ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・奥の山古墳」です!!

2024-12-04 19:49:40 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳の南西側にあるのが、奥の山古墳です、公園の南端へまず行ってみました

 埼玉古墳群の大きなモニュメント越しに見えるのが奥の山古墳(南西側から)です

 盾持人埴輪です

 説明版です
   奥の山古墳の発掘調査
 奥の山古墳は墳丘全長66m、四角形の二重の堀をめぐらせた前方後円墳です。
 後円部西側には造出しと呼ばれる張出部があり。ここから子持壷や大型器台などの珍しい須恵器が出土しています。
 奥の山古墳は6世紀前半に造られたと考えられています。
 2018年の発掘調査の際に、外堀南西部の形が明らかになりました。
 想定されていた堀の位置とは異なり、中提の隅角部が外側に突き出るような形をしていることが分かりました。
 外堀からは盾持人埴輪が一体見つかっています。
 これまでの整備と最新の発掘成果が一部整合しないため、外堀の範囲を舗装により平面的に表現しています(右の写真「奥の山古墳」の三角形部分)。

 説明版右部分です
   盾持人埴輪
 外堀からは盾持人埴輪がうつ伏せの状態で出土しています。
 盾持人埴輪は、人間の頭と盾が一体化した形をしており、墓である神聖な古墳を邪悪なものから守る役割があったと考えられています。 
 出土した盾持人埴輪の頭部が欠けていたため、瓦塚古墳と将軍山古墳から出土した盾持人埴輪を参考に復元しています。

 後円案内図です、奥の山古墳は下端近くにあります

 西側から奥の山古墳を見ました、造出しが無いようですが説明版によると後円部に張り出しがあるようです

 説明版です
   奥の山古墳
 墳丘全長66mの前方後円墳です。
 奥の山という名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。
 発掘調査により、それまで一重と考えられていた周堀が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどがわかりました。
 また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。
 後円部墳丘西側には張出部があり、子持壷や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。
 こうした出土遺物から6世紀中ごろから後半にかけてつくられた古墳と考えられています。
       平成24年(2012年)3月   埼玉県教育委員会

 南西側から

 前方部です

 南側から

 南東側から前方部です

 後円部です

 北東側から見ました

 鉄砲山古墳の外堀から見ました

 では、次は奥の山古墳の南東側の中の山古墳へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・鉄砲山古墳」です!!

2024-12-04 06:30:53 | 遺跡・史跡
 鉄砲山古墳は、藩政時代に鉄砲の発射場(訓練場所)になっていたことに由来する名前だそうです

 二子山古墳から南西側へ

 すぐ南側の県道77号古墳通りを横断歩道で南西へ渡ります

 住宅地を抜けると左手に鉄砲山古墳の後円部が見えて来ました、一部石材店の資材置き場になっているようです

 古墳のくびれ部分がへこんでいいます、この位置は造出しがあったと思われる部分です

 鉄砲山古墳角場遺構(江戸時代忍藩砲術訓練場跡)の標識が立っています

 北側にあった中提造出しは公園(薬草園)に成っています

 北側のフェンス沿いを進んで北東側から後円部です

 更に遊歩道を進んで、南東側から後円部です

 前方部です

 説明版です
   鉄砲山古墳
 墳丘全長107.6m、横穴式石室をもつ6世紀後半の前方後円墳で、埼玉古墳群で3番目の規模を誇ります。
 古墳の名前は、江戸時代に忍藩の砲術訓練場(角場)として墳丘を利用していたことに由来します。
 墳丘は二段築成成、中段のテラスなどには最大で9条の突帯をもつ大型の円筒埴輪が並べられていました。
 墳丘の周囲には、他の古墳と同様に方形の二重周堀が巡ります。
 さらに、外堀の北西側では古墳の堀とみられる遺構も確認されています。
 また、外堀の南西側は、鉄砲山古墳よりも古い時期に造られた奥の山古墳の外堀に接するとみられています。
 古墳が密集し土地が限られいても、他の古墳と同じ様に二重の周堀で囲まれていたようです。
      令和5年(2023)3月  埼玉県教育委員会
 *ウィキペディアの数値も墳丘長107.6mと変わりがありませんでした。後円部径49.7m、高さ8.5m、前方部幅68.1m、高さ9.5mでした。
 また、周堀を含めた全長は163mと推定されていまが、北側の二重堀は水路や民家の敷地になっているため、確認できなくなっていて、南側外堀も南側の奥の山古墳の外堀と重なっています。
 *鉄砲山古墳周辺の木々の伐採計画があるとの表示もありました、写真に写っている大きなケヤキが数本伐られるようです

 南側から

 南西側から見ました

 次は、鉄砲山古墳の直ぐ南側の「奥の山古墳」へ行ってみます
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・二子山古墳」です!!

