マルタン「恋のかけひき」


エドゥアール・アルーズ《使者》1925 
 

 日本の印刷文化も進展し、大正昭和初期の雑誌やポスターに華やかなイラストで飾られました。

竹久夢二「雪の風」(婦人グラフ)1924  「七夕」1926
  

山六郎「女性13巻6号」1928


藤田嗣治「ある女」1932    「少女と小鳥」絵葉書を買いました。」
 
 
アンリ・マティス「寝椅子の上のオダリスク赤いタイルの床」1929


フェルナン・レジェ「花瓶」1927 リトグラフ


モンドリアン「色面によるコンポジション」1927原画(19577スクリーンプリント)

ソニア・ドローネー「赤いプロペラ」


ツビンデン「スステン道の建設」1941


イヴ・タンギー「棒占い」1947エッチング


ハンス・アルプ「5つのフォルムの星座」1956リトグラフ


フェルナン・レジェ「サーカス」1950


 ふたつの世界大戦の間の時期、1918-1939年のヨーロッパは、1929年の世界恐慌もあり、不安や焦燥の満ちた時代でもありましたが、市民生活は消費文化が広がり、雑誌などの出版物を通してスポーツもファッションも華やかな時代でもあったのです。印刷の広がりによって、版画は出版物に欠かせない要素となり、さまざまな画家や挿絵画家のイラストがポスター、雑誌などの媒介によって一般大衆にもいきわたっていきました。
 キュビズムやシュールレアリズム、フォービズムなどの先端的な絵画技法も、印刷物を通して日本に浸透していき、絵画の楽しみ方をひろげていきました。

 山六郎など、初めて目にする挿絵画家の作品も初めて見て、印刷文化の中で活躍した画家たちも多かったことを知りました。
 第4水曜日、65歳以上無料の日、また出かけたいです。

 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「明治時代の歴史物語月岡法然を中心に in 町田市立国際版画美術館」

2024-11-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241114
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(4)明治時代の歴史物語月岡法然を中心に in 町田市立国際版画美術館

 第四水曜日65歳以上無料入館の町田市立国際版画美術館に出かけてきました。JR町田駅前から第四水曜日のみ、シャトルバスが出ます。シャトルバスが休止していたとき、路線バスで版画美術館に一番近いと言うバス停まで行ってみたことがありました。広い公園の中を延々と歩き、美術館に着いたときはぐったり。シャトルバスがないとき、高齢者には行き着くまできつい美術館です。

 昔と停車位置が変わった駅前発の乗り場がわからずうろうろしましたが、高齢者が並んでいる列を見つけたので「美術館行のバスを待っていらっしゃいますか」と列の人にたずねて確認。私は9人目の乗客で、もうひとりきて10人定員いっぱいになりました。11時に出発。

 美術館について、まずはレストランけやきで日替わりランチを注文。腹ごしらえをしてから絵を見る。朝ご飯もたっぷり食べたのだけれど、早めのランチもすんなり腹に納まる。

 2階の館所蔵版画の企画展「明治時代の歴史物語」
 現在は主流の説ではない伝説なども含む明治時代に人々が「日本の歴史」として求めていた場面が描かれています。

 町田市立国際版画美術館の口上
 月岡芳年 (1839-92)は幕末・明治期を代表する浮世絵師です。歌川国芳の高弟として名を馳せ、現在その評価は一段と高くなっています。本展では、「歴史」に取材した作品に焦点を当て、芳年の画業を紹介します。
 とはいえ、「歴史」とは非常に曖昧な存在です。学術研究で未解明な領域は数限りなく、また同一の出来事であっても、見る者によってその意味は大きく異なります。芳年が描く「歴史」も今日の私たちが思い浮かべる歴史と比べると、少しばかり違和感を覚えるかもしれません。明治10年代における芳年の作では、天皇を国家の中心とした明治政府の歴史観を踏まえ、『古事記』に綴られる神々や、忠義を重んじる賢臣が多く登場します。他方、晩年にあたる明治20年代の作では、講談や謡曲など芳年が好んだ文芸趣味が色濃く反映され、そこに描かれるのは虚実入り混じる幽玄な世界です。静と動の表現を巧みに使い分け、今なお人々を魅了しつづける芳年の作品を通じ、「歴史」を描くことがいかに創造的であるのかを探ります。
 あわせて本展では、芳年門下の水野年方と右田年英のほか、回顧的な作風に長じた尾形月耕、そして芳年に私淑した風景画の名手・小林清親の作品を紹介します。彼らが描いた「歴史」には、芳年の影響だけでなく、独自の作風を模索した新時代の息吹が感じられます。
 明治の浮世絵師が織り成した様々な「歴史」。その豊かな物語性をお楽しみください。

月岡芳年「上毛野八綱田 狭穂姫」 

 第11代垂仁天皇の最初の后、狭穂姫。第10代の崇神天皇以後は実在も考えられるという古代の大王ですが、140歳で崩御したという古事記の記事からも、伝説を集めてまとめた支配者のひとりと考えられます。垂仁天皇の后狭穂姫は、兄狭穂彦の謀反を天皇に打ち明け、兄と共に焼き滅ぼされる。上毛野八綱田は古代の地方豪族のひとりとみられ、狭穂姫が燃える火の中生んだ一人子の皇子誉津別命(本牟智和気御子 応神天皇) を託される。古代の伝承の中でも、劇的な物語であり、上毛野八綱田が「大日本名将」のひとりとされるのも納得。上毛野にそんな豪族がいたという古事記日本書紀の記事があり、古墳が上州に多く存在すのも納得です。

尾形月耕「縫乃工」1929

 呉織、穴織という姉妹が応神天皇の時代に大陸から織物を伝えた、という伝説に基づいて描かれました。織物の原型は縄文時代にだってあったと思いますが、高度な織物技術が伝えられたのが、古代の大王の時代だったのでしょう。

 月岡芳年「雄略天皇」1879

 狩りのさなかに突進してきた猪をひと蹴りで仕留めたと言う雄略天皇(大泊瀬幼武 )の伝説を描きました。勇猛な豪傑にして冷酷無比だったというワカタケル。富国強兵へと向かう時代には英雄として求められたのだとわかります。  
 伝説の初代神武や実在の可能性もあるという崇神よりも、中国の史書にも登場する倭の五王の武が、万葉集の歌のはじめとして名を遺す。こもよみこもちの万葉集の第一首目が雄略天皇の求婚歌に擬せられているのも、さもあらん。
 
月岡芳年「月百姿 石山の月」1898

 石山寺に参篭中、月を眺めて源氏物語を構想する紫式部の姿。
 NHK「光る君へ」も残り6回。石山寺参篭の回は、ドラマでは道長とあれこれあってゆっくり月なんか見ていたシーンがあったかどうか、もう忘れていましたが、伝説では石山寺で執筆を始めたって信じられてきました。

月岡芳年「最明寺時頼」1878
 
 鎌倉幕府第5代執権北条時頼が佐野の里で吹雪にあったとき、所領を奪われた貧しい一家が盆栽を火にくべて暖を取らせてくれた。後に上野国松井田荘を褒美を与えたという謡曲「鉢木」で知られた伝説。黄門様が全国漫遊を行ったという伝説もそうだけれど、その伝説を求める社会だった、ということでしょう。

 月岡芳年「地獄大夫悟道の図」1890 
           右は背景のどくろ花魁道中が見える版(画像借り物)
   
