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ぽかぽか春庭「見えてくる光景 in アーティゾン美術館」

2020-06-04 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200604
ぽかぽか春庭アート散歩>春のアート巡り(2)見えてくる光景 in アーティゾン美術館
 
 2月末から、多くの美術館が外出自粛要請のために臨時休館。
 新国立美術館で開催された「ブダペスト―ヨーロッパとハンガリーの美術400年」の招待券をミサイルママに貰ったのに、見ないうちに美術館休館となってしまいました。

 当初、自粛要請は3月初めから2週間程度、ということだったので、3月16日を目途に再開したところもあったのです。
 休館していた美術館のなかには、16日以後再開したあと、感染拡大の報が続きすぐに再びの休館になったところがありました。
 2020年1月18日に新規オープンしたアーティゾン美術館も途中休館していましたが、再開したので、3月25日午後出かけました。

 帰宅後、ニュースを見ると、都知事が25日夜「感染爆発の重大局面」と発表。3月28日29日の東京外出自粛要請。春庭は28日土曜日に歯科医の予約があったので出かけて、スーパーで食料を買い、29日はひきこもりしていました。3月25日午後の美術館訪問は、ほんとうに隙間に開いた開館でした。

 旧ブリジストン美術館は2015年に閉館し、新ビル建設のために4年間お休みしていました。
 春庭は、2015年4月30日、5月から閉館という直前にブリヂストン美術館に「見納め」に行きました。休館中は、館所蔵品が他の美術館などに貸し出されたていたのを、「あ、これはブリジストン美術館の所蔵作品だ」と気づくこともありましたが、ようよう2020年1月に新しい23階建てのビルの中にアーティゾン美術館として開館。4,5,6階が展示フロアになっています。

 「見えてくる光景」というタイトルの所蔵作品の展示、新収蔵品30点を含み、展示数206点にのぼり、充実していました。
 フラッシュを使わなければ、館内撮影OKだったのですが、こういうときに限ってカメラを忘れる。新収蔵品などは撮影しておきたかった。(以下、画像は借り物です)
 その代わり、係員に教わって、スマホに絵の解説がでるアプリをインストールしました。スマホのイヤホンを持っていれば音声で聞くこともできたのですが、日ごろスマホは調べものとメールしか使わないので、イヤホンを持っていなかった。

 「見えてくる光景」のチラシには、新収蔵のヴァシリー・カンディンスキー「自らが輝く(1924)」が使われていました。
 スマホの解説には、カンディンスキーがバウハウスのマイスターだった頃に制作されたもの、と出ていました。


 P.O.ルノアール「座るジョルジェット・シャルパンティエ嬢」


 20歳で東京に出てきたとき、一人で行ける場所は上野の西洋美術館、東京駅前のブリジストン美術館くらいでした。休みごとに通いました。(映画館に女性が一人で行くと、セクハラにあうことが多かった。一人で映画館にくる女性は「男探し」に来ているのだ、と世間一般の男性に扱われていました。今なら太ももを触りにきた男の手をねじり上げるくらいのことはしますが、当時は、席を立つくらいしか抵抗の方法がなく、一人で安心して休日を過ごせるのは美術館だけでした。50年前のことです)。

 ピカソの「サルティンバンク」、青木繁の「海の幸」など、何度となく眺めてきたおなじみの作品にも再会し、新収蔵の31点もとてもよい作品ばかりでした。

 アーティゾン美術館、「へんな名前になっちゃったな」と思ったのですが、アートとホライゾンの合併造語という名前にも、これから慣れていくことでしょう。ブリヂストンはストーン(石)とブリッヂ(橋)をくっつけただけって会社名。美術館は石橋正二郎のコレクションであることが、わかりやすいネーミングでしたね。鳩山家に嫁に行った正二郎氏の娘安子さんは石橋鳩山両家から受け継いだ資産は250億円。由紀夫邦夫兄弟に渡していたお小遣いが一ヶ月1000万円だった、というのを聞くと、鳩山邸と美術館の入場料は無料にしてほしいなあと思ってしまう、貧乏人の感想。

