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ぽかぽか春庭「2024年のみそひと歌」

2024-12-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241212
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>2024のことば(2)2024年のみそひと歌

2024年11月
75歳後期高齢者の脳事情
・ポワンポワン枯れ木に積もる初雪は摂動きしむ私の縮退
・シュレジンガー猫を飼ひたる老嬢は隠れた猫を波動で探す
・ひまわりの種子ふぃなぼっちに並ぶとふ廻れよまわれ日はまだ高い
・もっと強い相互作用超ひもでぐるぐる巻きのあなたを捉える
・カミオカンデを見学したけどさっぱりと宇宙もトリノもわからなかった
・剛体の動力慣性モメントの授業は女子高時代も今もわからん 
・女子高の夏休み科学部実験はわからんかったが科学賞受く
・宙わたる教室女子高科学部はあんぐり口開けアポロを追った

・上下の歯みそひと数は保持すれど少々がたつく脳細胞No!
・万緑のグリーン因果関数の八〇二〇噛め歯目はめ歯

11月16日夜は千年前の月齢と同じだったという
・千年の望月見上げる太閤はかぐや探査機見たかったかも(この太閤は道長よ)
・百三十八憶年先の停車場でトシ子とケンジは列車に乗れたか
・玲瓏レンズ輝く空ゆくハッブルは天を掃きつつ地球をめぐる
・ギャラクシー銀河とアンドロメダ星雲五十億年後には合体


はにわ時代の彩色再現
・ 挂甲の武人は赤き剣持ち殯に立ちぬ千年守ると 


パレスチナニュースを東京で聞く
・ハラルハラル雨ふる清浄肉屋前大きな荷を持つヒジャブ少女よ

12月
・六義園の紅葉踏みわけ泣く女白髪も皺も高貴幸齢
・東京の住宅街の人の目も草も枯れ果て寂しいからす
・椋鳥の群れが群れ飛ぶ東京の自由が丘の空の一隅

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ぽかぽか春庭「2024三省堂新語大賞言語化」

2024-12-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20251210
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>2024のことば(1)2024三省堂新語大賞言語化

 世間的にはユーキャンの流行語大賞が話題なのでしょうが、仮にも「ことば」で食べてきた春庭は、毎年末の「今年のことば」が出回るとき、一番気になるのは、三省堂の新語大賞です。あたらしもん好きでいち早く辞書に新語を搭載する三省堂が、今年の辞書新搭載語を選ぶ。10年後にも日本語として定着しているであろうという語を、辞書編集者たちが選び抜く。

 決定した2024新語は以下の通り。
大賞 言語化
 漠然と抱いた意識や思考、いわく言い難い欲求や感情を、できる限り正確に言葉にして表すこと。「盛り上がった気持ちを言語化する」。従来から言語学などの専門用語として「言語化」は存在してきましたが、辞書には未搭載でした。一般用語として人々が口にするようになった語として2024に急激に台頭しネットにもあふれました。

2位 横転
 本来の意味は、左または右の方へ回転すること。転じて、思わずずっこける(ほど驚く)こと。「首相のおにぎり食い方が悪すぎて横転」

3位 インプレ
 インプレッション(impression)とは、デジタル広告や記事コンテンツ、SNSの投稿などがユーザーの画面に表示された回数を示す指標。主にWeb広告やSNSの分析画面で使用され、Web広告では施策を考える上で重要な数値指標となりインターネット上の広告やSNSの投稿などが閲覧された回数を言う俗称。広告料の支払いの算定などの指標として使われるが、実際には内容の良否善悪や真偽を裏付けるものではない。「インプレゾンビ」は広告収益のためにインプレを増やそうと大量の迷惑投稿をするアカウントを罵って言う語。
 インプレッションといえば印象派しか思い浮かばない昭和人には、ほほう、ネット社会ではこうなっているのか、と思うばかり。

4位 しごでき
 仕事ができる、手際がいい様子。「しごできで、しごはやな人」
 IT語カタカナ語、どんな語でも仮名四文字に縮めるのが若者語であるからして、「不適切にもほどがある」を「ふてほど」と縮めたテレビドラマの省略語を今年の流行語大賞に選んだのはユーキャンだけれど、クドカンドラマは、一部に受けるツー好みだから、「流行していない流行語」とブーイング。
 ビジネスマン用語で「なるはや」だの「アポなし」「あいみつ」「オリエン」「オンスケ」「コンプラ」「ブレスト」などなど、ビジネスシーンで飛び交う四文字語を駆使できることが「しごでき」な人。 

5位 スキマバイト
 空いた時間を活用する不定期アルバイト。専用のアプリ上でマッチングして短時間の雇用契約を結ぶ。手軽に働けるメリットの一方で、人材の使い捨てや犯罪に引き込まれるなどのデメリットもある。

6位 メロい
 見ている方が夢中になって、だらしなくなるほど、圧倒的な魅力のある様子。擬態語「めろめろ」の「めろ」+形容詞語尾「い」。「推しのダンスがメロいから、毎日課金→破産」

7位 公益通報
 職場の同僚、上司などによる法令に違反行為を、定められた窓口に訴えること。由来は、2006年施行の公益通報者保護法で、公益通報した側が不利な扱いを受けないことを定めている。しかるに兵庫県では死人も出たあげく、前知事再当選でわけわからんことに。

8位 PFAS(ピーファス)
 有機フッ素化合物の一部であるペルフルオロアルキル化合物とポリフルオロアルキル化合物の総称。水や油をはじく性質からはっ水剤やコーティング剤など幅広い用途で使用されてきたが、自然分解されにくく、環境中や体内に長く蓄積するなど有害性が指摘されている。地下水や河川、土壌や水道水で検出が相次ぎ問題となっている。

9位 インティマシーコーディネーター
映画やテレビなどで性的なシーンを撮影する際に、演出側の意図と俳優の意向を確認し、調整役として働く人。安全かつ快適に、双方合意のもとで撮影が行われるよう、俳優を身体的・精神的にサポートする。ながながしいカタカナ語が四文字に省略されないのはなぜか。省略するとインコーになる。淫行。

10位 顔ない
驚いた / 困った / はずかしい、といった気持ちを表す。「質問に答えられなくて顔ない」
(三省堂「今年の新語2024」の大賞発表(2024年12月3日、三省堂提供)

 三省堂が選ぶ新語は、10年後も日本語として定着しているであろうと辞書編纂者がチェックした語です。で、10年前の新語大賞を検証すると。
1位ワンチャン 2位それな 3位あーね 4位安定の 5位自撮り 6位プロジェクションマッピング 7位NISA 8位危険ドラッグ 9位~み 10位ぽんこつ

 博多弁から浮上した「あーね(ああ、なるほどね)」というJK用語について、昭和婆さんは完全に忘れていましたが、他の9語は今も意味が分かるし、自撮りとかプロジェクションマッピングは使っている。が、「ぽんこつ」をネットスラングとして、ゲームやアニメの中で、キャラクターの能力不足やドジな性格を表現する際に用いることはない、ゲームしないので。今もゲーマーには使われている語なのかもわからない。

 さて、2034年に「インプレ」がどのように使われているかを検証できるといいのですが、なにしろすでによぼよぼのポンコツ婆さんなので。少なくとも千年前の「いとをかし」を清少納言さんと同じ意味合いで使っていないし、10年後に「つらみ」や「汚み」「静かみ」を使っているとも思えないのだが。

顔ない高貴幸齢者


<つづく>
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ぽかぽか春庭「アレック・ソス 部屋についての部屋 in 写真美術館」

2024-12-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

20241208
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩木枯らし吹いても(2)アレック・ソス 部屋についての部屋 in 写真美術館

 11月の第3水曜日は東京写真美術館を観覧しました。2Fアレック・ソス「部屋についての部屋」地下1F「巨匠が撮った高峰秀子」3F「現在地のまなざし」

 写真美術館の口上
 アレック・ソス(1969-、アメリカ・ミネソタ州生まれ)は、国際的な写真家集団、マグナム・フォトの正会員であり、生まれ育ったアメリカ中西部などを題材とした、写真で物語を紡ぎだすような作品で、世界的に高い評価を受けてきました。
 本展「部屋についての部屋(A Room of Rooms)」には、初めて出版されたシリーズであり、初期を代表する〈Sleeping by the Mississippi〉から、今秋刊行の最新作〈Advice for Young Artists〉まで出品されます。30年に及ぶソスの歩みを単に振り返るのではなく、選ばれた出品作品のほぼすべてが屋内で撮影されているように、「部屋」をテーマにこれまでのソスの作品を編み直す、当館独自の試みとなります。
 出品作品のひとつに〈I Know How Furiously Your Heart is Beating〉というシリーズがあります。アメリカの詩人、ウォレス・スティーヴンズ(1879-1955)の詩「灰色の部屋(Gray Room)」の一節からタイトルがとられた本作は、2019年に同名の写真集としてまとめられ、ソスのキャリアにおいてひとつの転換点となっています。初期からソスはアメリカ国内を車で旅し、風景や出会った人々を大判カメラで撮影してきましたが、本作ではそうしたロードトリップのスタイルではなく、舞踏家・振付家のアンナ・ハルプリン(1920-2021)や、小説家のハニヤ・ヤナギハラ(1974-)など世界各地にさまざまな人々を訪ね、その人が日々を過ごす部屋の中で、ポートレイトや個人的な持ち物を撮影しています。すなわち、部屋とそこに暮らす人をテーマとするこのシリーズが、本展を生み出すきっかけとなりました。
 〈I Know How Furiously Your Heart is Beating〉では、静謐な空間で被写体から醸し出される親密さが大きな魅力となっています。「どれだけ激しくあなたの心臓が鼓動しているのか知っている」というタイトルは、その瞬間を写し留めたソスの胸中だけではなく、展示室というひとつの部屋の中で、作品と対峙するわたしたちの心の内までをも言い表しているかのようです。
 「ポートレイトや風景、静物などを定期的に撮影しているが、最も親しみを感じるのは室内の写真だ」と作家は述べています。ソスの作品に登場するさまざまな部屋や、その空間にたたずむ人々に意識を向けることで、果たして何が見えてくるのか。展覧会と写真集共に多くの支持を得る作家の表現の魅力を探ります。