 室町時代の遊女の図。衣服には地獄変相の図を繍り、常に心に念仏をとなえていたという地獄大夫。古代の皇后も室町江戸の遊女も、仏法の前には同じ価値ある存在として描かれ、明治の庶民はその絵図を求めました。

 西洋化著しい近代社会の荒波のなかで、伝説も含む歴史ですけれど、日本の歴史をたどることで人々は西洋に収斂されない心のふるさとを確認してきたのでしょう。
 今またAIはじめIT全盛の世の中で、私たちは自分とは何かを問われ続けています。自分のできることなんぞAIがもっと上手にやり遂げるに違いない、と思ってしまいます。

 久しぶりに本名エゴサーチしたら、私の修士論文博士論文が、けっこういろんな日本語文法論者の論文末に参考文献として名があがっているのを発見。何事もなさない人生と思っているけれど、つたないながら書き上げた論文を、どこぞのだれかが参照しているのを知って、明治の人が、室町の地獄大夫の絵を眺めてほっとしているような気分になりました。だれかの一生は、別のだれかにとってまったくの無ではないと。ま、無でもいいんだけど。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「水の情景月の風情展 in 三の丸尚蔵館」

2024-11-12 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241112
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(3)水の情景月の風情展 in 三の丸尚蔵館

 私の好きな散歩コース。皇居大手門から入り、三の丸尚蔵館の展示をながめて、東御苑の中をぶらつく。平川門から出て東京近代美術館の常設展を見る。これで、一日の無料行楽。

 三の丸尚蔵館の新築工事が終わり再開されたとき、以前は「どなたも無料」公開だった皇室所蔵品の展示だったのに、運営会社がかかわることになり、入館料千円となっていました。しかも、ネット予約制になっていたので、え~お金とることになったんだ、え~、年寄りにネット予約は難しいのに、と落胆。再開第1回目展示の「皇室の雅」展は見に行きませんでした。

 しかしながらよくよく入館案内を読んでみたら、70歳以上は無料でした。なんだ、無料大好きのHAL、これなら見に行きたい。「花鳥風月―水の情景・月の風景」を観覧。

 三の丸尚蔵館の口上
 私たちの生活のなかで美しい自然をあらわす言葉、「花鳥風月」。日本には四季折々の美しさがあります。美しい自然のなかでも水は、生命をつくりあげる重要な要素。気象では雨となり「花の父母」と言われるように、植物を育む恵みとなります。雨が集まり、川や滝となって、やがて海へと流れます。そして、月は、太陽とともに季節や暦を示す情報として、人間の生活に欠かせない標しるべでした。秋は空気が澄んで月が一年で最もきれいに見えると、江戸時代の書物にもあります 。
 本展では、自然の景色のなかで、雨などの水の景色や、月をあらわした風景などの作品を、皇室伝来の収蔵品のなかからご紹介します
 

 伊藤若冲「《動植綵絵 梅花皓月図 」

 ショップで売っていた若冲動植綵絵30枚組絵葉書セット、改築前はセット1200円でしたが、1300円に値上がりしていました。何度か買ったセットのうち、ハガキとして使わず、観賞用にとってある1セット、だいじに眺めます。

 平福百穂「朝露あさつゆ(左隻)」 1915

平福百穂「朝露あさつゆ(右隻)」 1915


 西村五雲「秋茄子」1932


 川合玉堂「雨後」1924

上村松園「雪月花」1937

萬古焼き「金烏玉兎図花瓶」1915


 絵にも工芸にも、日本の花鳥風月があらわされ、人々は四季の移り変わりをめでてくらしてきました。野にも田にも四季の楽しみがあり、山にも海にもそれぞれの美しさがある。

 我が家から最寄り駅への2分強の道のりのアスファルトの道のわきにも、さまざまな草が生えています。今は猫じゃらしが秋っぽい色になってきて、風に揺れているのを見るだけでも、楽しい。

 70歳以上は無料だもんで、観覧者は圧倒的にじじばばだった。私も保険証を示して入館。じじばばが安心して楽しめる場所があるって大事。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「田中一村展 in 東京都美術館」

2024-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241110
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(2)田中一村 奄美の光魂の絵画展 in 東京都美術館

 2021年2月24日、娘といっしょに千葉市美術館で田中一村展を見ました。

 それから3年で一村はメジャーな画家になり、ファンも広がったと思います。何度も応募を繰り返しては落選の通知を受け続け、中央画壇の動向とは無縁を貫き、ひたすら己の画風を極めようと格闘した画家一村。
 11月1日金曜日、東京都美術館はけっこう混んでいたけど、金曜日は20時までやっているから、気持ちはゆったり。

 東京都美術館の口上
 自らの芸術の探究に生涯を捧げた画家・田中一村(たなか・いっそん/1908-1977)。
 本展は、一村の神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、その全貌をご紹介する大回顧展です。
  世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるものでした。
 自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです。
 本展は、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅する決定版であり、近年発見された資料を多数含む構成により、この稀にみる画家の真髄に迫り、「生きる糧」としての芸術の深みにふれていただこうとする試みです。

 地下1階は一村がまだ米村と名乗っていた時代の若い作品など、7歳のころからの作が並んでいます。父に手ほどきを受け、神童と呼ばれていたのもうなずける達者な筆です。
 1階は、「ここから一村の号を使い始める」という分かれ目もあり、画風を確立しようと格闘している見ごたえのある作品が続きます。2階は、奄美大島へ移住後の絵を含め、島で染め物工房で働きながら画材を買うお金を貯め、孤独極貧の中で描いた魂の絵に心奪われます。
 半分は千葉市美術館で見た絵でしたが、 半分は個人蔵などの初めて見る作品でした。
   
「秋色」1930年代    「秋色」昭和10年代
       

「棕櫚」昭和10年代「柿に懸巣」昭和20年代「枯れ木にきつつき」昭和20年代 
  
 一村が描く鳥は、スズメもキツツキも、丹念に観察し細かい描写もおろそかにしない、鳥類図鑑に載せてもいいような描写だそうです。

「白い花」1947(昭和22)
 
 一村の作品の中で、唯一公募展当選の記録が残る作品。翌年も同じ川端龍子主催の青龍展に応募しました。しかし、2点応募したうち自信作のほうが落選したことに腹をたて、入選作のほうも応募取り消しを申し出ました。一村のプライドの高さがわかる逸話ですが、ために中央画壇に名を遺した絵は、「白い花」のみ。
 
「千山競秀図」昭和20年代半ば
 

「千葉寺 春」昭和20年代


「秋色虎鶫」昭和50年代


「桜下軍鶏図」昭和20年代      「流水に楓」1950年代
   

「忍冬に尾長」1950年代
  

「写生スジブダイ」                     
 

「不喰芋と蘇鐵」1973       「アダンの海辺」
  

 一村の描いた奄美。波も緑の葉も花も生き物も、南国の光に満ちていました。「アダンの海」に描かれた空には灰色の雲が伸びているのですが、それでも
海は光輝いています。

 脳溢血からのリハビリにつとめて、再び筆をとる日を目指していた一村でしたが、69歳で亡くなりました。個展の開催を願いながらついにかなわなかった一村。亡くなったあと、回顧展が、何度も開かれました。一村の家族が長く千葉寺に住んでいた縁から、千葉市美術館が作品収集につとめ、奄美大島にも一村美術館が開館しています。

 一村は生涯独身を貫き、清貧を貫きました。終生一村を励まし、働きながら島への送金を続けた5歳年上の姉喜美子が60歳で亡くなったあとは、奄美の小さな小屋で絵を描きづけました。