2024-12-03 18:40:52 | 遺跡・史跡
 二子山古墳は、武蔵野国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の古墳で最大の前方後円墳です

 丸墓山古墳の南、稲荷山古墳の南南西、将軍山古墳の南西側に当たります

 二つ山古墳は、二つの山があるように見えることからこの名がります。

墳丘長132.2メートル[1]
後円部径67.0メートル・高さ11.7メートル
前方部幅83.2メートル・高さ13.7メートル
方形の二重周濠をもつ。現在の内堀は水をたたえているが、元々は空堀だったことがわかっている。
西側くびれ部に造り出しがある。
墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なる。
もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれる。 内部埋葬施設は不明であるが、周濠からは1メートルを越える円筒埴輪が、多数出土している。

古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられている。

浸食作用で墳丘外周の崩落が深刻化したため、内堀の水を抜いて埋め立てて「空堀」にする工事が進んでいる。


 将軍山古墳南西側の駐車場から二子山古墳の後円部が見えました

 北西に進んでこの先を左へ入ります

 二子山古墳の北側へのルートです

 二子山古墳内堀の西側の端近くから見ました

 堀跡の草刈作業が行われていましたが、中提と内堀の間には背の高い草があって写真が撮れませんでした

 内堀南西側角から
.
 南西側から、堀の中の草苅が済んで見やすくなったのかな

 説明版です
   二子山古墳
 全長138mの前方後円墳です。
 かつての「武蔵国」(埼玉県・東京都・神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。
 周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
 現在遊歩道になっている高まりが中提にあたります。
 内堀は、今は水彫になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています
 本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。
 出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀始め頃と推定されています。
     平成20年(2008年)3月  埼玉県教育委員会
 *ウィキペディアでは、違った数値が出ていました
 *墳丘長132.2m、後円部径67m高さ11.7m、前方部幅83.2m、高さ13.7m、西側くびれ部に造り出しがあります。
 墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳(通称仁徳天皇稜)に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なります。
 もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれ、未発掘のため内部埋葬施設は不明ですが周濠からは1mを越える円筒埴輪が、多数出土しています。
 古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられています。

 南側から、内堀は空堀に成っていますね


 すぐ南側の県道77号古墳通りから見ました

 では、次は県道77号古墳通りを渡った南側の鉄砲山古墳です
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・将軍山古墳」です!!

2024-12-03 06:30:11 | 遺跡・史跡
 丸墓山古墳・稲荷山古墳に続いて将軍山古墳です

 将軍山古墳は、実物の横穴式石室を建物の中から見学できる、将軍山古墳展示館が設置されています

 丸墓山古墳の南西側入口脇の案内図です、さきたま古墳公園図の下端(公園の東端)に潰れた形で将軍山古墳です

 南西側の駐車場から見ました、説明版も有ります

 北西側に行ってみました、説明版の脇には外堀のブリッジと左手に造出しです

 説明版です
   将軍山古墳
 将軍山古墳は、全長90m、後円部の直径39m、前方部の幅68mの前方後円墳です。
 明治27年(1894)に、地元の方々によって発掘調査が行われ、横穴式石室から、銅鋺・太刀・鉄矛・甲・冑・金銅製馬具・馬冑・蛇行状鉄器など多数の豪華な副葬品が出土しました。
 造られた年代は、出土した遺物から、6世紀の後半と考えられます。埼玉古墳群の中では、4番目に大きい前方後円墳で、はじめて横穴式石室を採用した古墳です。
 この横穴式石室には、千葉県富津市付近の海岸で採取された「房州石」と呼ばれる石材が利用されており、関東地方の古墳時代の歴史を考える上で重要な古墳となっています。
 平成3年度から平成8年度に、文化庁の協力を得て、墳丘・堀の発掘調査及び復元、石室の保存施設の建設などの整備を行いました。
 発掘調査の結果、周囲には長方形の堀が二重にめぐり、後円部と中提に、死者を弔う祀りが行われた場所と考えられる大きな造出しがあり、稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態であることがわかりました。
 また、前方部には木の棺を竪穴の中に安置した、木棺直葬と呼ばれる埋葬施設が新たに発見されました。さらに、墳丘頂上と斜面の段、堀の中(墳丘から落下したもの)からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪をはじめ、盾・靫・人物などの形象埴輪が出土しました。
 後円部南側には、副葬品の復元模型が置かれた横穴式石室や古墳の断面が見学できる展示館があります。