 2Fのソスの写真、すべて撮影OKでした。写真展示ではめずらしい措置です。絵画展よりも、若い人や外国の方の観覧者も多く、ソスの写真の前でカップルが写真を撮り合ったりしていました。いろいろ管理が難しい面があるでしょうが、作品に親しんでもらうこと、大事だと思います。

 写真で表現したいことは作家によってそれぞれで、作品の前でおしゃべりされるのも嫌だ、と感じるアーティストもいるのも理解できます。真剣に対峙すべき画像の前で笑っておしゃべりしている二人連れを蹴とばしたいときが、私にもありました。思い出す例。ユージン・スミスが撮影した水俣病患者の歪んだ体がおかしい、と笑う二人組の若い女性。胎児のうちに水銀に冒された女の子の写真。ねじれた体を写真にさらす勇気を持った親御さんは、水俣病を知ってもらいたい、という決意を持っていたことでしょう。何の先入観もなしに見るというのも一つ鑑賞の方法ですが、写されている背景を少しは知っておくべきじゃないかと、これは昭和育ち婆さんの感覚。

 しかし、ソスは今回の展示で、「観覧者の先入観を排するため」写真にキャプションをつけていません。写真には数字のみが記されていました。まず観覧者に見たままを受け取ってほしいから、と、作品出品目録を渡してくれた受付の人の説明。会場の写真には番号のみ付されています。

 説明がほしい人は、目録の番号と写真を照らし合わせながら進んでいく人もいました。私は最初に写真だけを見て一巡し、次は4階の図書室でソスの写真集をながめ、気になった写真の記憶を確認しながらもう一度room1からroom6へと、ほぼ年代順に配置された展示を見ました。

目録の解説:番号、2 タイトル「Surf Ballroom」 撮影年1999 


 room1には、ソスの最初期の写真集「sleeping by the Mississipi」と、パリのファッション誌のための写真「Paris/Minnesota」から室内写真の抜粋。
 室内で撮影された「撮影されるものの内面を写したい」ということですから、見る者が先入観なしに被写体の心と向き合うことを、ソスもねがっていたのではないかと思います。室内でポーズをとるさまざまな年齢や社会的な立場の人々。どちらかといえばあまりゆとりのあるハッピーな感じがしない雰囲気の人が多いように感じました。それらの被写体はソスのカメラの前で、楽しそうな雰囲気を出していない。
 
 入り口の自動ドアが開くと、正面に2枚の大きなインクジェッドプリントのパネル。
  「クリスタル」 「Crystal」撮影場所, Easter, New Orleans, Louisiana 2002
 
 白いワードローブの前のベッド。ベッドカバーはディズニープリンセスの柄。金髪の女性が帽子をかぶってピンクのワンピースを着ています。ディズニーランドには、なりきりプリンセスのかわいい服を着た女性をよく見かけますが、このピンクワンピースの女性も「白馬の王子はきっと来る」と待っているのでしょうか。待ちくたびれたのか、女性の表情は悲しそうです。ソスは女性の豊齢線をきちっと写し取っています。
 たぶん照明の当て具合で豊齢線は見えにくくなるはずですが、ソスは「4」という番号のほかは何も情報を観覧者に与えていません。「見たままを感じて」ということですけれど、私は「待ち続ける矜持の哀しみ」を感じました。編み物をしているとか、歌っているとか、なにか動いている人だと違って見えるでしょうけれど、ベッドに腰かけてじっとカメラをみすえています。「I'm sorry,but he will  be not come .」と声をかけるべきでしょうか。希望の王子は来ないのを知っているのに、黙って彼女のほうれい線を見つめる意地悪。

 ユリの花を髪に飾って、町の家並がプリントされたベッドカバーに顔を寄せている少女もとても悲しそうで、見る人は思わず少女に寄り添い、「だいじょうぶ、心配ないよ」と声をかけたくなります。


「Herman's Bed Kenner,Louisiana」2002


Room2は、シリーズ「Niagara」「Looking for Love」からの初期作品抜粋。
「トンネル02」「トンネル03」「トンネル05」2004

 北京には有名な観光地がたくさんあるのに、ソスが撮ったのは、毛沢東時代に掘られたという地下トンネル。核戦争後に生き残ることをめざして掘られた地下アパートだ。2024年の現在もなお、劣悪な環境でも住み続ける人々がいる。外国人は住民の撮影は禁じられており、ソスの写真も、暗いトンネルだけの画面。

Room3は、「Dog day Bogota」「Broken Manual」「Song book」から。
「2007-10z10006」2007

 誰も住まなくなった廃墟の壁に、「I love my Dad Tony I wish He loved me」と幼い文字で書き残されています。父と子が今も愛しあっていますように。

「Untitled05」2003
 Dog days とは「めちゃ暑い日々」という意味なんだって。大犬座のシリウスが太陽と共に上ってくる期間、北半球では真夏になる。犬の日のころ、ソスは南米コロンビアから養子を迎えるために暑さの中、2か月間ボゴタに住みました。
 ありったけのぬいぐるみを吊るしてポーズをとる少女は、「犬の日」の日々をどうすごしているのでしょう。顔つきは南米にもともと住んでいた人々の系統の少女。ソス夫妻の養女に迎えられた幼子をうらやんでいる顔なのか、暑さにうんざりしている顔なのか。

Room4 「Paris/Minnesota」「Tokyo」から
「ピエール・ベルジュ&イヴサンローラン基金Moujik Ⅳ(ロシア農民4)」2007
 
   ロシア革命以前のロシア農民をmoujikと呼ぶらしいのだけれど、なぜmoujikなのか、まったくわからない。椅子の上のイヌのこと?

 2015年、東京で過ごしたソスは、新宿のホテルパークハイアットの部屋に、インターネットで探した人々を招き、室内撮影しました。ホテルを一歩でれば、新宿の街を行きかう人々を撮影することがそれほど難しいことではなかったでしょうに、なぜソトはホテルの室内での撮影を望んだのか、ソト展の開幕前プレスインタビューで、だれも突っ込んでいないので、外の真意はわかりません。

「パークハイアットホテル 鏡」2015  「サリ」2015 
  

 高層ホテルから眼下を望み、手に持った鏡にも遠くの市街が映り込む。ソトは、東京の街をにぎりしめたかったのか。
 「サリ」は、襟に日本と書かれた和服風衣装を身に着けているが、日本人からみたら異形。ソトは「ロスト・イン・ランスレーション」にインスピレーションを得たとかで、「外国人の目に映る二ホン」すなわち日本人には日本に思えないイメージを作り出したかったのでしょう。

 写真撮影OKの今回の展示。展示保護のガラスがはめ込まれていると、灯りが映り込んでしまい、なかなか思うような画像に撮れません。観覧者がうつりこまないよう、灯りが入らないようにするのは素人には無理。たったひとつ映り込んで新しい画像になったと思う写真がありました。パークハイアットホテルのセルフポートレートです。ホテル窓外の夜景に、ベッドに寝転がる自分の姿が映り込み、夜景の星空の中に浮かび上がるような幻想的な写真になりました。そして、今回の展示では、画面の保護ガラスに後ろの写真が写りこみ、三重の像が重なるのです。夜景とソスとソスが撮った写真。ロストイントランスレーションが重なる。

「ホテルパークハイアット セルフポートレート」2015 


Room5 写真集「I Know How Furiously Your Heart is Beating」はアメリカの詩人ウォレス・スティーヴンズ(1879〜1955)の詩「灰色の部屋(GrayRoom)」の一節「あなたの鼓動がどれほど早いか知っている」からタイトルがとられました。

 「Anna, Kentfield, California」2017
 アンナ・ハルプリン(1920-2021 )は、ポストモダンダンスを牽引したダンサー、舞踊教育者。1950年代から既存のマーサグラハムやカニンガムを踏襲するモダンダンスと決別し、ダンスコミュニティを運営しました。70年代にガンを患い、その治癒の過程を経験することが、ダンスコミュニティ存続に役立ちました。アンナは、2021年に100歳で亡くなるまでダンスとともに生きました。
 ソトの肖像写真。わざわざガラスの向こうにアンナが座っています。ガラスの反射やゆがみが、92歳のアンナの独特の姿を伝えています。欧米の老女肖像は、白雪姫の毒りんごばあさんのように見えてしまうことが多いのですが、アンナは「不思議の国」」の雰囲気を保って、踊り出すかも、って思えます。また角度を変えて眺めると、死んでミイラになっているのかも、、、、って。」