 身一つで南の島に渡った一村を「日本のゴーギャン」と呼ぶ人もいます。しかし、フランスに妻子を置き去りにしてタヒチに渡り、タヒチでは現地の女性との間に子をもうけて、タヒチを出るときにはその子をおきざりにして顧みなかったゴーギャンに比定するのは、私には不満です。

 喜美子と一村の姉弟愛を思うと、テオとヴィンセントのゴッホ兄弟のほうが近いように感じます。画商であったテオに比べると喜美子は絵に関しては素人でしたが「お前がよい絵を描くことが私の喜び」と一村を励まし続けました。 
 今、一村の展覧会に大勢の観覧者が集ったのを天から見て、弟の画才を信じて弟を励まし続けた、つつましかった喜美子の生涯も決して無駄になっていない、と思います。

 タカ氏が私のコンパクトカメラのシャッターを押すとたいてい斜めってしまう。斜めっているとか手振れでぼけてる、と言うと、「カメラが悪い」と不機嫌になるので、不満は封印。昔ながらのフィルムの焦点や照度を自分で決める一眼レフが「本当のカメラだ」と信じているタカ氏。スマホもパソコンも拒否して仕事を続けている昔ニンゲンで、息子がプレゼントした簡単スマホも「どこかにいっちゃった」と、なくしてしまう始末。こういう年寄りも生きていける世の中であってほしいですが、こんなアナログ人間に仕事を依頼してくださるところもあり、ありがたいことです。「11月は忙しい」というので、いっしょにモネ展に行くのは12月以後を予定。
 
 タカ氏撮影だと、私も斜める。被写体が美しく写らないのは、、、これはモデル側の問題か。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「はにわ展 in 東京国立博物館」

2024-11-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241109
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(1)はにわ展  in 東京国立博物館

 11月1日。夫タカ氏と東京国立博物館で「はにわ展」観覧しました。タカ氏は、美術展で絵を見るのは、美術の教科書でみたことあるなじみの画家以外はパス。科博や東博で人類学や歴史関連を見るならつきあうと言う。今年2024年は、娘と東京都美術館で「永遠のローマ展」を見て、私とは東博で2023年に「古代メキシコ展」を見ています。
 
 東京国立博物館の口上
 埴輪とは、王の墓である古墳に立て並べられた素焼きの造形です。その始まりは、今から1750年ほど前にさかのぼります。古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝えています。
 なかでも、国宝「埴輪 挂甲の武人」は最高傑作といえる作品です。この埴輪が国宝に指定されてから50周年を迎えることを記念し、全国各地から約120件の選りすぐりの至宝が空前の規模で集結します。素朴で“ユルい”人物や愛らしい動物から、精巧な武具や家にいたるまで、埴輪の魅力が満載の展覧会です。東京国立博物館では約半世紀ぶりに開催される埴輪展にどうぞご期待ください。
第1章 王の登場
第2章 大王の埴輪
第3章 埴輪の造形
第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間
第5章 物語をつたえる埴輪
エピローグ 日本人と埴輪の再会

 「 挂甲の武人 」が埴輪として国宝に指定されてから50年を記念する本展の目玉は、日本各地の博物館やアメリカのシアトル美術館に離れ離れに展示されている5体の武人をそろい踏みで」展示すること。
 第4章の「国宝挂甲の武人とその仲間」の展示に大勢の埴輪ファンが集まっていました。
 武人5体の勢ぞろい(画像借り物。観覧時には人の頭で武人が隠れてしまっていて5体いっしょの姿は撮れなかった)


 5体の武人は、全部同じ場所で作られたことが判明しています。鶴舞う形の群馬県の鶴の首にあたる地域。現在の群馬県太田市あたりに埴輪工房があり、5体は少しずつ衣服や武具のちがいを表しながらも、同じ地域の工房で作られたであろうという解説。
 武人像を眺めていると、古代の上毛野で馬を飼ったり埴輪を作ったりしながら暮らしていたご先祖さまを思い浮かべることができました。もっとも母方のご先祖は鶴舞う形の羽の上のほう、父方のご先祖は魚沼こしひかりの出身ですけど、想像する分には馬飼いだろうと埴輪工人だろうと自由。


 混みこみの観覧客が途切れなくてカメラを向けられない。アングルによっては光が反射してしまって思うような姿にとれない。素人はすっこんでいろ、というところですが、数点の撮影禁止のほかは撮影自由なので、下手でも撮りたくなる。埴輪は素朴な素焼きのイメージだったけれど、表面に残されていた塗料を分析し、古代の彩色を復元した武人像も展示されていました。白と赤の彩色、思った以上に派手でした。

 国宝・群馬県太田市飯塚町出土6世紀 東京国立博物館蔵 
                   復元古代の彩色
      

太田市出土シアトル美術館・太田市世良田町相川考古館・伊勢崎市歴史民俗博物館


 埴輪のはじめは、円筒埴輪です。王の死後を守るために、古墳の周囲に立てめぐらされました。顔がついている円筒など、きっとにらみをきかせて墓泥棒などに供えたのかもしれません。

最大の円筒埴輪は2m40cm。背比べのために、タカ氏に並んでもらう。

 強大になっていった大王が広い地域を統治するようになると、王権の象徴としてさまざまな宝物が古墳に埋蔵されました。
 

金象嵌銘大刀(天理市東大寺山古墳)4世紀(刀身後漢2世紀)
 
(銘文)
中平□□(年)五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 □(下)辟不□(祥)

 刀身は後漢時代の作だということですが、大陸や半島から島にもたらされ、鉄製の刀が地上に出土するまでよくぞ眠っていてくれたと思うと、千数百年の時間の流れに思いが寄せられます。

 円筒埴輪の次に王墓に配されたのは、古墳の頂に載せられた家形埴輪だそうです。王の御霊が死後も安寧に暮らすための家。
 誉田御廟山古墳(応神天皇陵墓に比定)から出土した家型 埴輪、現在も伊勢神宮などの千木や鰹木 に同じ形が残されています。
   
 

 

 古墳時代の後期になって墳墓に配されたのが、祭祀の場などに王の権力を示すために「物語」を表すようにおかれた、人の形の埴輪や動物の形。それぞれとてもすばらしい造形で、魅力的な埴輪でした。
<人の像>」
 乳をふくませる母と子を背負う母。子の健やかな成長を願う古代の人の心、伝わります。
  

王に仕え跪く人        
 

 琴を弾く人   踊る人(または馬の口取り) 捧げものを持つ人 
  

武人と巫女(?)        杯を持つ人     捧げものを持つ人                      
  
さまざまな役割をはたす人 
  
鷹匠       力士
  
<王の身の回りの器物>
いす                船     船レプリカ  
 
<動物>
馬                  旗指物をつけた馬
   

 鹿            水鳥         羽を広げた鳥       
  
   
 大山古墳(仁徳天皇陵に比定)とイヌ     サル
   

 古代王権の宗教的な面を受け持つのは卑弥呼のような巫女。卑弥呼とコンビで邪馬台国を納めていた男弟など、王権者は、軍事と米作に欠かせない治水をつかさどりました。王が水を管理していたのをしめすのではないか、という「囲型埴輪」に木槽樋(もくそうひ) が出土しており、「治水のようすを表す」「水洗トイレを表す」「古墳が築かれるまでの殯(もがり)の宮 」などの説が出ている、というのが、興味深かった。トイレ説の根拠は、囲型埴輪の出土から寄生虫卵の痕跡も見つかっているからだというのですが、どうでしょうか。
 