 後円部と造出しです、円筒埴輪が並べられています

 南西側から見ました

 将軍山古墳展示館へ行ってみましょう

 将軍山古墳南東側の堀跡は無くなってしまっていますが、アオサギが水路脇に居ましたよ

 後円部南側に将軍山古墳展示館です

 将軍山古墳展示館に入ります、通常入館料が必要ですが「埼玉県民の日」ということで無料でした

 一階の展示室に入りました、将軍山古墳出土の埴輪などが並んでいます

 騎馬像が展示されています


 説明版です
   復元!古墳時代の馬の装い
 わが国に騎馬の風習がはじまるのは、4世紀末ころからで、朝鮮半島との交流のなかで、はじめて騎馬術と馬具がもたらされました。
 馬具は5~6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分をつないでいた革や布・木質部分は、腐食してしまうため残りません。馬への装着方法は、馬具の形状や馬形埴輪を参考に復元しました。
 将軍山古墳のような、金色に輝くきらびやかな馬具や旗をつけて飾りたてる馬は、儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。時には馬冑をつけて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。

 二階へ上がると、横穴式石室(玄室)の復元展示です

 馬具装着想定図です
 将軍山古墳から発見された馬具には、騎乗に必要な轡・鞍・鐙・馬を飾るための鏡板・辻金具・鈴・杏葉・雲珠・蛇行状鉄器、戦いの際に馬の頭を保護する馬冑があります。
 これらの馬具の中で、馬冑と蛇行状鉄器は全国的にも発見例が少ない貴重な資料です。蛇行状鉄器は、鉄棒を数段にわたって折り曲げ、一方を二股に作って鞍に装着し、片方の端に旗竿を差し込んだものです。
 この使用例は、埴輪や朝鮮半島の古墳の壁画にみることがでみます。
 将軍山古墳からは鉄製の珪甲と衝角付冑が出土しています。これらは敵の攻撃から身を守るための防具です。
 珪甲は約900枚の小札とよばれる孔の開いた細長い小さな板を、紐や革で綴じ合わせて作る「よろい」です。
 衝角付冑の頂には、三尾鉄とよばれる後方に3本の枝が出る小さな部品が付き、ここには、偉容を表わすために鳥の羽をつけていたようです。
 想定図のように、頸・肩・腕を守るための装具が出土する例もあり、これらで武装すると30kg近い重量になります。

 遺構模型配置図です
 将軍山古墳は、埼玉古墳群で初めて横穴式石室を採用した古墳です。石室は石積みで造られ、棺を納めるための長方形の玄室と、外部から玄室に通じる羨道で構成されています。
 側壁の石は、120kmも離れた千葉県富津市の海岸で採取されたと考えられる「房州石」が使用され、天井には埼玉県長瀞町付近で採取される、大きな板状の緑泥片岩を使用していました。
 現在は石積みの最下段だけが残り、他の部分の石は、石室周辺の土とともに消失していました。また、羨道も全長の半分以上が失われています。
 将軍山古墳の横穴式石室は、明治27年(1894)に最初の発掘が行われ、多数の豪華な遺物が出土していることで知られています。
 しかし、遺物の多くは破損し、腐食していることから、これらの遺物の復元模型を製作し、石室内に副葬された当時の状態を想定して配置し、埋葬のようすを再現してみました。
 遺体の安置には木棺が使われ、鏡・金環・玉・大刀は棺の中に納められます。矛や矢は棺の周辺に、銅鋺や須恵器などの容器は棺の手前に置かれ、甲・冑などの武具、鞍・鐙などの馬具は各々がまとまりをもって置かれたと推定されます。
 副葬品には時期差が認められることから、追葬が行われたことが考えられます。その際には古い副葬品は隅にかたづけられたようです。

 では、将軍山古墳展示館を出て、次は南西側の二子山古墳へ行ってみましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・稲荷山古墳」です!!

2024-12-02 18:30:15 | 遺跡・史跡
 続いて、前回の丸墓山古墳頂から東側に見えた稲荷山古墳です

 稲荷山古墳は、国宝指定の「金錯銘跌剣」を初めとする多数の遺物が出土しています

 丸墓山南西側のさきたま古墳公園案内図です、稲荷山古墳は図の左端(さきたま古墳公園北の端)にあたります

 南西側の稲荷山古墳入口です

 左手(西側)に丸墓山古墳を見ました

 前方部です

 説明版です
   稲荷山古墳
 全長120mの前方後円墳です。
 周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
 古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。
 前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復元されました。
 1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。
 そのうち礫槨は良く残っており、多くの副葬品が発見されました。
 その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。
      平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 左手の二重堀跡です、中提に遊歩道が通っています