 土方巽や田中泯とか、ダンサーの写真はどれも好きだけれど、ダンサーとして現役で踊っていたころのアンナをまったく知らないのに、アンナの肖像、ソトが撮影した肖像の中で一番好きかも。

Room6  一番新しいシリーズ2019「A Pound of Pictures」
 机の上にごみの山のように置かれたヴァナキュラー写真と呼ばれる作家性のない(芸術性から遠いがらくた写真)の1ポンド475gの写真の山を見つめるソスの目。
「ティムとバネッサ」2019


 2022-2024にソスが美術学校で撮影した作品「Advice for young Artists」。石膏像や静物画用のオブジェ。
「形の分析」2023       「静物Ⅱ」2024                
 

「プラスチック・アートクラブ」2019

 座る男性モデルのデッサンをする若い女性たち。カメラの焦点は奥に座る男性(全裸?)に合っている。カメラはガラス越しに撮影しているようですが、真ん前にいるデッサンしている女性の前に反射具合の異なる四角い窓(?)が開いている。ガラスの向こうのスケッチ画面もぼけているからよくわからないけど、どう見てもモデルの男性像のリアルなスケッチではなく抽象画に思えます。
 なぜソトは、全体のガラスと真ん中部分のぼかし方が異なるような写し方にしたのでしょうか。照度を暗くすれば、奥域まで焦点を合わせて撮影ができると教わりました。F値を絞り込んで撮影すると、被写界深度は深くなり手前から奥までピントが合うと、私に一眼レフカメラのお下がりをくれたギンコ叔父さんが説明してくれました。今はもっぱらコンパクトカメラ愛用なので、被写界深度なんぞとは無縁ですが、ソトは奥の裸男性にだけピントを合わせている。ソトは、「若いアーティストへのアドヴァイス」としてこの「プラスチック・アートクラブ」をどのようなアドヴァイスとして表現したのでしょうか。アーティストではない私にはわかりませんが、アートを志す若い人はきっとソトの表現によいアドヴァイスをもらっているのでしょう。

 さて、ソト作品の美術館展示は2022年の神奈川県立美術館葉山で、日本で最初の展覧会が開催されました。葉山美術館は写真専門の美術館ではありません。東京写真美術館、完全に「あと追い」になりました。葉山でのソト展がどれくらい前から準備が始まったのかはわかりませんが、TOP美術館学芸員は「しまった!」とは思わなかったのでしょうか。

 最初の写真集から編年体的に展示していた葉山に比べ、「部屋」という切り口を出して編集したTOPの担当学芸員の手腕もあるけれど、素人としては、なぜ写真専門のTOPが葉山美術館に後れを取ったのかと思います。

 TOPは個人作品の展示は、2017年「総合開館20周年記念ダヤニータ・シン インドの大きな家の美術館」以来7年ぶりです。私は、2017年の「2017報道写真展」を観覧しているのに、同時開催だったダヤニータ・シンの展示を見ていません。おそらく報道写真展のほうはご招待観覧券をもらったかなにかで見たのに、シンの展示にお金を払って見る気になれなかったのだろうと思います。貧しい!

 ダヤニータ・シン以来の単独の写真家展になるアレック・ソト展。写真美術館としては久しぶりの個人作品の展示、第3水曜日のありがたい無料観覧日でした。
 
 ソトがホテルパークハイアットで写した一枚はアートになり、下の一枚はヴァナキュラーがらくたになります。

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「巨匠が撮った高峰秀子展 in 写真美術館」

2024-12-07 00:00:01 | エッセイ、コラム

20241207
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩木枯らし吹いても(1)巨匠が撮った高峰秀子展 in 写真美術館

 高峰秀子(1924-2011)は、昭和を代表する女優であり、多数のエッセイ著作を残した文筆家として、戦前戦後の昭和社会を生き抜きました。
 2024年、生誕百年となるさまざまな記念行事の中、写真美術館で「巨匠が撮った高峰秀子展」が開催されました。


 写真美術館の口上
 操上和美をはじめ、写真界に大きな足跡を残した木村伊兵衛、土門 拳、早田雄二、林 忠彦、秋山庄太郎、大竹省二、操上和美、立木義浩。名だたる写真界の巨匠が、高峰秀子という一人の女優をいかにとらえたか―。
 それぞれに才能きらめく写真家たちの独自の眼差しで見つめた高峰秀子は、同じ被写体でありながら、明らかに違う佇まいと表情を見せています。
そして、レンズを覗いている写真家一人一人が持つ力、言ってみれば、撮る側と撮られる側の覚悟、レンズを通した人間対人間の闘いとも言える熱い瞬間を私たちに伝えてくれます。 

 不世出の大女優といっても、1979年には女優業を引退し、文筆を中心にした活動でしたから、私はリアルタイムで高峰秀子出演作を見ていません。70年代に私が見ていた映画はほとんど洋画でしたから。高峰秀子出演作もテレビ放映の「なつかしの名画」として見てきただけ。だからリアルタイムで映画館で高峰秀子を見たセンパイ諸氏には当時の熱狂などをお聞きしたいところですが、その先輩もすでにほとんどは鬼籍入りとあって、テレビ放映視聴組も少しは高峰秀子のすごさを語っておいても罰はあたらない。

 地下1階の「巨匠が撮った高峰秀子展」は、写真史にきらめく巨匠たちがそれぞれの視点で撮影した秀子像が作家ごとに並んでいます。
 巨匠の展示の前に、高峰秀子の出演作が時代順に並んでいました。出演映画の思い出、とくに共演者について一言感想がかいてありました。ほとんどの共演者については「上手かった」と書いているなか『無法松の一生』で共演した三船敏郎について「あまりうまくなかった」と書いていたのが笑えました。

 4歳で実母を失い、叔母(父の妹)の養女として東京に伴われる。5歳から天才子役として映画に出演し、以来、養父母のほか函館から東京に出てきた祖父の一家7人、合計9人の生活費いっさいを秀子が幼い身で背負う日々となりました。小学校には6年間で数日しか通えなかったというほど多忙をきわめる生活は、現代なら児童福祉法違反でしょうが、戦前のこと。大衆演劇の巡業に付き従っていた役者の子供なども、なかなか学校へは通えなかったというのが、昭和まで続いていたって、役者の談話が残されていますから、映画界の人たちも児童福祉違反などとは思っていなかったろう。そのかわり、皆がけなげな少女を大事にする。映画監督も小説家も画家も。小学校なんぞにいかずとも、谷崎潤一郎や梅原龍三郎などそうそうたる人々がいわば「家庭教師」のように世話をしたという。映画の台本からも撮影所の人々からも出会うものすべてを吸収し、成長しました。

 子役として人気を博した子ほど、少女期を乗り越えて女優として大成することは少ないと言われる中、秀子はずば抜けた聡明さを持ち、よい映画監督とのめぐりあわせもあって、演技派女優として成長し、松竹専属としての月給で家族を養いました。家族を養う重圧から逃れることができたのは、松山善三との結婚で実家をはなれたあと。莫大な出演料を稼いできたのに、すべてを養母に浪費されていて貯金もなく、結婚式もごく地味なものでしたが、結婚は実家からの解放でした。1955年の結婚を機に女優を引退するつもりでしたが、助監督だった夫が監督に昇格し作品を撮る助けにと仕事をつづけました。完全に引退宣言をしたのは1979年、55歳のとき。

 以後エッセイストやテレビインタビュー番組の司会などとしての活動し、亡くなったのは2010年。享年86歳。出演作600本。エッセイ20冊。夫と共作の旅エッセイ4冊。
 洋画日本画の巨匠が描いた肖像画は。梅原龍三郎の描いた「カニの秀子像」は近代美術館へ。その他は世田谷美術館に寄贈されました。

著作など


 松山善三秀子夫妻の養女となった斎藤明美が長年秀子のそばで見てきた被写体としての秀子像について述べています。カメラを向けられた瞬間、被写体として一瞬のゆるみもなかったと。その場の光や雰囲気、写真家の意図を即座に計算し、まつ毛の一本に至るまで完璧な自己像を作り上げた、、、、。
 
 巨匠たちの撮影、それぞれに見事でした。木村伊兵衛、土門 拳、早田雄二、林 忠彦、秋山庄太郎、大竹省二、操上和美、立木義浩

 1階ホールでは高峰秀子代表作が上映されていましたが、一本1200円の入場料を見て「うちに帰って録画してある高峰映画見よっ」とやめました。
 戦前の作品は見たことがありません。昔テレビ放映で見た映画、録画されていたけれど、なかなか見る時間がとれなかった映画もある中、1200円払わないで家で見直したのは、「浮雲」。森雅之が私好みのイケメンではない。ろくでもない男が好きになってしまえば、私も屋久島だろうと南大東島だろうとついていったかも。いや、やっぱ金のない男についていきたくはない。と、言いつつ金のない男とケニアで出会って45年。

 「銀座カンカン娘(1949)」「カルメン故郷に帰る(1951)」「煙突の見える場所(1953)」「浮雲(1955)」「張込み(1958)」「無法松の一生(1958)」「スリランカの愛と別れ(1976)」などなど、高峰秀子出演の映画、けっこう見てきたなと思います。  