 新収蔵の「洛中洛外図」。暗くした別部屋にこれだけ別にして展示されていて、観客は私ひとり。じっくり眺めることができて、とてもよかった。祇園祭、徳川和子入内行列などが描きこまれています。
 この屏風だけで1時間は見ていたいところだったけれど、私が入館したのが16時。18時閉館までに200点をざっと見たので、また別の日にもう一度見に来るつもり、、、、だったのですが、外出自粛になったので、「3月31日までの会期中もう一度」は、なくなりました。
 せっかくの美術館新開館展だったのに。コロナ感染防止で閉館した分、会期延期してほしいなあ。

 アーティゾン美術館は、インターネット入館予約が必要です。10時から2時間ごとに入館していき、入館料1100円はクレジット支払い。当日券は、予約人数に余裕があるときのみ販売。予約なし当日入館者の当日入館料1500円。

 ばあさんは、スマホ操作がわからなかったので、当日券買おうと直接美術館へ。当日券との差が400円というので、「わぁ、ネット予約操作が分からないばあさんは400円も高いんだ」と言ったら、受付の人がインターネット予約の方法を教えてくれることになりました。
 操作を教わりながら入り口で予約をして、1100円で入りました。安くなった400円分。いつもは2,3枚にとどめるお土産絵葉書を、8枚買いました。

 青い鳥さんへの絵はがき、4月末で合計1090枚。シャガール「ヴァンスの新月」ジョルジュ・マチュー「10番街」などを、順次絵の解説や季節の話題を書いて送っていきます。春庭得意の愚痴も。ほとんどの美術館が休館になってしまって、春庭の「高齢者が低料金で楽しめる」場所がなくなってしまった、という「コロナ愚痴」も書いています。

 青い鳥さんへ4月に送った一枚は、アンリ・マティス「青い胴衣の女」
 
 
<つづく> 
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ぽかぽか春庭「越境者たち in 目黒美術館」

2020-06-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200602
ぽかぽか春庭アート散歩>2020春のアート巡り(1)越境者たち in目黒美術館

 緊急事態宣言が出され、東京は5月下旬まで自粛生活が続きました。
 都知事の要請に従って、国立都立が早々と休館を決め、区立や私立の美術館も休館となりました。
 映画館や動物園水族館など、ほかの娯楽施設も閉館。私が休日に時間を過ごすところがなくなってしまいました。
 博物館や美術館など、空調がよく換気が十分であり、人と人が密着して話をするというわけではない場所は、消毒や入場人数など感染に気をつければ、そうそうクラスター発生という場所でもないと思うのですが。 
 5月14日に、感染拡大が収まってきた県に緊急事態宣言は解除・緩和がだされ、次いで全国の緊急事態宣言が解除。しかし、東京都はまだまだ感染収束なった、とは言えません。
 人々が安心して買い物もお出かけもできるようになるには、もうちょっとです。

 都内の感染者数がまだ一桁台だった3月18日、娘と目黒川沿線を歩くことにして、途中目黒美術館に寄る、という散歩コースに出かけました。今思えば、緊急事態宣言が出されたあとほどの「外出自粛」も声高ではなく、外気の中を他者と離れて歩くのはよい、という雰囲気でしたから、わりあいにのんびりとした気持ちで歩いていたのでした。

 それほど絵の鑑賞が好きではない娘は、「母、先に行ってゆっくり見ていて。あとから行って合流するから」と言うので、先に美術館に入館。自館所蔵作品展なので、65歳以上550円。全作品の写真撮影OKでした。観覧者は、どの室も一人か二人。私一人で一室独占の時間もありました。

 「越境者たち」展。同時開催「山下新太郎のファミリーポートレート」


 山下新太郎(1881-1966)は、二科会や一水会創立メンバーの洋画家。
 私は、ブリジストン美術館(現アーティザン美術館)で「読書」を見たほかは、あまり山下作品に親しんでいません。

 アーティザン美術館所蔵の「読書」の下書きかと思われる絵も出展されていました。


 
 2018年に山下の三女渡邊峯子が、保有していた峯子像などを目黒区美術館に寄贈。今回の山下新太郎展となりました。
 山下の妻ヨハナを描いた小さなコンテ画のほか、人物像はすべて峯子像。ほかに、バラやシクラメンを描いた花の絵。

 峯子3歳のころ(画像借り物)


 ファミリーポートレートというタイトルがついており、家族写真が数点展示されていました。妻ヨハナ(誉花)の母であるドイツ生まれの山崎ラウラもいっしょに撮影されているファミリー写真、また晩年の新太郎と誉花のツーショットなど、山下が家族の愛に恵まれた人だったことがわかります。
 