 復元された前方部に登ります

 前方部から後円部です

 一度くびれ部に下って行きます

 後円部に登ります

 後円頂部です

 頂部西側に頭部が北東に向いた埋葬施設です

 南東側から

 説明版です
   国宝武蔵稲荷山古墳出土品
 115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。
 多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定されました。 
 これらの資料は詳しく解説とともに博物館に展示しています。
   稲荷山古墳 礫槨
 1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。
 舟の形に堀た竪穴に河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。
 棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。
 実物の礫槨は、地下1mに保存されています。

 頂部の南西側には二つ目の埋葬施設が石の列で表現されています

 説明版です
   稲荷山古墳 粘土槨
 この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。
 盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品とともに国宝に指定されています。


 西側に丸墓山古墳です

 南側に将軍山古墳です

 北東側に下りて来ました

 北側から稲荷山古墳を見ました

 中提部の遊歩道を南西へ進みます

 北側の造出しです

 南側から後円部です

 では、公園内広場を真っ直ぐ南へ出て、「将軍塚古墳」へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・丸墓山古墳」です!!

2024-12-02 06:37:00 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月14日埼玉県民の日の埼玉(さきたま)古墳公園の取材分を古墳毎の紹介させて頂きます

 埼玉古墳群は、行田市役所の南東約2kmのところ、市役所は忍城跡に当たります

 まず最初は、丸墓山古墳です、豊臣秀吉の小田原攻(北条氏)の際に、石田三成が陣を置いた事でも有名です。
 和田竜による日本の歴史小説として、またそれを原作とする2012年の日本映画、野村萬斎さん主演の「のぼうの城」でも描かれていますね
 忍城跡や石田堤の考察は、「余呉くんのお城のページ」に詳しく出ていますので参考にしてくださいね

 今回は、赤城山(群馬県前橋市:深田久弥の日本百名山第40番)にキャンプに行った帰りで、利根大堰(行田市大字須加字 船川)で魚道の様子を見て(魚はいませんでした)から、県道20号から県道306号へと南下して、「野合新橋信号」を左(東南東)へ

 間も無く左手の駐車場の入り、奥(北)側に車を止めさせて頂きました

 駐車場脇の「さきたま古墳公園 案内図」です。丸墓山古墳は図の上方に丸い黄緑で表現されています

 「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の北側の県道入口から北へ伸びる遊歩道北東へ進みます

 丸墓山への入口です、桜並木は石田堤に上に植栽されています

 古い「さきたま古墳公園案内図」です

 石田堤説明版です
   石田堤
 この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。
 長さ約28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川のミスを流入させたと言われています。
 三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。

 「史跡埼玉村古墳群」の標柱です

 「埼玉村古墳群」石碑です
    埼玉村古墳群
 武蔵北部は隣国上野と共に古墳の依存殊に多く、凨に人煙稠密交運の発達熾なるを察せしむ本村は、寶年真中樞を占めて埼玉郡名北基く所、縣名また此属に由来し百越沼で算する大小の古墳累々起伏するもの故なきに非ず。
 昭和13年8月特に顕著なる丸墓山、二子山・・9基は埼玉村古墳群として文部大臣より史跡の指定を受けしが、古墳群の指定は僅かに九州に1例のみ、まして未だ他余見ざる所なり。
 丸墓山は規模壮大に圓境として布有の・・に属し、天正18年豊臣氏の小田原征討の際、部将石田三成陣営を設けて忍城攻略を計ると傳へられ、今回保存の・・全うせん為め挙村の協力に依り指定地域を村有と為に堂召建碑の議あり、本史跡は指定に関係なること前後久しき放を以て予に其汜残属せらるのち一言を氏・に叙す。
     昭和14年10月   柴田常恵・・撰  ・村担・書
 *読めない文字が沢山ありました<m(__)m>
 *柴田 常恵は、明治10年(1877)~昭和29年(1954)、日本の歴史考古学者で、慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任しています。

 丸墓山古墳説明版です
    丸墓山古墳
 直径105mあり円墳では日本最大級です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約17mあります。
 墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。
 出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。
 埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
 南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。
 水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。
        平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 *ウィキペディアによると・・・
 最大の円墳は埼玉古墳群中にある丸墓山古墳(墳径105m)とされてきた。しかし奈良県奈良市にある円墳の富雄丸山古墳を市教育委員会が平成29年(2017)に測量調査した結果、従来直径86mとされていたこの古墳が直径110m前後に復元できることが判明した。
 そうなれば富雄丸山古墳が丸墓山古墳を抜いて最大の円墳となる。ちなみに前方後円墳最大の大山古墳の後円部径は250mであり、後円部径が100mを超える前方後円墳は約50基を数える。
 と、なっていて、説明版の「最大級」の上張りされた理由ですね