 美女ポスターのわきに立つのはひんしゅくものですが、日付確認用にも必要なので。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「テレビ三昧」

2024-12-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20251205
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節気日記寒い朝も(3)テレビ三昧

 貧困高齢者は、年末年始といってもあいさつに行き来することもないので、ぐうたらと過ごしています。電車通勤しているときは電車読書時間があったけれど、テレビの前では本を広げることもなく、だらだらとテレビを見る。寝る前に文庫本広げるけれど、目をつぶるとすぐ寝てしいます。推理小説は犯人わかるまで読んでしまうので、なるべく読まないようにしているけれど、夫が読み終わった東野東吾を回してよこすので、11月も「架空犯」を一晩で読み終わりました。今回、犯人が登場した頁で「あ、この人犯人」と思ったら初めて当たった。私の「ドクシャのカン」は当たったことないのだから、めでたい。今年は年末ジャンボでも買うか。買うお金ないけど。

 2024年の1年間、食品以外のもの買わないし(5割引きになった食品)、出かけるのはシルバーパス利用徹底。遠回りしても都営地下鉄とバス利用。無料美術館へ出かけないでいる間、家では毎日テレビつけっぱなし。お茶碗洗いながら耳だけで聞いているときもあるし、画面凝視のときも。耳が遠くなってきたので、ドラマは台詞が聞き取りにくい。しっかり見ていないと、ストーリーがわからなくなる。

 歴史好きだから、毎年大河ドラマを見てきました。
 2024大河は、平安時代が大河として受けるのかと心配しながら見始めたら、とても面白く毎週たのしみでした。
 紫式部の娘藤原賢子(大弐三位) が道長の娘というアリエネー設定も、ドラマの中で見ていると、こういう解釈もありえると思えてくる絶妙な脚本でした。上東門院藤原彰子が孫皇子の親仁親王乳母に賢子を抜擢したのは紫式部への信頼のためと思うけれど、周囲の人々の反発はなかったのは、道長の積極的な推挙でなくとも暗黙の了解があったからだろう、と思わせる。1025年に周囲の反発があれば、実資が小右記に書いているでしょうから。

 道長摂関期に皇太子や天皇周囲の乳母には、上等門院や源倫子らの意向が強く反映し、道長の家司の家族などから選ばれているという乳母に関する研究からみると、倫子の家司でもなく道長の家司でもない、とっくに亡くなっている受領階級である藤原宣孝の娘が後冷泉天皇(親仁親王)の乳母に抜擢されたのは、やはり紫式部の娘であったからでしょう。摂関期から院政期までの乳母の系譜出自についての詳細な研究もある中、父も無く祖父為時は出家後であって後ろ盾のない藤原賢子の抜擢は、やはり異例のものです。

 「光る君へ」は、紫式部日記や栄花物語、小右記の記述を上手に脚本に生かしたところには感心し、おやおやこんな解釈してもいいのかい、と心配になるところもあったけれど、脚色の色付け具合が面白かった。なにより、香炉峰の雪の場面や曲水の宴 の再現、鑓り水の流れがちょっと短かすぎではあったけれど、御堂関白記に基づいてスタジオながらよくセットができていました。平安絵巻を十分に堪能できたドラマでした。美術係が舞台セットや小物の写真や設計図をまとめた本をだしたそうなので、古本に回ってきたらほしいな。

 朝ドラ。3月までは「ブギウギ」楽しかったし、4月からは「虎に翼」おもしろかった。「おむすび」第1回目で脱落したかわり、再放送朝ドラは、「カーネーション」「カムカムエブリバディ」「花子とアン」「半分、青い」見ています。「なつぞら」もおもしろかった。リアルタイムの放送のときは、仕事優先で録画みる余裕もなくて毎日見ることは難しかったのですが、今は朝ドラ漬け。

 クドカンドラマ、「不適切にもほどがある」「新宿野戦病院」「終りに見た街」「季節のない街 」全部おもしろかった。
 2024年後半のドラマ「宙わたる教室」「海に眠るダイヤモンド」。実話をもとにした定時制高校のストーリーや炭鉱組合活動のシーンをテレビで見ることができたこと、役者もよくて、毎週楽しみ。
 
 ドラマ以外でも、楽しくテレビを見た番組がたくさんありました。歴史ものも、旅番組もアート紹介番組も好き。テレビばっかり見ていた2024年でした。アーカイブもときどき見ます。瀬戸内寂聴が世阿弥の取材で佐渡を旅するのを見たり、「海に眠る~」の関連と思って「緑なき島」というタイトルの軍艦島ドキュメンタリーを見ました。端島の外観や高層住宅などは当時の映像でしたが、炭坑内部の描写は端島炭鉱のものではなく、他炭鉱の映像だったという話もあり、昔のドキュメンタリーは、やらせもフェイク映像もありありだったという話。
 テレビばっかり見ていた2024年でした。2025年もテレビ漬け楽しみたいです。

 テレビ大好き。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「有病息災」

2024-12-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241203
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節気寒い朝も(2)有病息災

 2024年も12月になって、いろいろな人がいろいろな事柄を振り返っています。春庭の2024年は相変わらずの貧乏暮らしが続き、時に生協の引き落としができず、ときにNTTの引き落としができず、かつかつギリギリの暮らしに、娘に「スマホ使えなくなったら生活できない」と叱られる。食うや食わずの毎日でも、半額セールになった弁当やうどんセットなどを貧民食いするからダイエットにもならない。無料の美術館めぐりは楽しいけれど、なにはともあれ、健康第一と思って、区の無料健康診断を受診。

 11月30日までの期限付き無料検診なので、11月25日に駅前のクリニックに出かけました。姑のかかりつけ医でしたが、私は隣の駅の病院で定期健診を受けることにして、こちらのクリニックにかかったことがありませんでした。今回駅前クリニックにしたのは、区の無料検診は区内の医院のみで実施するとあったからです。いつもの病院は隣の区なので。

 6月にパソコンキーボードを足の上に落として小指骨折したときも、8月下旬コロナに罹患したときも、定期健診の病院の整形外科や内科で診察してもらって済ませてしまいました。骨は「できるだけ動かさないように」というほか治療の方法はなく、コロナは咳と痰はでましたが熱はでず、今までコロナ経験者に話を聞いてきたのと比べても、ごく軽い症状だったと思います。
 いわば有病息災の1年。75歳高貴幸齢者としては、白髪振り乱してではありますが、背筋シャンと伸ばし、自分の足で歩いて無料展覧会にでかけることができ、32本そろった自分の歯で固焼きおせんべも食べられる、ありがたい幸齢生活です。

 25日の健康診断、検診での血圧110-70はクリニックの医者に「いいですね」とほめられました。レントゲン、心電図、血液検査などをして、大腸がん検査キットを渡されました。
 27日のいつもの病院での内科検診眼科検診。眼科問題なし、内科まあまあの数値。
 28日に駅前クリニックでインフルエンザワクチン接種。大腸ガン検査キットを届けるついでです。15時から16時半まで待合室でまちました。5分で終わる接種のために90分の待ち時間、普段は読まない週刊誌を読んですごしました。

 あまり体も動かさず、お金ないのでオーガニックなど体にいい食材を買う余裕もないけれど、時間を自由に使える幸福。のんびりする余裕はないのに、73歳まで働き詰めだった暮らしで、結婚以来はじめてと言っていい、朝何時に起きてもいい生活です。こんなに働き続けたのに、年金では暮らせない貧困高齢者ですが、半額弁当をたのみに暮らします。

 ウェブ友の父上が闘病とのお知らせをもらいました。少し年上ですが戦後昭和期を生きてきた同世代と思う方なので、なんとか元気になってもらいたいとおもうし、この父上と同じ年齢と思うウェブ友は、海外ひとり旅で災難にあって難儀したということを知り、それぞれにそれぞれのつらい年末もありますので、HALの貧乏暮らし難儀など「食うに食えないダイエット」に励んでやりすごそうと思います。

 薔薇の絵と美を競いつつ!高貴幸齢を目標に。
 
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「踊る東京ブギウギ」

2024-12-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241201
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節気日記寒い朝も(1)踊る東京ブギウギ

 「高齢者ふれあい館で体操グループがダンス発表をするから、時間があったら見にきて」とミサイルママに言われて、11月8日に出かけてきました。
 ミサイルママが、水曜日のジャズダンスの練習についていくための体力つくりとして、週2回体操グループに参加している話は聞いていました。区の高齢者介護予防のサークル活動として、区の公募に応募した高齢者が自主サークルを作り、区の施設を無償利用して活動するものです。

 ミサイルママがご主人と住んでいる区、私も35年間住んできた区は、都内23区の中で、高齢者率が高い地域です。区は介護施設を増やすよりも介護を受けなくても元気に過ごせるお年寄りを援助するほうが結局のところ「安くつく」という結論になったようで、介護予防の拠点として「老人ふれあい館」や「老人いこいの家」などで「入浴券」「おしゃべり会」「体操」などの福祉活動を実施しています。

 ミサイルママの体操グループは、70代80代のお年寄りを中心に、無理のない体操をこの3年続けています。体操に簡単なダンス振り付けを取り入れてミサイルママが動きの指導をしてきました。
 