 埴輪というと画像にでてくる「踊る人」。最近の説では、馬の口取りをしているのではないかと。腰の紐は、馬をつなぐ紐であったろう、という説。
 

 平成館1階の休憩所でお茶休憩。タカ氏は、私のコンパクトカメラはつかいづらいと文句を言い続け、夫が私を撮ると手ブレや斜めっている絵になる。


 東洋史専攻のタカ氏は、娘といっしょに兵馬俑展を見たと思い出し「埴輪は、兵馬俑とは関係ないのか。兵馬俑を作った人々が大陸からやってきて埴輪を作ったってこともあるかも」と馬が大陸や半島からもたらされたのといっしょに埴輪工人も島にやってきたのかもしれないという説をのべる。学生時代に騎馬民族説に魅了されたことがあるタカ氏っぽい説だけど、私は2007年に西安の始皇帝陵で兵馬俑を見てきて、ひとりひとりの兵士の姿を忠実に写しているリアルな兵馬俑と素朴な見た目の埴輪では作風が違う、と思いました。で、東博の兵馬俑展を見たタカ氏説に賛同せず。「前3世紀の秦の始皇帝の墓の兵馬俑と後3世紀から6世紀につくられた埴輪では5,600年の隔たりがあるので、秦の滅亡で亡命してきた工人が直接大陸から来たとは考えられない」と、反論。タカ氏不満そうでしたけれど。
 私は、テレビの関連番組で「埴輪は大王の墓奥深くに埋められていたのではなく、人々に王の権威を示すために、墓の前の祭祀場に物語を上演するように並べられていた」という説に大いに共感しました。だから、始皇帝とともに土中深く埋められており二千年以上人目にふれずに墓を守る兵馬俑と、人々の目に触れるように墓前に並べられた埴輪では、役割が異なると思えたのです。

 東博のエピローグは、近代以後の埴輪像の受け入れについての章でした。「日本人と埴輪の再会」に展示されていたのは、大正元年に作られた明治天皇の陵墓、伏見桃山陵を守る土人形のレプリカです。挂甲の武人の衣服に鎌倉武士のようなカブトをかぶった姿にかたどられた武人が守る天皇陵。


 明治期以前に描かれた古事記などの古代説についた挿絵。坂上田村麻呂は鎌倉武士のような恰好で描かれるし、衣通姫や神功皇后は宮中女官の緋袴小袿の姿で描かれることが多かった。しかし、小学校の歴史本にヤマトタケルや神武天皇がミズラを結い、埴輪武人のような衣服を着た姿で描かれるようになると、たちまち日本中に挂甲の武人の姿がいきわたりました。日清・日露以後の軍拡の世相に乗って、人々は千五百年前の勇ましい武人に「大和魂」を重ねて武力拡大に熱狂していきました。

 この「エピローグ」のつづきは、東京近代美術館の「ハニワと土偶の近代」に引き継がれています。近代以後の芸術家たちが埴輪や土偶からインスピレーションを得て創作した彫像や絵が飾られています。
 「日本の歴史」の源流として土偶や埴輪が受け入れられ、日本の原始・古代のイメージが定着していく近代を知りたければ、東京近代美術館の「ハニワと土偶の近代」へ。

 平成館前で

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「ハニワとキティ散歩」

2024-11-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241107
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(3)ハニワとキティ散歩

 東洋史専攻の歴史好きタカ氏が「はにわ展」を見るというので、同行。タカ氏の事務所からタクシーで東京国立博物館へ。

 はじめに、東博の庭へ。東洋館まえから本館東側の日本庭園を通り抜けて平成館へ行く「通り抜け散歩」を歩く。タカ氏は東博には何度も来ているけれど、日本庭園を通って平成館へ行くのは初めてだと。そもそも東博に日本庭園がくっついていることを知らなかった。庭園公開は時期によりけりなので、いつも開いているわけじゃないし、私も急いで観覧、というときには庭はパス。

 タカ氏は「上野公園や動物園だけでもけっこう広いのに、東博もこんな広い日本庭園を持っていたんだなあ」と、日本庭園の広がりを見て「ここ、マンションなんぞ建てないで、よくぞ緑のまま残したなあ」と感心しています。
 家康が江戸鬼門の守りとして建立した東叡山寛永寺の広大な寺域。勝てば官軍の明治政府兵部省は、寛永寺の敷地を陸軍病院と陸軍墓地の用地として決定しました。しかし、これに猛反発をしたのがオランダ人軍医・ボードワン博士。彼は、上野の山を緑豊かな公園として残すよう提言しました。

 敗残側の人々をちゃんと祀らないと祟りがあるというのは日本古来の思想ですから、彰義隊の死体が200体もごろごろと残されたままになっていたという上野の山に寛永寺由来の緑を残し、明治10年の敗残側である西郷隆盛銅像を建てたのは、平将門やら崇徳天皇やら「祟り神」の思想が江戸の町によく知られていて、明治政府も祟りを恐れただろうと、私は想像しています。菅原道真やら 祟り神はちゃんと祀れば守り神になります。ボードワン博士は、たぶん祟り神のことなんぞ知らずに、「近代都市には、民衆の憩いの場となる公園が必需」と思っていたのでしょうが、博士の提言をただちに受け入れた政府側には、きっと自らが敗走せしめた人々を鎮めたいとの気持ちがあったろうと、これはだれも記録にも残していないことですけれど、私の、民俗学的文化人類学的神話学的、勝手な想像。
 
 平日の午後だというのに、東洋館の前が大行列でした。キティちゃん展をみるための列です。


 あとで娘に聞くと、1日はキティ展の初日に当たり、グッズなどが売り切れる前に手に入れようとするファンが押し掛けたのだろうと。娘はキティ展の前売り券を買っていましたが、13時半に最後尾240分待ち15時半に120分待ちという私の話を聞いて、「ほとぼりさめてからいくことにする」と。
 キティにまったく関心のないタカ氏は、世の中にこれほどのキティファンがいることに驚いていました。11月3日にはサンリオ側からおわびのことばが発表されました。転売ヤーが希少グッズの高値転売を狙って長行列になったのを、事前にうまくさばく運営ができなかったことをわびたのです。

 娘は保育園にキティちゃんがついた赤い通園バッグを持って通っていましたし、キティちゃんの絵本も何冊も持っていましたが、何度か引っ越しするときに処分したものも多い。娘が言うには、初期のキティちゃんグッズはそれほど数がでていなかったので、通園バッグも使用済みのものであっても、今オークションにだせば、そこそこの値段がついただろうと。
 ネットで調べると赤いキティバッグ、三千円でオークションに出ていました。惜しかったな。とっておきゃよかった。

 処分してしまって惜しかったと私が後悔しているのは、埴輪の複製品「踊るはにわ」です。東博所蔵品の実物大レプリカが学生時代から長年大事にもされずに部屋のすみにころがっていました。2011年3月に部屋の中がぐちゃぐちゃになったのを片付ける際、食器棚から落ちて欠けた皿やコップといっしょに捨ててしまいました。「これは今すぐ役立たないものは捨てるように」という天のお達しだろうと感じて。
 40年前に処分したキティちゃんバッグも、13年前に捨てた「踊る人はにわ」も、心の中に残っているからいいと思うのですが。

 はにわにあまり関心がない娘は、11月1日は西洋美術館のモネ展観覧。私は、はにわ展の後、東京都美術館の田中一村展へ。一村にあまり興味を持たなかったタカ氏と別れ、ゆっくり一村展を見た後、モネ展を見終わった娘と、上野駅中の下町洋食屋で待ち合わせ。私はビールハムカツセット、娘はオムライス。