 長女百合子が10歳で病死した翌年に三女峯子が生まれたため、新太郎は峯子を大切に育て、峯子をモデルにしたポートレートを数多く描きました。
 ルノワールに影響を受けたという暖かい色彩で、家族や花を描いた山下新太郎。

 編み物をする峯子(画像借りもの)


 よい絵が出展されていましたが、私ときたら、いまひとつ山下新太郎に興味がわきませんでした。それは、彼が恵まれた家に育ち、思いのままに絵を学び留学もして、終生愛し合った妻とかわいい子供もいる。晩年には名誉も金も得て、長女が10歳で亡くなったほかは、ほんとうに幸せな画家人生を送った人だから。
 芸術家は「家庭の幸福」なんぞは望まずして芸術ひとすじに生きるほうがいい、という私の思い込みからは遠い「幸福人」だからかもしれない。

 画家や小説家が幸福な人生をおくったっていいんだけれど、私は「家庭の幸福」から遠い芸術家のほうが好きみたい。
 すぐれた芸術の才能と、家庭の幸福の両方を得るなんて「ズルい!」というねたみひがみそねみやっかみの感情からでしょう。

 目黒駅に戻り、昼ご飯を食べてから娘と合流。もう一度目黒区美術館へ。
 「母、もう全部見たんでしょ。2度目に見て楽しいの?」と娘は聞く。娘は「ディズニークラシックコンサート」の同じ曲を何度も聞きに行く。私は2度目になると娘のようには曲を楽しめなくて、居眠りして娘に叱られてしまったこともあったけれど、絵は何度見てもよい。



 「越境者たち」
 第1章。川村清雄と諏訪直樹
 
 川村清雄(1852-1934)は、明治期洋画の先駆者のひとり。徳川宗家16代の家達の学友に選ばれ、20歳になると徳川家より派遣され欧州留学を果たす。帰国後は勝海舟らの庇護を得て、洋画に和風の画題を融合させる作品を残しました。
 しかし、黒田清隆をトップとする薩摩藩系の画家が主流を占めていた明治洋画壇で、川村清雄は半ば「忘れられていた洋画家」になっていたのです。川村再評価が始まったのは、生誕150年を過ぎてから。
 私は、東京国立博物館近代絵画室で「形見の直垂(虫干し)」という絵以外に、川村作品を見た記憶がありませんでした。「形見」とは、勝海舟の遺品、ということです。

 前述のように明治洋画壇で不遇をかこっていたこともある川村なので、画材購入もままならない時期があり、川村は鍋の木蓋などにまで絵を描いた、と解説パネルに書いてありました。

 まな板に描いたと思った絵「梅に雀」
 下から覗くと、まな板の足が見えました。


 諏訪直樹(1954-1990)は、三重県生まれの洋画家。画業のほかに、カヌーを趣味としていました。1990年、諏訪は荒天の中に出艇して、水難死。

 諏訪直樹「無限連鎖する絵画」


 諏訪直樹「PH8-8419」私「PH9-8510」


 「日本の洋画」という範疇からの越境。ふたりの越境者川村清雄と諏訪直樹は、どのような境をどのように超えていったのだろう。 
 諏訪は小さなカヌーで荒波の中に漕ぎ出していったが、急な流れや大波、川に潜む石を乗り越えることはできず、遭難死。痛ましいことですが、諏訪が残した絵を眺めていると、彼が超えていきたかった岩の先でどんな絵を描いたであろうか、見てみたかった気がします。
 没後30年の記念回顧展が三重県立美術館で開催される予定でしたが、現在はコロナ感染防止で休館中。

 越境者第2章 パンリアルの挑戦
 娘の感想「現代絵画はわからない。具象がいい」

 「よくわからないけど、写真撮っておこう」と撮影中の娘。

 
 青い鳥さんに送る絵はがきは、↓の作品のはがきを買いました。
 川村清雄「鸚鵡」


 中目黒タワマン下の中華屋さんで飲茶ティータイム。美人なんとか茶という台湾のお茶とシュウマイなどを食べて一休み。当然、私は生ビール。桜の下で宴会はできないけれど、歩いたあとでビール、というのもいいお花見です。
 桜には早かったものの、娘が美術館に寄ったのは久しぶりのことなので、有意義な散歩になりました。

 5月末で美術館博物館の閉館が終了し、順次開館していくようです。さあ、見にいこうっと。

<つづく>
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