 今年は、ミサイルママ振り付けで「東京ブギウギ」を踊ると言うのです。サークル全員の衣装として、2009年に中国赴任のおみやげにジャズダンスサークルに10何枚かプレゼントしたベリーダンス衣装を使って、「e-Naちゃんからもらった衣装だから、見てもらいたいと思って。でもAダンスの発表と違って、歩くのもおぼつかないお年寄りがフレイル予防のために参加して手足動かしている体操グループだから、期待はしないでね」

 私が出かけたのは、ある企てがあってのことでした。ミサイルママは、インテリア会社を定年退職したあとハローワークの職業訓練としてホテル業務の修行をしました。テーブルセッティング実習やベッドメイキング実習の話を楽しそうにしていて、私は生き生きと新しい分野に挑戦する話を聞くのが楽しみでした。その卒業式の謝恩会余興として、みなそろっての踊りが大好評だった、という話を聞いたことがありました。ミサイルママがダンス未経験の仲間を指導したのがうまくいったとの話。今回の介護予防の高齢者を指導した話を聞いて、計画を思いつきました。

 私たちがジャズダンスを習っていた先生は、とても高度なダンステクニックをお持ちの方なので、「何度もくりかえして練習すれば必ずできる」という方針を喜寿の今も変えません。ミサイルママたちAダンスの仲間もそろって70代になり、昔のようにキレッキレとはいかない動きも出てきました。

 ミサイルママが振り付けを簡単にしてお年寄りも体を動かせるように変えて踊った、というのを聞き、発表会を見学した後、区に企画書を出して、今所属している高齢者体操サークルだけでなく、「介護予防の簡単ダンス指導」を行う先生としてミサイルママを推薦し、活動してもらおうと思ったのです。


 発表は楽しくみなで和気あいあいと進みました。体操サークルのおばあちゃんの娘さんお孫さんも観覧に見えて、拍手もいっぱい。踊り終えたお年寄りたちも、満足そうなようすでした。男性のひとりはパーキンソン病をかかえ、不自由な体を少しでも動かそうとがんばっているそうで、ダンス発表にも積極的に参加したそう。
 むろんミサイルママのジャズダンス歴40年の動きは抜群でした。


 発表後は駅前のコージーコーナーでランチ。ミサイルママのご主人ジンさんもいっしょにパスタやモンブランケーキを食べました。

 しかし、私の「高齢者ダンス指導者就任のお願い」は、ミサイルママに一蹴されました。
 「今のサークルでサークルの一員としていっしょに踊っている分には、仲間内のことだからいいけれど、指導者として教えるのはとてもできない。お年寄りにステップ教えて、ころんで骨折とかいうことになったら、責任とれない。もちろん区のサークルだったら、保険も入っているし、自己責任っていうこともできるけれど、指導をする以上、そういうリスクも考えなきゃ。ケガする可能性のあるお年寄りの指導するってことは、いろいろな責任も含めてのことだから」と。

 なるほど。私は素人やお年寄りに教えるのが上手だから、絶対適役だと思ったのですが、ミサイルママはもっと慎重に考えているのでした。
 いさぎよく、あきらめました。

 ジンさんはこのところ腰を痛めており、先月紅葉見物にでかけた日光のホテルで、大浴場まで階段を下ってお風呂に入り、さて登りの階段で疲れ切り、翌日の紅葉散歩はミサイルママひとりで歩いたのですって。

 ミサイルママの再婚前は、お弁当を持って都内近郊の美術館や庭園を散歩する「大人の遠足」に出かけるのを「お金ないけど心ゆたかに暮らしたいシングルマザーと準シングルマザーのおでかけ」として楽しんできました。再婚後はちょっと遠慮して「ジンさんと二人で温泉巡りをした」などのみやげ話を聞く側になっていましが、「ジンさん、もう病院への往復くらいしか歩けないから、ジンさんと別々に出歩くことにする。美術館のお出かけとか、また誘ってね」というミサイルママ。この春めでたく古希をむかえシルバーパスデビューをしたというので、「シルバーパス+無料美術館庭園めぐり」にお誘いしようと思います。

 「こんな性格悪い母と長年友達付き合いしてくれる人、貴重だから、大事にしないとね」と、娘が言います。はい、わかっています。ヒトと出会えば、回りじゅう、私より美人、私より才能豊かな人ばかりですから、ねたみそねみ満載で意地悪なことばかり思ってしまう私なのに、ミサイルママは体操サークルのおじいさんおばあさんたちに、私を「大親友」と紹介してくれました。大親友をこれからも大切にして、大人の遠足を楽しみたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2024年11月目次」

2024-11-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241130
ぽかぽか春庭2024年11月目次

1102 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>憲法

1103 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記秋(1)虎に翼再び
1105 2024二十四節季日記秋(2)千代田区散歩
1107 2024二十四節季日記秋(3)散歩ハニワとキティ

1109 2024ぽかぽか春庭アート散歩みのりの秋(1)はにわ展 in 東京国立博物館
1110 2024アート散歩みのりの秋(2)田中一村 奄美の光魂の絵画展 in 東京都美術館
1112 2024アート散歩みのりの秋(3)水の情景月の風情展 in 三の丸尚蔵館
1114 2024アート散歩みのりの秋(4)明治時代の歴史物語月岡法然を中心に in 町田市立国際版画美術館
1116 2024アート散歩みのりの秋(5)「両大戦間のモダニズム1918-1939煌めきと戸惑いの時代」展 in 町田市立国際版画美術館
1118 2024アート散歩みのりの秋(6)シュルレアリズム、芥川(間所)沙織ほか小特集 in 近代美術館
1119 2024アート散歩みのりの秋(7)野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館
1121 2024アート散歩みのりの秋(8)野見山暁治展後期 in 練馬区立美術館
1123 2024アート散歩みのりの秋(9)わたしの言葉をあなたに届ける展 in 目黒美術館

1124 ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(1)ルネ・ラリック in 近代美術館
1126 2024アート散歩秋の工芸(2)旧朝香宮邸のアールデコ
1128 2024アート散歩秋の工芸(3)庭園美術館のあかり
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ぽかぽか春庭「庭園美術館のあかり」

2024-11-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241128
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(3)庭園美術館のアールデコ

 庭園美術館、今回秋の建物公開では、「あかりともるとき」というタイトルのもと、照明具やアールデコ装飾が、カーテンをあけ広げた普段は見られない環境の中で展示されていました。通常は作品保護のために暗幕で閉ざされている室内のようすを、日常の光とともに見られる展示方法です。
 照明具は一部復元で、家具も当時の室内写真などをもとに復元されたものです。

 玄関のあかり    エントランスロビー脇の家具と照明具ミニチュア飾り
 

1階 小客室テーブルランプ    大広間 天井のあかりと家具
 

 香水塔も、いつものカーテンがなく、外の景色が見える展示。庭ベランダ側からも窓の中に香水塔が見えます。
  

大客室あかりルネ・ラリック  大食堂あかりルネ・ラリック
  
  
姫宮居間のあかり       妃殿下寝室あかりとワードローブ
  
朝香宮鳩彦殿下寝室と居間のあかり
   

若宮居間             若宮寝室
  

2階階段上の照明      2階階段上ロビーの照明
  

 何度か訪れている旧朝香宮邸。窓を開けた部屋のようす、煌々と輝く灯り。それぞれ美しい姿でした。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「旧朝香宮邸のアールデコ」

2024-11-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241126
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(2)旧朝香宮邸のアールデコ

 旧朝香宮邸は、パリ万博アールデコ博の意匠を気に入った鳩彦允子夫妻によって、室内のすみずみまでアールデコデザインを取り入れました。室内設計を担ったアンリ・ラパンが日本を訪れることはありませんでしたが、朝香宮夫妻や宮内省内匠寮の技師 との綿密な打ち合わせを重ね、1931年に竣工しました。

アンリ・ラパン デザイン「花瓶」 絵付けカミーユ・タロー窯(リモージュ)1925頃         アンリ・ラパン「蓋付壺」(セーブル製陶所)1925
    

アドリアン=オーギュスト・ルデュク製造セーブル製陶所デザイン1931
              ジャン・マヨドン「花瓶」1940年ころ
   

レイモン・シュブ「大食堂サイドボード」1920-1930
            フランソワ=エミール・デコルシュモン「鉢」1925
  

  

2階書斎
ルネ・ラリック「花瓶インコ」1919    殿下書斎の棚の壺
  

 新館には、個人所有などのアールデコのランプが、ドームほか作品など多数展示されていました。

 アールデコの照明具や陶磁器を堪能して、18時の閉館時間には、あたりはすっかり暗くなっていました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ルネ・ラリック in 近代美術館」

2024-11-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241124
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋の工芸(1)ルネ・ラリック in 近代美術館

 旧近衛師団本部にあった近代工芸館が金沢に移転して以来、近代工芸に親しむ機会が減りました。江戸時代までの工芸は東京国立博物館本館にありますけれど。
 
 近代美術館常設展示の一角にルネ・ラリックの小特集がありました。
 関西の実業家井内英夫美佐子夫妻が収集したコレクションは、ほぼすべて国内の美術館に寄贈されました。