 エキナカの上野みやげショップで見ると、「はにわ踊る人」のレプリカには2万5千円の値札がついていました。ぎょえっ。捨てるんじゃなかった。日頃、天の声も夫の声も無視して生きていたのに、震災後も揺れが続く気がする「震災酔い」の中で聞いた天の声。天が捨てろっていうから、二万五千円分捨てちゃったよ。 
 

 娘がひとりで見てきた西洋美術館のモネ展、タカ氏と年末あたりの混んでいなそうな時期に行くことにしています。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「千代田区散歩」

2024-11-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241105
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(2)千代田区散歩

 明治大学博物館へ行くついでに、お茶の水神保町界隈を歩きました。帰宅までの歩数13000歩。

 10月24日木曜日。地下鉄神保町駅の改札にシルバーパスを通す。学士会館を見学してから神保町古書街を歩く。矢口書店のゾッキ本棚から「西欧建築様式史」300円を買う。建物を見て歩くのが好きといっても、知識ゼロですから「きれい、すてき」という感想しか出ないスカスカ頭。少しは勉強してみようかと思って購入したのですが、たぶん、ツンドク。
 矢口書店の建物は取り壊しにもなっておらず、昔のままなのがうれし。


 朝ごはんしっかり食べてきたので、昼ご飯は12-13時のいちばん混む時間をさけようと思っていました。しかし、丸香といううどんやの前が長蛇の列になっていたので、列を見ると何か掘り出し物があるのかと思ってしまう引きずられやすい性格だもんで、並ぶ。待っていた30分の間にネットチェックすると、出しもこしのあるうどんも高評価。でも、私にとって最高のうどんは、母が粉を捏ね、かまどの火でゆでたうどんです。こどものころは「夕飯、またうどんか」と文句を言っていましたが、いまになってみるとあれ以上のうどんに出会うことはありません。丸香のかまぼこ天ぷらトッピングのうどん、おいしかったけどね。650円。

 明治大学博物館の展示を見た後、久しぶりにニコライ堂見学。見学者献金300円。見学者案内係のおじいさんの建物解説はぼそぼとと小さな声で私には聞き取れなかったのでパス。

 聖橋の上で大勢の人がスマホを手に待っていたので、またまた掘り出し物かと思って、聖橋でしばしカメラを構えてみた。ネットに、地下鉄丸ノ内線の赤い電車の上り下りと総武線の黄色い電車が聖橋前で交差する写真がネットにのっているのを知ったインバウンド組が同じ構図で撮影しようと待っていたのです。山梨のコンビニ越しの富士山を撮影しようとして道路に飛び出すインバウンド組よりはおとなしい撮影風景でしたが、何かあってもいやだから、よい画角の絵はとれなかったけれど、早々に退散。


 神保町お茶の水散歩、最後に立ち寄ったのは、ドラマ「虎に翼」にたびたび登場した、女子部学生のたまり場「竹もと」のモデル店「竹むら」
 最終回に本物の竹むらの写真が出たためか、店の前には長い列。店の人に聞くと、最近は平日でもいつもこうなんだって。明治大学女子学生受験生増加の前に、竹むらの客激増を実体験。55分並んだ。アホやね。
 あんずクリームみつまめを注文。880円。桜湯が最初にだされ、お茶もつく。
 

 食べ終わってかえるときには、待ち客は減っていました。

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「虎に翼再び」

2024-11-03 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241103
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(1)虎に翼再び

 朝ドラ「虎に翼」が終了して一か月以上たつというのに、関連の話題がまだまだつきません。主役虎子の上司桂場役の松山ケンイチが「放送終了後の全話一気見コメント」に関心が集ったり、主題歌劇中歌がヒットしたりと、虎つば人気が続いています。

 橋本環奈のような絶対のかわいさを武器にはしていなかった伊藤沙莉がどんどん魅力を増していったのは、共演者のよさにもよるでしょうが、脚本のよさが際立っていました。
  『虎と翼』は、9月期の月間ギャラクシー賞を受賞。選評として
日本初の女性弁護士・三淵嘉子をモデルに、その人生軌跡の姿を借りて現代社会の格差や構造の矛盾、不条理といった問題へとつなげた。それらの疑念を果敢に訴えた脚本・吉田恵里香の覚悟ある姿勢、そしてその想いを見事に具現化した役者たちに拍手を送りたい。生硬になることなく、真っ当な人情ドラマとして成立させたことにも敬服」    
 私も敬服。

 10月、娘がお茶の水に出かけたおりに明治大学博物館を訪れ、「虎に翼展をやっていたので見てきた」という報告。5月末に渋谷で娘といっしょに虎に翼展を見たので、どうしようかと思いましたが、会期は10月28日までというので、終了しないうちにと、見てきました。

 明大博物館前の校舎に垂れ幕


 明治大学博物館の口上 
 大学史資料センター(所長・村上一博法学部教授)では、日本初の女性弁護士を輩出した明治大学法学部および専門部女子部(1929年設置)と、その卒業生について紹介する展覧会を開催します。
 明治大学は、いち早く法学を志す女性に門戸を開くため、1929(昭和4)年4月に専門部の一部門として女子部を設置し、1931(昭和6)年には女子部の卒業生に対して明治大学が設置する学部への入学を認めました。その結果、女子部と法学部で学んだ女子学生のなかから、三淵嘉子、中田正子、久米愛という3名の日本初の女性弁護士が誕生し、その後もしばらくは、女性弁護士の多くが明治大学女子部と法学部で学んだ者たちで占められました。
 本展覧会をきっかけに、日本における女性法曹養成のさきがけとなった明治大学法学部および女子部、またその卒業生の活躍について、ひろく知っていただければ幸いです。


 ドラマの中の明律大学女子部のモデルは、明治大学女子部。日本の女子法曹界人材育成に大きな力を発揮してきた明治大学ですが、女子大学生といえばおちゃ大、津田塾とかポン女トン女、お嬢様なら白百合聖心。女子高だった私の卒業校でも、明大を進学先に選ぶ人は少なかった。45年前にケニアでいっしょにすごした従妹ミチコは、女子高後輩ですが明大農学部出身でしたが。

 ドラマなどに登場するワセダや福沢諭吉が出ると必ずくっついて紹介されるケイオーに比べると分が悪かったメイジ、もうここぞとばかり女子部と法学部を推してきます。ドラマ効果と博物館の一室の「虎と翼」展効果で、たぶん来年の明大女子受験者大幅増かも。

 ドラマの中の山田よね着用衣装と寅子と娘優美着用のワンピース

 明倫大学女子部入口を模したセット

 ドラマ「虎に翼」も思い出せるし、明治大学の女子教育法曹人材教育の歴史もふりかえることができる良い展示でしたが、ひとつだけ不満が。
 寅子のモデルとなっているのは、明治大学出身日本初の弁護士のひとり三淵嘉子です。実家の姓は武藤。武藤家の書生と結婚後は和田。嘉子が実家の家族といっしょに撮った記念写真に「三淵家写真」というキャプションがついていました。後ろに立つふたりが嘉子の両親。右端が嘉子、右から3人目が嘉子の最初の夫 和田芳夫(と説明がついています。ほかの 4人の少年が、嘉子の弟たち四人です。
 写真に残る一家のうち、和田は1946年に戦病死。長弟は戦死。次弟は昭和化工重役 、三弟は医師。四弟は林野庁職員。

