天気 晴38℃
全国的な猛暑、この地で38℃ということは、40℃越えの地もあったのではないかしらん?
何か涼しい写真は、と一昨年を見たら、昭和記念公園のプールの写真があった。子供プールを外から盗み撮り。大人の入る方は、そういうヤカラが居ると困るから?、公園内からは見えない。このあたりでは大人気のプールも、今年は休業している。公園は開園中。
ちなみに、国営昭和記念公園は、元は飛行機工場、戦後米軍基地にされていて、返還された時、平和を祈念して作られた。昭和天皇の資料館なども公園の外に併設されている。
終戦記念日も、もう75年目・・随分長く生きてしまった。
毎年、この日には必ず終戦日のことを書いて、句も作ってきた。そして、この日は夫の弟が海で事故死した忌日でもあり、祷りの日なので殆ど家を出ない。墓参も、いつもの年は高速道が渋滞するので省略して、秋彼岸に行くことにしていた。今年もまた。どっちみち、今日は猛暑プラス酷暑のような日で、戦後を75年も生きた老いの身は、家でエアコンに命を預けるしかない。
そんな私の自画像みたいな夏バテの姿。プールの近くで撮った覚えがある。
もう、毛づくろいの余裕もない老猫が暑さにダウン状態だった。近づいても身動きしなかった。
去年、終戦日の自分のことを書いたので、それは省略。
実はその日、私はとても怖い思いをした。母・姉二人と山を越えた隣村の父の実家から帰る途中の畑の中で、低空飛行の米軍機(B29?)に狙われた。狙われた、としか言いようのない、我々4人しか居ない畑のど真ん中。母は、私を抱いてとうもろこし畑の中に伏せた。とうもろこしが、爆風に大揺れするくらいの低空を何機かの飛行機が過ぎていった。8歳上の姉と3歳上の姉も多分、同じように地に伏せて頭の上の轟音に耐えていたと思う。いつもは防空壕で耐えていた音が、真上にあるのだから怖かった。(房総半島に住んでいたので、首都周辺襲撃の飛行機の通り道だった)
それから、私の脳裏には終戦のあの天皇のラジオ放送が記憶になってくる。
以上の二つのことが同じ日だった、とはっきりしたのは、一昨年くらいだったろうか。恐怖の体験の真相を聞こう、聞こう、と思っているうちに母も姉も亡くなった。残るは3歳上の姉だけ(今も私より元気)なので、確かめておかなくちゃ、と聞いておいて良かった。姉はよく覚えていた。
多分、終戦を解っていても、米軍兵は面白がって母子をからかっていたのだろう、と私は思う。
その後何十年も、私は飛行機の爆音がトラウマになり、今の家に移る前、数年だけ住んでいた家に近い横田基地の音にどうしても慣れなかった。
長く生きているのも楽ではない。コロナと戦争とどちらが怖いか、と言われれば、戦争の方が怖い。
終戦日かの日も空を米軍機 KUMI
全国的な猛暑、この地で38℃ということは、40℃越えの地もあったのではないかしらん?
何か涼しい写真は、と一昨年を見たら、昭和記念公園のプールの写真があった。子供プールを外から盗み撮り。大人の入る方は、そういうヤカラが居ると困るから?、公園内からは見えない。このあたりでは大人気のプールも、今年は休業している。公園は開園中。
ちなみに、国営昭和記念公園は、元は飛行機工場、戦後米軍基地にされていて、返還された時、平和を祈念して作られた。昭和天皇の資料館なども公園の外に併設されている。
終戦記念日も、もう75年目・・随分長く生きてしまった。
毎年、この日には必ず終戦日のことを書いて、句も作ってきた。そして、この日は夫の弟が海で事故死した忌日でもあり、祷りの日なので殆ど家を出ない。墓参も、いつもの年は高速道が渋滞するので省略して、秋彼岸に行くことにしていた。今年もまた。どっちみち、今日は猛暑プラス酷暑のような日で、戦後を75年も生きた老いの身は、家でエアコンに命を預けるしかない。
そんな私の自画像みたいな夏バテの姿。プールの近くで撮った覚えがある。
もう、毛づくろいの余裕もない老猫が暑さにダウン状態だった。近づいても身動きしなかった。
去年、終戦日の自分のことを書いたので、それは省略。
実はその日、私はとても怖い思いをした。母・姉二人と山を越えた隣村の父の実家から帰る途中の畑の中で、低空飛行の米軍機(B29?)に狙われた。狙われた、としか言いようのない、我々4人しか居ない畑のど真ん中。母は、私を抱いてとうもろこし畑の中に伏せた。とうもろこしが、爆風に大揺れするくらいの低空を何機かの飛行機が過ぎていった。8歳上の姉と3歳上の姉も多分、同じように地に伏せて頭の上の轟音に耐えていたと思う。いつもは防空壕で耐えていた音が、真上にあるのだから怖かった。(房総半島に住んでいたので、首都周辺襲撃の飛行機の通り道だった)
それから、私の脳裏には終戦のあの天皇のラジオ放送が記憶になってくる。
以上の二つのことが同じ日だった、とはっきりしたのは、一昨年くらいだったろうか。恐怖の体験の真相を聞こう、聞こう、と思っているうちに母も姉も亡くなった。残るは3歳上の姉だけ(今も私より元気)なので、確かめておかなくちゃ、と聞いておいて良かった。姉はよく覚えていた。
多分、終戦を解っていても、米軍兵は面白がって母子をからかっていたのだろう、と私は思う。
その後何十年も、私は飛行機の爆音がトラウマになり、今の家に移る前、数年だけ住んでいた家に近い横田基地の音にどうしても慣れなかった。
長く生きているのも楽ではない。コロナと戦争とどちらが怖いか、と言われれば、戦争の方が怖い。
終戦日かの日も空を米軍機 KUMI