 私は根がひがみ者ですから、富にあかして収集して囲い込む金持ちや、値段があがることだけを楽しみにオークションで落札するようなコレクターによい感情を持っていません。しかし、図書館員と郵便局員の夫婦がこつこつと給料の中から現代美術を買い集め、すべてを美術館に寄贈した、ハーバートとドロシーのヴォーゲル夫妻とか、尊敬するコレクターもいます。井内夫妻のことまったく知らなかったですが、夫妻は財団を設立し、ミャンマーをはじめアジアの留学生を支援する団体も運営していると知り、お金を儲けるだけでなく、使い道を知っている経済人と尊敬できます。バカ息子がマカオあたりで、一晩で5億円もすったりする金持ちに爪のアカでも飲ませたい。
 と、金持ちへの妬みひがみはさておき。井内夫妻のコレクション。ルネ・ラリック。

「花瓶つむじ風」1926      「花瓶野ウサギ」1923        
 「花瓶ダリア」1923         
 
「花瓶カワセミ」制作年不詳   「花瓶いんこ」制作年不詳
 

「香水瓶アンバーアンティーク」1910「香水瓶四匹のセミ」1910 「香水瓶美しい季節」1920「香水瓶ツバメ」1920「香水瓶光に向かって」1926 

「カーマスコット」1928   「カーマスコットロンシャン」1929
 

 カーマスコット、庭園美術館にも同じものが飾られていました。朝香宮邸の車はどんな車種だったのでしょう。

 ラリックの展示はあちこちで見てきましたが、井内夫妻のコレクションも収集家の情熱がガラスから伝わってきて、冷たい無機質のガラスなのに、ラリックが目指した新しいガラスの表現、技法の苦心の情熱が伝わってくるような気がしました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「わたしの言葉をあなたに届ける展 in 目黒美術館」

2024-11-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241123
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(10)わたしの言葉をあなたに届ける展  in 目黒美術館

 目黒美術館、開館記念日無料公開の日に出かけました。「わたしの言葉をあなたに届ける」展。
 「静かに無言で絵を見る」という美術館のありかたを変えてみようという試みを含む展示でした。

 見る人が感想を即時に発することを試みた双方向性や、絵のモチーフの契機となった音楽を聴きながら鑑賞するなどの企画。私が観覧した日は、絵のそばのスピーカーから、その絵をどう受け止めたか、見た人のことばが朗読されました。絵を一方的に展示するのではなく、「見た人の気持ちを届ける」というコンセプトでしたが、私は参加せず、ただ黙って見てまわりました。双方向という美術館側の企画はよいと思いましたが、その作品について、見てすぐにいまその場で述べたいということがなかった。私は、写真をとったり絵葉書を買って、家に帰ってからもう一度反芻する方式なので。胃はひとつだけど、脳はぐるぐると反芻する。

目黒美術館の口上
 制作されてから何十年、何百年と後の時代に生きる私達に、当時の日常はどのように映るでしょうか。今とそれほど変わらないと感じるものもあれば、新鮮で、どこか特別な風景に思える場合もあるだろうと思います。それらは、日々刻々と変化していく現実のありのままの姿というよりも、作家の目によって捉えられたその瞬間の世界であり、多くのことを語っているのです。 鑑賞する私達は、そうした作品を前に何を思うでしょうか。

 例えば、作家の対象への眼差しや、描かれた人物たちの関係性、心の機微や感情などに思いを巡らせることができます。しかし、見方は一通りではありません。美術館では、時が経っても作品の状態が変わらぬように保管していますが、それらを鑑賞する私達の受け 止め方や作品の価値は、時代とともに変化しているはずです。  本展は、そうした変化を視覚化、聴覚化し、自分以外の他者がどのように鑑賞しているのかを知る機会とするために、「静かに見る」 という美術館の鑑賞マナーを緩めてみたいと思います。作品と対峙して感じた言葉を紙に書きとめて壁面に貼り付けていくインスタレーションや、それらを朗読した音源の展示などをとおして、他者の言葉が当たり前にそばにある展示空間を作ります。展示室を介して様々な人が関わり合い、相互に鑑賞を深めていく見方の実験を、コレクション展を通じて試みます。
1 身の回りのいつもの風景
2 日常のふとした瞬間
3 細やかな生活感情と親密さ
4 没頭する姿、その時間
5 かたちを探るよろこび 

 ささやかな日常の姿、いつも見ている普段の光景なので気に留めずにいた景色が、画家によってどのように受け止められ、観覧者はそれをどう受け止めるのか。

 たとえば藤田嗣治(1886-1968)の「静物(インク壺)」。
 身の回りにある日常生活で、使いこんできたハサミ、ペン、磁石、インク壺、マッチ箱、鍵などが置かれている。藤田はこれら愛用の文房具に自分を投影して描いたのだという。ペンやインクは筆まめな自分の投影。針やピンを引き付けている磁石は、5回の結婚を重ねた自分の分身でしょうか。いわば自画像のひとつの表現としての日用品。ふむふむ。でも、封筒を押さえている手は何?石膏かなんかの手形なのでしょうか。

 藤田嗣治「静物(インク壺)」1926-1928(画像借り物)


 第1次世界大戦の間、日本からの仕送りが途絶え極貧時代も経験した藤田。大戦後のベルエポック時代に急速にFoujitaの人気が高まり、絵も売れるようになりました。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られました。Tsuguharuという本名がフランス式だとhが消え、「つぐある」となってしまうのを嫌い、Tsugujiと名乗る。周囲の人たちはFoujitaから「Foufou(お調子者)」と呼び、藤田は時代の寵児になりました。

 銅版画インク壺は「私が描けば、日常のつまらぬ文房具でさえ芸術なのだ」と、有卦に入っていた藤田がおかっぱ頭をなでていたかもしせん。
 この「静物(インク壺)」は、100枚限定プリントされた銅版画です。当時の値段はいくらくらいだったのでしょう。百年たった今、オークションでは200万-300万円くらいだって。手に入るような機会があったら、買っておきましょう。100年後には1000万になるかもしれないので、子孫のために。と、思って買っても、あなた、それ高精細プリントの複製品ですからね。(byなんでも鑑定団)どうしても値段で鑑賞してしまうHALなので、感想を書いてくださいと美術館に言われても、「お金があれば、本物買いたい」くらいしか書けない。買えないけど。

藤田嗣治「接吻」1904


 最初の妻登美子はフジタの留学のため別居。その間フジタは月に5通も手紙を送ったそうです。しかし、留学延期のため登美子と離婚。フランスでフェルナンド、リシュー(ユキ)、マドレーヌなどと華やかな女性遍歴を続けた最後に、フジタ50歳のときに迎えた5番目の妻、25歳年下の君代(1911年 - 2009年)。戦後、日本を離れてフランスに定住して晩年をすごした藤田に、最後まで連れ添った君代は、フジタの死後、夫の作品と名誉を守り抜きました。

「君代のプロフィール」1938 (出会って間もないころの君代のスケッチ)


 藤田と31年間連れ添い、藤田が81歳で亡くなったあと、君代は、98歳まで生きて藤田の絵を守りました。大勢の画家が戦争協力の絵を描いたのに、自分一人に戦争責任を負わされた藤田は、フランスに帰化し、終生日本にこころ開きませんでした。自分亡き後、君代夫人が少しずつ絵を売って生活していけるよう、晩年は、売りやすい小品をたくさん描いて残したそうですが、藤田を知る君代夫人は、藤田の絵が日本に戻されることを嫌い、「君代コレクション」として日本に流出させませんでした。藤田の絵が日本で再評価され知られるようになったのは、夫人の死後のこと。

 最近売買された藤田の絵は、何でも鑑定団で10億円という評価がついた、と買い取った似鳥美術館が価格こみで展示していました。今年3月に小樽へ行ったとき、値段のお知らせつきで公開されていたのを見ました。
 小樽芸術村似鳥美術館「カフェにて」
  

 写真撮影OKの第5展示室には池田満寿夫(1934-1997)の作品が特集されていました。
 著作権が切れていない画家の作品が多かったので仕方ないのでしょうが、館所蔵作品なのだから、練馬区立美術館が野見山暁治展の展示のほとんどを撮影OKにしたように、もう少し撮影OKの作品を増やしてほしいです。フラッシュ禁止スマホ撮影音禁止にして、混んでいない平日に受付で住所氏名提出した撮影希望者に、撮影許可の腕章かリボンをつけさせるなどの処置をすればよいと思います。どうしても写真を撮りたい、記憶にとどめておけない婆の願い。

 「真珠の耳飾り」といえばフェルメールを思い出し、「大波」と聞けば『神奈川沖浪裏」を思い出すことはできるけれど、池田満寿夫の「日光浴をする貴婦人たち」と聞いても、あれ?どの絵だったかなって、思い出せない。写真とっておきたい。
 図録買えよ、無料入館の日に来たのだから、とは思うものの、「シルバーパス+無料入館」の高貴幸齢者行楽を追及している身としては、一日のお出かけがゼロ円ですむと達成感が得られる。(単に貧乏&ケチ)