 嘉子と和田芳夫の一人息子和田芳武は寄生虫研究者。弟たちや息子の描き方は、ドラマの設定では大きく変えられていました。ドラマのキャラクター設定としてはよかったと思います。しかし、家族写真のキャプションが「三淵家写真」となっていたのはいただけません。嘉子が三淵姓となったのは、和田芳夫が亡くなったあと、三淵乾太郎と再婚したあとのこと。和田芳夫も写っている実家の家族写真なら、嘉子の旧姓「武藤家写真」または「和田芳夫嘉子夫妻と武藤家の人々」とすべきでした。細かいところが気になってしまうつまらぬ性分ですが、「学芸員の細かい気配りが展示の良さを左右する」というキュレーターの腕に信を置く博物館好きの感想です。

 法服のマネキンと。
 HALのTシャツにMeijiとあるのは明治大学のMeijiではなく、娘がチョコレートの懸賞応募であてた菓子メーカーのロゴです。
 

 法律には縁薄かったHALですが、女性が社会の中で活躍できるよう懸命に働いた先達に感謝をこめて、今の自由と平等な社会を守っていきたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「憲法公布の日」

2024-11-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241102
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>憲法

 日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました 
 朝ドラ「虎に翼」で、差別に泣いてきた人々に勇気を与えた14条がたびたび言及されてきました。憲法公布の日にあたり、14条を中心に確認します。

 第三章 国民の権利及び義務第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 未来へ向けて世界が真に平等で平和な社会の中で個人として尊重され幸福に生きていくことができますように。

「未来を花束にして!」(女性参政権のために闘ったイギリス女性たちの実話をもとにした映画)

セザンヌ 「花束」


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ぽかぽか春庭2024年10月目次

2024-10-31 00:00:01 | エッセイ、コラム

20241031
ぽかぽか春庭2024年10月目次

1001 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(1)ダンスィングミサイルママ
1003 2024二十四節季日記秋(2)シルバーパス
1005 2024二十四節季日記秋(3)シルバー行楽
1006 2024二十四節季日記秋(4)横浜散歩ニュースパーク&NHKライブラリー

1008 ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋(1)見立てミニチュアライフ展 in 横浜高島屋
1010 2024アート散歩秋(2)光と動きの100かいだてのいえ in 写真美術館
1012 2024アート散歩秋(3)見ることの重層展 in 写真美術館
1013 2024アート散歩秋(4)日本伝統工芸展 in 日本橋三越

1015 ぽかぽか春庭アート散歩>2024建物散歩秋(1)日本大通りの建物、旧横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)、開港資料館
1017 2024建物散歩秋(2)横浜三塔めぐり
1019 2024建物散歩秋(3)庭園美術館建物公開2024
1020 2024建物散歩秋(4)吉川英治記念館

1022 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節日記季秋を求めて(1)シルバー行楽奥多摩ハイキング
1024 2024二十四節季日記秋を求めて(2)秋草散歩
1026 2024二十四節季日記秋を求めて(3)池袋よさこい祭り
1027 2024二十四節季日記秋を求めて(4)オットー・フォン・ハプスブルグ
1029 2024二十四節季日記秋を求めて(5)東レプロテニス2024 in 有明コロシアム
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ぽかぽか春庭「東レプロテニス2024 in 有明コロシアム」

2024-10-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241029
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季霜降(5)東レプロテニス2024 in 有明コロシアム

 娘の懸賞生活、生活用品や食品が毎週当たりますが、ディズニーリゾートとかUFJなどあちこちのテーマパークやイベントも、食品ほどの頻度ではないけれど、たまには当選します。この秋のビッグイベントは、東レパンパシフィック オープンテニストーナメント2024( 通称東レプロテニス)の10月25日の有明コロシアムの席が当選しました。

 第39回目の大会。女子テニスの最高峰のトーナメントのひとつだ、ということすら大会概要を見てようやく知ったという程度の、選手といえば大阪なおみ選手くらいしか知らないテニス音痴。生まれて初めてのプロテニス試合の生観戦、おおいに楽しみにして出かけました。ただし、大阪選手は、体調悪く出場辞退。残念。

 10月25日金曜日はシングル準々決勝とタブルス準々決勝。だれが勝って準決勝へ進むのか、予想もつきません。

 初めてのプロテニスの試合観戦。有明コロシアムも初めて入りました。
 なにもかも珍しいおのぼりさん。入り口の荷物検査場前で。

 1万人が入る有明コロシアムですが、12時の試合開始にはまだ観客はパラパラでした。だんだん人数がふえてきたものの、メインアリーナモード2万人が1席も余すことなく満杯になる埼玉アリ―ナフィギュア会場を見てきた目には、テニスファンっていうのは、この程度なのかと思いました。たぶん、羽生げが現役のころのフィギュアが異常。現在の羽生ツアーも、たまアリ3日間で抽選外れのがっかりファン続出。3万円のアリーナ席が中国業者によって30万で転売されていると知って、娘とため息。

 

 15時前からの試合がなかなか始まらないと思っていたら、シングル順々決勝に残った唯一の日本人選手石井さやかはけがのため欠場とアナウンス。急遽、じゃんけん大会になりました。1回目では娘、2回目では私が最後のジャンケン決勝まで勝ち進んだのに、最後の1回で負けて、サインボールはもらえませんでした。

 大阪なおみ欠場、石井さやか棄権、じゃんけん敗退という残念続きでしたが、はじめて見たプロの試合は、テニスわからんちんの私にも迫力満点で楽しかったです。どのくらいわからんちんかというと。最終試合のダブルス準々決勝の3セットめ。それまで15-30-40と進んでいく点数が、一点ずつ取り合って10点先取にかわりました。え、どうして?ここだけ点数数え方がちがうのか、私も娘も知らなかった。

 結果は、
第1試合 ケイティボールター(ドイツ)6:2 6:1ビアンカアンドレースク(カナダ)
第2試合 ソフィア・ケニン (USA) 6:3 6:4 ダリア・カサトキナ (ロシア)
第3試合 ディアナ・シュナイダー 【WO】 石井さやか(日本)棄権
第4試合 ジェン・チンウェン (CHN) 6:0 1:6 6:3 レイラ・フェルナンデス(CAN) 
ダブルス クリスティナ・ブクサ(ESP)モニカ・ニクレスク(ROU) 6:3 3:6 10:4 青山 修子(JPN)穂積 絵莉(JPN) 

 第2試合の2選手 左カサトキナ 右ケニン

 勝利者インタビューのジェン・チンウェン  ダブルス青山穂積
 

 野球の音曲歓声球場を揺らす大応援に比べ、テニス観戦者は、よいプレーに拍手をするくらいで、実に静かな紳士淑女的な応援で、スポーツ文化の差を感じました。フィギュアでは推し選手の名入りタオルを揺らす応援、国際試合のときは、アゼルバイジャンとかエストニアとか、どこに存在する国かも人によっては知っていない、という国の国旗をちゃんと用意していて、国別に国旗を揺らすのが静かな応援です。全体にものすごくマナーがよく、ちょっと「上級観覧者からの圧」を感じるくらい。

 テニスはタオルも振らず声もたてず、実におしとやかな応援でした。相撲やフィギュアスケート観覧者の場合、自分自身はその競技を経験したことのない人がほとんどであるのに比べ、テニスの試合観覧者のほとんどがテニス経験者、若いころにせよ、現在の趣味のスポーツにせよ、一生のうちテニスをスポーツとして体験している。まったく競技経験のないうちら母娘のような観覧者は少数派らしい。