池田満寿夫「日光浴する貴婦人たち」1962  「飾り窓の中」1963
  
池田満寿夫「黒い女」1964        「夏Ⅰ」1964          
  
「ベッドに横たわる女」1964


 今回展示の中でいちばん大きな画面は、草間彌生(1929~)のアミアミ点々絵画。畳3枚弱の大きさ、3枚組190×390cm。

草間彌生「無限の網B」1964

 後年、自己模倣かと思う絵も量産された中、1964年の制作はバリバリ「前衛の女王」としてアメリカを闊歩していたころの作です。 「形を探る」というテーマの第5室に、どど~んと迫力の展示でした。細かい網目が無限に広がっていきます。1986年に目黒区美術館が購入。
 1973年に体調を崩して帰国した直後は、「前衛の女王」どころか「へんな絵を描く頭のへんな画家」という評価だったという学生だった頃の記憶があります。当時は統合失調症を患ったことへの偏見が大きかったのだと感じます。

 このころ草間の絵をもらったとしても、たいしてありがたくもないと思ったでしょうから、ようやく評価が高まってきたころとはいえ、開館1年前の1986年の時点で草間の購入を決めたのは、開館に向けて絵を収集していたころのスタッフのお手柄。今じゃ、とても区立美術館なんかじゃ手に入れられないと思う。エッチングなどのプリント類でも数百万円、アクリル画には5億円のねだんもついている。あ、やっぱり値段で絵を見るHAL鑑賞法。

 「わたしの言葉をあなたに届ける」という企画にその場では応じられず、家に帰ってからの数点の絵の感想を書くとして、値段のことばかり。こんな鑑賞しかできない老婆にも無料の展示公開、ありがとうございました。
 権現坂下から目黒駅までシルバーパスで1停留所だけですが、乗車。行きは目黒駅から下り坂だから歩けるけれど、帰りは上り坂になるので、シルバーパスありがたい。
 雨もよいの一日でしたが、よい時間をすごすことができました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「野見山暁治展後期 in 練馬区立美術館」

2024-11-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

  (展示室頭上の壁面のパネル)
20241121
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋(8)野見山暁治展後期 in 練馬区立美術館

 練馬区立美術館での野見山暁治後期展示、行きたかったけれど、ちょい遠いなとか、前期展示はyokoちゃんがお連れで観覧後のおしゃべりもできて楽しかったけれど、yokoちゃんが野見山を気に入ったかどうか判断つかなかったので、後期の観覧お誘いが正解かどうか判断つかず、後期はあきらめようかと思ったけれど。なんせ75歳以上は無料だし、野見山の絵は、後期の抽象画が野見山らしいと思うし、えいやっと、おひとり様で11月13日に観覧。

 4章 風景を見つめて1964-1990年代
 1969年に再婚後、糸島と練馬のアトリエを往復する生活は、野見山の画業ものっていた時期と思われます。1981年に芸大を辞職したあとは、好きな絵を好きなように描いていました。一度売り渡した絵が展覧会などに出品されたあと、アトリエにもどされる機会があると、また手を加え、絵を返却された持ち主が「この絵は私の持っていた絵じゃない」と言い出すほどでした。

「森」1969            「知らない季節」1970             
  
「異邦人」1973          「海坊主誕生」1978
  
「浮かぶもの」1979頃     「山の上」1980
  
「ある日」1982              「創世のはなし」1994
 
「目にあまる景色」1996


5章 うごめく風景2000年代 
 野見山は、練馬と糸島のアトリエで、複数の絵を同時進行して描くことが多く、横長のキャンパスに描いていた絵を出展するときには縦長に変えてしまうなど、自由な絵筆でした。↓の「束の間」も、2004年から2016年までおりにふれて筆を入れた作品です。

「思い出すこともない」2008頃   「束の間」2004-2016
  

 野見山は、個人所蔵の絵が展覧会などに貸し出された後、アトリエに戻される機会があると、どんどんと手を入れ、絵の具を足したりはがしたり。持ち主に返却されたとき「これは私が持っていた絵じゃない」と怒り出す、というぐらい、自作を「永遠に完成はしない」と思っていました。

「当てにはならない」2021  「題不詳」(最後までアトリエに残されていたうちの1枚)2023
 

練馬のアトリエの一部再現

 入り口に入って最初に目に入る「思い出すこともない」の絵の前で。


 野見山暁治の17歳から102歳までの画業、すばらしい展示でした。練馬区立美術館は、これから改修立て直しになるそうですが、館所蔵品の展示があるときはまた野見山の特集を並べるでしょうから、きっとまた会える。それまで「思い出すこともない」なんてことなしに、ときどき見たくなると思います。
 アンケートに書いたのは「75歳がよれよれと練馬まで来るのはたいへんだった。前期後期いちどに見たかった」

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館」

2024-11-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241119
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋(7)野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館

 野見山暁治(1920-2023 )は、2021年100歳まで画業を続け2023年に102歳で没しました。美術学校繰り上げ卒業で満州に出征して、からくも帰還できたことを忘れず、戦没学生の描いた絵画収集を行うなどの活動も続けました。文化勲章受章などの栄誉も得て画家としてに生涯をまっとうし、練馬区と福岡県糸島に建てたアトリエを行き来して作品を描き続けました。

 練馬区立美術館の口上
 練馬区立美術館では開館準備中から野見山の作品の収集を続けてまいりました。1996年と2007年には野見山の個展を開催、近年では、2021年・2024年に新たに作品を収蔵しコレクションを充実させてまいりました。「追悼 野見山暁治 野っ原との契約」展では、当館への収蔵後、初公開の作品を含む、油彩画、ドローイング、版画に加えて、練馬区のアトリエでの野見山の愛用品など、前後期を通じて約80点を展観いたします。2025年に開館40周年を迎える練馬区立美術館は同年より建て替えを予定します。建て替えを目前に控えた本展覧会は、2階のみの展示となりますが、1930年代の最初期から2020年代の最晩年までの野見山の画業をご覧いただくまたとない機会です。 
 本展覧会では池袋モンパルナスで過ごした東京美術学校時代から、戦後の炭坑や骸骨といった具象的なイメージを描く時期を経てフランス留学にいたる[前期]と、帰国後、自然や身近な事物をモチーフに独自のイメージを展開させ追究し続けた晩年までの[後期]に分けて展観します。絶筆作品を含む油彩画や版画、ドローイングおよび関連資料等、前・後期を合わせた約80点を通じて、野見山の画業の軌跡を辿ります。併せて、野見山の暮らしと制作の拠点となったアトリエの風景にも焦点をあてます。野見山は、1971年に練馬区に、ついで1976年に福岡県糸島市に住居兼アトリエを構えました。ともに建築家の篠原一男(1925-2006)の設計によるものであり、柱のない広いアトリエ空間や開口部が切り取る風景、特徴的な階段などは、野見山の制作を支えただけではなく想像力を掻き立てるものであったと考えられます。本展覧会では、アトリエに残された制作の道具や愛用の品等を展示するとともに、アトリエでのインタビュー映像やこの度新たに撮影した練馬と糸島のアトリエ内部をご紹介いたします。 

 一章 池袋モンパルナスから戦地へ1930~1943
 「自画像」1937      渋谷風景1938
  

「札幌の冬」1939      「糸満」1940    
   

「佐野の道」1943


 東京美術学校卒業後、応召し満州で発病。帰国入院し、敗戦後に退院しました。戦没画学生の慰霊美術館である「無言館」の設立に奔走したのも、この応召経験によるものです。戦病兵となって帰国できた自分と比べ、多くの美術を志した若者が戦死しました。
 
2章 焼け野原でみつけたもの1940年代後半~1951
 1948年、妹(田中小実昌夫人)の同級生内藤陽子と結婚。
 
「植木鉢と燭台」1948    「花と骸骨」1948頃
    

「静物 牛骨」1949      「横浜郊外」
 

「街はずれ」1949頃         「炭鉱」1951
 

「廃坑D」1951            
「青年」1952          「坑内」1952
  

3章 渡欧時代 人間像と風景の探求1952~1964
 1952年渡仏。1956年、妻陽子はがんを患い、病死。1964年帰国。
 渡欧前は暗い色調が多かった野見山の画風が、ヨーロッパの人と光景にふれ、妻の死というつらい時期を乗り越えて、しだいに明るい色調へと変化していきます。12年間の渡欧時代、作風は具象から抽象的になっていく過程がよくわかります。

「セーヌ川」1955          「ロアール河ノ町」1955
 

「シーナの部屋」1957頃       「岩上の人」1958
 
 
 シーナとは、本の装丁家になっていた椎名其二(1887-1962 )のこと。野見山の「自選の作品を語る」で「低い天井には製本用にとりどりの色の紙がつるしてあった。そこは地下室で奥が暗く、部屋というより奇妙な空間だった」(アトリエ659号1982年1月号)と語っている。日本で知ってきたキュビズムやフォービズムの色彩や形に、渡仏以来さらに強い印象を得ていたことはむろんだろうが、当時のどの日本人よりもフランス文化を語りうる晩年の椎名に影響を受けたように、私には見える。椎名の頭上にひらめくいろとりどりの紙は、野見山を色の世界にいざなっているように思えるのだ。
 椎名が1962年に亡くなった後、野見山は日本に帰国する。
 
「落日」1959              「花」1961            
   

「青い景色」1963-1964


 1964年に帰国後、芸大教授として後進を指導しつつ、1971年に練馬にアトリエ「海の階段」、1976年福岡県糸島に「糸島の家」を建て、50歳で再婚した福岡のクラブ「みつばち」のママ武富京子と、東京福岡を往復しつつの別居結婚を30年続けました。毎年初夏から秋は糸島ですごしていたそうです。80歳のとき京子もまたがんで失う。
 102歳まで描き続けた野見山暁治の後期の展示は11月12日-12月25日

<つづく>
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ぽかぽか春庭「シュルレアリズム、芥川(間所)沙織ほか、小特集 in 東京近代美術館」

2024-11-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20241118
ぽかぽか春庭アート>2024アート散歩みのりの秋(6)シュルレアリズム、芥川(間所)沙織ほか小特集  in 近代美術館

 東京近代美術館、館所蔵のMOMAT展は、65歳以上どの日も無料です。年に数回は展示替えがあり、毎回初めて見る作品に出会います。購入品、作家本人や遺族からの寄贈、委託品など。
 10月10日、4階3階2階それぞれに興味深い特集展示があり、よい作品を見ることができました。

 4階1室肖像画特集
オスカー・ココシュカ「アルマ・マーラー像」1912
 ココシュカが描いたのはグスタフ・マーラーの妻アルマ(1879−1964)。アルマは従兄との結婚を最初に、画家クリムト、作曲家ツェムリンスキー、など数々の男性との恋愛を得てグスタフ・マーラーと結婚。19歳年上のマーラーが50歳でなくなったあと、またまたココシュカはじめ数々の男性に取り巻かれますが、グロピウスと再婚。グロピウスと離婚後作家ヴェルフェル と再再婚。

 ココシュカはグスタフ・マーラーの死後、1912年頃にアルマと恋愛関係になりましたが、結局はふられました。どれだけ追いかけても手に入らないアルマの肖像。ふられた後だったのか、とても冷たいまなざしに思えます。アルマにとっては7歳年下のココシュカは物足りなかったのでしょうか。ココシュカは妄執といえる激しい気持ちを持ち続け、彼女をモデルにした人形とともに生活したとその奇行が伝わります。

 アルマ像は長年4階に展示されていました。ちょっと怖い女性だなあと思いましたが、今回はじめて、ココシュカの恋焦がれてついに実らなかった恋物語を胸に眺めました。ココシュカは描き上げた喜びを「私の最高傑作!」とアルマに告げたそうですが、この絵の完成後ふられたことを知ってみると、ココシュカの及ばない恋の気持ちが画面に投影されているように感じました。


 ココシュカは1919年に、胸をあらわにしたアルマ実物大の人形をつくり、服を着せて、22年にこの人形の首を切り落とすまで片時も話さず「同居」したという。すさまじい執着。人形と自分を描いた肖像も残ります。凡人には怖い愛です。

長谷川利行「岸田国士像」1930

 岸田国士の次女岸田今日子が生まれた昭和5年の作。国士は、詩人岸田衿子と女優今日子姉妹の父。演劇人あこがれの賞にその名を冠していることを知ってはいましたが、岸田國士の顔とか想像したこともありませんでした。長谷川は好きな画家のひとりですから、長谷川の手になる肖像画で「ああ、こういう方でしたか」と知り合えた気がします。

梅原龍三郎「高峰峰子嬢」1950


 「銀座カンカン娘」が完成し、戦後のはつらつとした娘の姿をスクリーンに定着させていたころの高峰秀子。自身も「日曜画家」として絵を描くことから梅原と知り合い、ほどなくモデルとなりました。高峰は、完成した絵の目が飛び出ているのでこの絵を「カニ」と呼ぶようになり、梅原も「ああ、あのカニの絵ね」と、御大みずからカニと認めていたのですって。エッセイに梅原のことも書き残している高峰ですが、このカニの顔はちょっと怒っているように見えます。

 4階で、草間彌生の1950年の作品を見ました。1952年松本市で草間初個展に出品されたものです。個展後、草間は1957年に渡米します。渡米後の草間は現代美術のトップランナーとして活躍を続けました。
 「集積の大地 」


 キャンバスではなく、麻袋に描かれています。さまざまな幻覚幻視の症状があらわれていたというころの草間ですから、画面下のニョロニョロっぽいものは、ミミズでしょうか、庚申の夜に人間の体から這い出してきて天帝にその人の悪行を告げ口するという三尸(さんし) という虫でしょうか。目の前に現れる幻視の丸い形を画面に定着させることによって己のスタイルを確立していった草間の、丸い点々ではなくニョロニョロの絵、

 4階第3室には「変貌していく都市」の姿を描いた絵画が並んでいました。
岸田劉生「道路と土手と塀(切通写生)」1915(大正4)


 110年前の代々木。劉生は「土のエネルギーを表現したかった」そうです。そのエネルギーが、見る目のない私には土に由来するのかどうかはわからないのですが、近代という坂道を明治大正の人々が駆け上がっていくエネルギーを感じます。この坂道を登って、坂道の上から近代というものを見たくなります。坂の上の空は青い。「のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう 」という司馬遼太郎の声が聞こえてくるような。

中川一政「板橋風景」1919(大正8)

 中川の住まいは、このころ巣鴨付近だったというので、川岸にスケッチに出かけることも多かったでしょう。左上の赤い鉄橋、空、川面、両岸の枯れた草原。冬の光景ながら、寒々とした印象ではなく、鉄橋の赤と空に広がる光から暖かさも感じます。

木村荘八「新宿駅」1935
 1923年の関東大震災後、被害の大きかった東京の東側から、都市のにぎわいが西側に移っていったころの新宿駅。

 日本橋生まれで江戸情緒にシンパシーを持っていた木村にとって、新宿駅は雑多な都市の魅力をはらむ場所であったかと思います。都市の持つ華やかな祝祭性を感じるよりも、1929から1933あたりまで続いた世界大恐慌の後、人々がまだうつむき加減で駅に行きかっているような気がします。

織田一麿「銀座(六月)」1925リトグラフ
 この銀座も華やかな都会のにぎわいよりも、2年前の震災の暗さが残っているような色彩。

織田一麿「ほていや六階から新宿三越遠望」1930リトグラフ


小泉癸巳男「三井と三越」1929  小泉癸巳男「築地勝鬨渡し」1931
 
 
長谷川利行「タンク街道」1930

 3つ目の小特集は、「シュルレアリズム百年」。
 アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した1924年から100年。百年の間に超現実はさまざまな方向に広がり深まってきました。日本でも多くの画家が超現実の世界観を画面に表出しています。

マックス・エルンスト「砂漠の花(砂漠の薔薇)」1925(新収蔵)

マックス・エルンスト「マルスリーヌ・マリー(『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』より) 」1929-30 
 

 福沢一郎「四月馬鹿」1930


 北脇昇「独活」1937
 

 靉光《作品》1940

イヴ・タンギー「賢者の耳」1938


マックス・エルンスト「つかの間の静寂」1953-1957 

 シュールレアリズム100年のほか、芥川(間所)沙織の生誕100年の特集もよかった。現代美術にうといので、私は、芥川(間所)沙織の作品をこの夏はじめて見たのです。現代美術館の「現代美術の女性作家7人」のひとりとして作品が展示されており、強いインパクトを受けました。現代美術館で見たのは、「イザナギノミコトの国造り」「女Ⅺ」。
 芥川(間所)の生誕百年の展示は、全国の美術館8館が、それぞれの所蔵品を展示して、全国で芥川(間所)沙織の生誕百年を記念する、という美術館縦断のプロジェクトです。
 近代美術館の小特集には染色作品4点と油彩作品2点が展示され ていました。

 芥川(間所)沙織 「女Ⅷ」1950       「女Ⅰ」1955 
 
 芥川(間所)沙織「神話 神々の誕生」1956  「神話より」1956
 

 芥川(間所)沙織 「黒と茶」1962  「スフィンクス」1964
 

 旧姓山田沙織は、1924年愛知県(現豊橋市)に生まれ、芸大声楽科で学びました。芥川也寸志と結婚後は音楽活動を禁止され、家の中で歌うことを封印。長女次女をもうけたのち、音を出さない表現活動として油絵と染色を学ぶ。前衛画家として活動を始め、1957年芥川と離婚し、1959年渡米。帰国後。1963年建築家間所幸雄と再婚。1966年、妊娠中毒症のため死去。享年41歳。

 生誕百年を記念して刊行された「『烈(はげ)しいもの。燃えるもの。強烈なもの。 芥川紗織 生涯と作品』により、作品243点が紹介されています。
 最初の結婚相手「芥川龍之介の息子」の苗字と再婚後の夫の苗字を両方並べる作家名にしていたのは、本人の名乗りなのかどうか知りたいところ。作家名を記録するにはちょっと面倒な。結婚まえの作品には山田、1963年前に仕上げた作品には芥川、再婚後の作品には間所にするか、「アーティスト名をつける」でいいんじゃないかと思います。私なら、妻の芸術活動を禁じた夫の姓など名乗りたくもないけれど、人それぞれだからいいけど。

 4階3階2階では戦争画の小特集もあり、明治絵画の小特集もあり、フェミニズム映像の特集もあり、盛りだくさんな展示でした。谷中安規の版画小特集もよかったし、65歳以上は無料の近代美術館常設展で、ただでこんなに楽しめて超おとく。

 有料の企画展は見ていません。近代画家が土偶埴輪からどんなインスピレーションを得て描いたか、という展示ですが、夫と東博の「はにわ展」を見にいく約束をしているので、ま、いいかなとパス。写真だけ撮影しました。昔、娘と見ていたハニ丸ヒンべえと。


<つづく>
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