 点数のつけ方も知らない母娘でしたが、日本組の青山穂積ペアが準決勝ベスト4進出を決めて、うれしかったです。
 試合終了の9時半には国際展示場駅前のレストランビルの中、海鮮料理メヒコで遅い晩御飯を食べて帰りました。

 最終日の決勝、シングル優勝者はジェン・チンウェン鄭欽文 。パリオリンピック銀メダルの勢いそのままの優勝でした。ダブルス優勝者は青山修子・穂積絵莉でした。準々決勝でもよいパフォーマンスを見せてくれた選手の優勝、よかったです。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「オットー・フォン・ハプスブルグ」

2024-10-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241027
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(4)オットー・フォン・ハプスブルグ

 白金植物園庭園美術館訪問の10月16日。白金台駅を出ると目の前が港区立郷土歴史館。展示の内容によって立ち寄ることもあります。16日は「オットー・フォン・ハプスブルグその生涯と遺産 」の最終日だったので、観覧しました。写真と説明をパネルに貼りつけたオットーの一生の紹介です。展示の方法は簡便なものでしたが、オットーについて何も知らなかったものにとっては、よい内容でした。

 オットー・フォン・ハプスブルグ(ドイツ語表記 Otto von Habsburg1912-2011)は、最後のオーストリア皇帝カール1世と皇后ツィタの第一子。最後の皇太子。母親の皇后ツィタは、オットーが皇帝として復位することを崩御する日まであきらめませんでしたから、オットーが皇位継承権を放棄しオーストラリア共和国市民となったという知らせに、絶句したそうです。
 オットーは、一市民となったあと、国際汎ヨーロッパ連合第2代会長として、EUをまとめることに力をつくしました。

 港区郷土博物館の口上
 ハプスブルク家が、第一次世界⼤戦までの時代にオーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王及びオーストリア皇帝として君臨した事は良く知られています。その最後のハンガリー王及びオーストリア皇帝の長子がオットー・ハプスブルク(1912~2011)でした。第一次世界⼤戦後、オットーが戴冠することはありませんでしたが、第二次世界⼤戦下では外交上のコネクションを使って、何千もの迫害された人々を救済し、戦後はヨーロッパのために活動する国際的組織である汎ヨーロッパ連合の会長や、欧州議会の議員となりました。また、『鉄のカーテン』崩壊に重要な役割を果たした1989年の汎ヨーロッパ・ピクニックの後援者として、国際社会に多大な貢献をしました。そのオットー・ハプスブルクは、日本を何度も訪問し、皇室や政治的指導者、更には巨大企業の経営者とも強い関係を構築し、日本と欧米諸国との国際関係促進にも⼒を尽くしました。ギャラリー展では、日本との関係もご紹介します。


 オットーは、第二次世界大戦後は欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合会長を務め、汎ヨーロッパ主義のために活動しました。欧州統合を提唱した国際汎ヨーロッパ連合初代会長であったリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが死去したあと、リヒャルトの友人として会員になっていたオットーが、1972年に臨時会長となり、翌1973年に正式に第2代会長となりました。「東側社会」の崩壊をもたらした汎ヨーロッパ・ピクニックの中心人物の一人として活動し、冷戦時代の終結に寄与しました。 
 私は、リヒャルト・クーデンホーフカレルギーについては、その母青山光子の名によって知っていましたが、EUの土台となった活動にオットーもかかわってきたことを知りませんでした。

 紹介パネルは、洗礼式からの幼いころの写真は多数紹介されていましたが、オーストリア帝国が崩壊したのちの、スペインなどで流浪の日々をおくったころのことはあまりくわしくない。国籍を奪われた亡命者となった王室一家は、食べ物にも事欠いた生活だったというので、写真を撮る余裕もなかったのでしょう。
 オットーは、ハプスブルク家家長の役目を息子カールに譲ったのち、2011年、98歳で亡くなりました。

 展示では、「皇位継承者」「欧州の子弟」「オーストリア併合あるいは王政復古」「戦争と再出発」「オットー・ハプスブルクと日本」 のパートに分けてパネルが示されていました。
 オットーは何度も来日し、日本の皇室や経済人と積極的に関わったことが紹介されていました。オットーの息子カールは、現在オーストリアに在住しています。

 オットーがなくなった時、ローマ教皇からカールあてに届いた弔文の宛先は、Seiner Kaiserlichen Hoheit Erzherzog Karl von Österreich(オーストリア大公カール殿下)」だったそうなので、バチカンは今もカールをオーストラリア大公として遇しているのですね。
 今回のオットーの生涯紹介の共催は、駐日ハンガリー大使館 リスト・ハンガリー文化センターです。オットーは最後のハンガリ王の息子であり最後の皇太子であったので、ハンガリーがオットーを顕彰するのはわかりますが、オーストリアと共催していないのは、いろいろあるんでしょうね。オットーはパスポートを得る目的でオーストリア国民となることを選びましたが、自分自身のアイデンティティとしては「汎ヨーロッパ市民」と感じていたのだそうです。

 現在ウクライナとモルドバがEUへの加入審議中の国になっています。どちらも旧ソビエト連邦の構成国家でしたが、ロシアの傘下にいるよりEUとして国を維持していきたいと願っています。(国内には賛否両論がありますが)
 EUも移民問題や国家間の経済格差などさまざまな問題を抱えていますが、クーデンホーフカレルギーやオットー・ハプスブルグの理念を受け継いで、ヨーロッパがよりよい共同体になっていけるよう、極東から見守っています。
 
 港区立郷土歴史館(旧公衆衛生院)の前で。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「池袋よさこい祭り」

2024-10-26 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241026
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(3)池袋よさこい祭り

 ミサイルママと連れ立って出かける楽しみのひとつ。池袋ふくろ祭りで開催される「よさこい」。たくさんのチームが毎年それぞれの演武を競い、上手な踊りもあるし、お年寄りや子供をまじえたほのぼの系のチームもある。昨年2023年も観覧して、コロナで開催できなかった間も練習を続けて、踊りを磨いたチームに拍手をおくりました。大学チームは毎年メンバーが入れ替わるので、若々しい動きは毎年更新。シニアチーム、十年以上ひとつのチームでがんばっている人たちのイキの合った踊りも、見ごたえがあります。

 西口広場でミサイルママと待ち合わせ。ちょうど椅子がふたつ確保できたので、10時半から13時まで演武を見ました。西口のイタ飯屋でピザとスパゲティをとってシェア。ミサイルママは、毎週水曜日のジャズダンス練習のほか、第1と第3木曜日は水彩の練習。そのほか、シニア体操の会で、簡単リズムダンスを教えてほしいと頼まれ、11月には自作振り付けの「東京ブギウギ」を発表するんだ、と張り切っていました。

 15時から16時までアゼリア広場で見物。衣装工夫とかふりつけの見事さなど、見所が多く飽きません。ミサイルママが都営団地自治会の会議があるからと早めに引き上げたあと、西口駅前会場に移って、学生チームのエキシビションまで見届けました。自分でもどんだけ好きなのやら、と思います。112チームの踊り子たちは、毎月会費を払って練習を続け、自腹で衣装をあつらえ、東京までの旅費を工面し、池袋の路上で踊り続ける。その熱気が、見ているだけのこちらも元気にしてくれました。踊りだけでなく、私は大旗を振り回すのを見ているのも好きです。

 東京都知事賞(大賞)豊島区長賞遊佐町町長賞は、燦SUNでした。受賞したチームも、受賞をのがしたチームも、みなさんお疲れさん。楽しませてくれてありがとう。今回、カメラを忘れてしまい、力いっぱい踊ったそれぞれのチームの雄姿をとれなかったのが残念。

 画像借り物ですが、私が見ていた池袋西口駅前広場での大賞チーム燦SUN「祝彩」


<つづく>
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ぽかぽか春庭「秋草散歩」

2024-10-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241024
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季秋を求めて(2)秋草散歩

 猛暑から一転肌寒いくらいの気温になりましたので、これはお散歩日和と都内の庭園や植物園を歩きました。



 三の丸尚蔵館から近代美術館に向かう途中にいつも立ち寄る皇居東御苑。皇居の石垣とススキの風情、秋らしい。ススキに映えるお月見だんご食べたい。

 アサザは全国的には絶滅危惧種のようですが、東御苑のアサザは池いっぱいに広がっていて、きれいでした。大切に保護されているのでしょう。
 アサザとひめこうほね
 

 庭園美術館のついでに立ち寄るのは白金植物園(国立科学博物館附属自然教育園 )まだ木立は色づいてはおらず、秋らしい風情はまだまだでしたが、楽しい散歩でした。

 秋といえばキノコ。植物園のなかにもきのこはいろいろ生えているでしょう。切り株に生えていたのはニッケイタケ(肉桂茸)。おいしそうに思えましたが、調べたら、毒ではないものの、硬くて食用にはならないと。食用になるとしても、植物園内のものは園外持ち出し禁止なので、秋の風情を楽しんでおわり。きのこ食べたい。
 

 園内の小道を歩いていると、ご婦人がいきなり「これなんの実でしょう」と、たずねてきたのですが、私も確信はありません。しかし、形が似ているので「まだ熟していないけど、あけびでしょうか」と答えました。熟すと紫色になるのですが、たぶんアケビでいいのでは。あけび食べたい。

 園内にはいろいろな木の実が見られましたが、次のも何の実やら。

 
 こんなふうに名前がはっきり書いてあるといいのですが。

 庭園美術館の日本庭園もまだ秋の風情ではありませんでしたが、静かな趣は散歩にちょうどいい。何組かのカップルがデートを楽しんでいたのが秋の風情?いやいや春夏秋冬、しっとりひそやかな庭園はデートにふさわしい。

   

 

 10月17日は、買い物から帰る道々、スーパームーンをながめて、道端のススキを心でお供えする。気はこころ。ススキに映える月見だんごを、、、あ、これもう言ったか。

 18日は練馬区立美術館へのお出かけで、yokoちゃんと久しぶりのおしゃべり。来年はシルバーパスデビューをしたいというyokoちゃんに、「シルバーパスを足として、無料施設で遊ぶ方法」の先達として、あそこもここもたくさん伝授するとはりきる。気候もよくなってきたので、秋の散歩に最適なお出かけ先もいっぱい。大音声で天下国家を語るわけじゃなく、それぞれの日常茶飯をこまごまと声に出す。こんなひとときが人生にとっては宝物。

 「19日(土)、東京都心の最高気温は30.1℃を観測し、1875年からの統計開
始以来、最も遅い30℃以上の真夏日となった」というニュース。なんと10月後半まで夏日とは。「暑さ寒さも彼岸まで」というのは、どこに行った。

 秋の深まりもこれからですが、おりおりの自然の変化を楽しんでささやかに暮らしていきたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「シルバー行楽奥多摩ハイキング」

2024-10-22 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241020
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季秋を求めて(1)シルバー行楽奥多摩ハイキング

 春庭旅の目的は、1建物めぐり(擬洋館、近代洋館)2橋めぐり3滝めぐり4乗り鉄 5地方の美術館観覧、と思っていますが、都内からできるだけ運賃かけずにお出かけしたいとケチっているので、なかなか希望通りの旅にはなりません。

 吉川英治記念館へバス乗り継ぎで行こうと思っていたのですが、バス旅のコースを調べていたら、記念館主催のハイキング募集に滑り込みセーフで応募できたので、参加してきました。「バス旅・東京の西のはじへ」は、また今度。
 急遽応募を決めたのは、一人では行けそうもない「青梅一ノ滝」がコースに含まれていたからです。一の滝は2022(令和4)年3月に登山道整備が終わり、公開された高さ10mの滝です。道が整備される前までは、登山慣れしていない人は遭難の恐れもある秘境滝だったそうで、近くにある青龍寺の名から別名青龍の滝。辰年に行きたくなる場所です。

 滝を見ることのできるハイキングなら行きたい。
 二俣尾駅までの片道 千円強は散財になるけれど、私が青梅駅までの足としてバス路線をながめていた西武線花小金井駅から青梅までの最長都営バス路線で行くと、最寄り駅を始発で出ても集合時間の九時半に間に合いそうもない。都会を走るバス旅の欠点は、時間通りに運行できるかどうかわからない点。

 JRホリデー快速奥多摩に乗車。青梅終点。登山姿のおっさんや山ガールたちに交じってぞろぞろと乗り換え電車に乗ったら、大間違い。快速奥多摩駅行きでした。集合駅の二俣尾駅に快速は止まりません。10分弱待って青梅駅に戻り、二俣尾に9時28分に到着。9時半の集合時間にギリセーフ。駅前にはじいさんばあさんが集合しています。ばあさんたちと言っても、私より若い世代でしょう。受付で参加費千円払い、青梅市長の挨拶、担当者による簡単な足ほぐしの体操、コース説明。10時に出発。

 最初に奥多摩橋で上流の多摩川を眺める。


 奥多摩橋を渡り最初の立ち寄り地は不動明王のお堂。お堂へは、降雨後の濡れた急な道を登らなければならないとの説明。「無理と思う方は、ここでやすんでいてください」と指示があったけれど、御開帳の日以外は閉じられていると言うお堂の扉を特別に開けてもらいました、と説明があったのですから、お参りせねば。しかしながら宗教にうといHALなので、二礼二拍手一礼して、はて?不動明王は仏を守るのが役目。拍手はいらなかった。あら恥ずかし。初詣にもいかない宗教に遠い人間なので、どうもご利益がない行動ばかりする。次の愛宕神社は、神社というからには、こんどこそ二礼二拍手一礼。お賽銭はあげないので、たぶんご利益はない。

 いよいよ目的地の一の滝へ。滝であるから川の途中にある。川は谷底に流れているのだから、またまた急な山道を下る。こりゃ登りはえらいこっちゃ、と思いながら一歩一歩、ゆっくりと。


 一の滝は、地元では「幻の滝」と呼ばれてきたそう。国土地理院の定義では、水が崖を落ち始める滝口から滝つぼまでの落差5m以上、水が涸れることなく常に水量があること、を条件として国土地理院の地図に登録される。しかし青梅吉野郷一の滝は、落差10mで涸れることなく水量があるのに、滝までの道が整備されておらず、滝つぼへ降りられなかったからか、地図には載せられていなかった。地図にない「幻の滝」でした。


 現在は地域の「幾代会(植物観察からはじまった自然保護自然観察のボランティア)」の人々の活動などによって、滝つぼを観察できる山道もロープや手すりが整備されたので、近々地図にも明記されるようになるでしょうとのこと。

 即清寺の天井曼荼羅絵を拝観し、吉川英治と旧青梅吉野村のかかわりについてのレクチャーを受けてから、最後の立ち寄り地「吉川英治記念館」へ。

 

 私の好みからいくと滝以外の神社もお寺も、それほど見学したい場所ではありませんでしたが、幾代会のボランティアさんが丁寧に吉川英治と吉野村のかかわりについて説明してくれて、読んでもいないのに吉川文学に親しめた気がしました。

<つづく>
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