 丸墓山へ登りましょう

 丸墓山に上がって来ました

 振り返って南西側の上り口です

 北西側です

 忍城の御三階櫓を模した「行田市郷土博物館」です

 北西側には説明版です
   丸墓山古墳と忍城
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km(一説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。
 丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。
 北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。 

 東側には、左手に金文字鉄剣で有名な「稲荷山古墳」と右手に古墳が展示館に成っている「将軍山古墳」が見えます

 北東側の下り口です

 北東側に下って来ました

 丸墓山古墳頂部です

 丸墓山古墳の北西側にはの石だ堤の跡のような高まりです

 では、次は「金錯銘鉄剣」出土の「稲荷山古墳」へ行きましょう 
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秋田県鹿角市、十和田大湯万座・野中「大湯環状列石」(世界遺産)です!!

2023-07-27 18:45:25 | 遺跡・史跡
 十和田大湯万座・野中地区は、鹿角市役所の北北東約7km、鹿角市役所十和田支所の東北東約4kmのところ

 鹿角市役所十和田支所から国道282号線を南へ、約600mの「上陣馬」信号を左(北東)へ国道103号線です

 道成りに約4.3kmで「腰廻」信号を右(南東)へ入ります

 河岸段丘斜面を約1.5km上って信号を右(南西)へ県道66号線です

 約200mの右側に「大湯ストーンサークル館」が有ります

 駐車場に入りました

 大湯環状列石とは、秋田県北東部の鹿角市米代川の支流である大湯川左岸、標高約180mの台地上に立地し。食料となるサケやマスが遡上し、捕獲できる川の近くであり、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。
 万座(まんざ)環状列石(最大径52m)と野中堂(のなかどう)環状列石(最大径44m)の二つの環状列石があり、いずれも大小の川原石を様々な形に組み合わせた複数の配石遺構を環状に配置し形成されています。
 それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが同心円状に配置されています。また、環状列石の周辺からは、土偶や土版、動物形土製品、鐸形土製品、石棒、石刀などの祭祀・儀礼の道具が数多く出土しています。
 二つの環状列石のそれぞれの中心の石と日時計状組石は一直線に並ぶような配置となっていることから、両者を関連づけて構築した可能性は高いと考えられます。また、この直線上は夏至の日没方向ともほぼ一致します。
 本資産は、定住成熟期前半の環状列石を主体とする祭祀遺跡であり、内陸地域における生業と祭祀・儀礼の在り方を示す重要な遺跡です。

 南西側のまずは万座環状列石を見にいきましょう


 県道沿いの南東側入口を入った所の標柱に案内図です

 北東側に環状列石です

 環状列石を見る展望台(低いですが)があります

 万座環状列石の東側に並ぶ石です

 南側から環状列石の縁を見ました

 掘っ立て柱建物が復元されています

 北側の「五本柱建物跡」を見ました

 西側の木立はクリの木でしょうか



 県道へ戻って南東側の「中野堂環状列石」です

 戻って、次へ行きましょう
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青森県外ヶ浜町、平舘太郎右エ門沢「平舘台場跡のマツ」です!!

2023-07-13 18:30:16 | 遺跡・史跡
 平舘太郎右エ門沢地区は、外ヶ浜町役場の北約16km、外ヶ浜町役場平舘支所の北約3kmのところ

 外ヶ浜町役場平舘支所前から国道280号線を北へ、約2.8kmで国道右手に「道の駅たいらだて」があります


 道の駅の南側の「おだいばオートビレジ」の案内図です、すぐ東側に「台場」が在りますので行ってみます

 道の駅とオートビレジの間を東へ進むと「平舘灯台」です

 南へ進むと、左手に台場跡が在ります

 南側に広い駐車場がありますので利用させて頂いました

 説明版です
  青森県指定文化財
  外ヶ浜町指定文化財
    史跡 平舘台場跡
 平舘台場跡は、嘉永2年(1849年)に弘前藩が構築した砲台である。
 弘化4年(1847年)に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸したことを受け、弘前藩が台場を設置した。
 台場の遺構は、やや扇形をした土塁に囲まれており、大砲を据えたと考えられる窪地が7ヶ所、出入り口が2ヶ所残されている。
 土塁の高さは、約2.3m、幅は概ね10m、土塁内部は南北80m、東西11m程である。土塁には33本の松が植えられている。
 平坦地に造られた7つの砲台を持つ西洋流の台場として重要である。
     外ヶ浜町教育委員会
 *説明版の形が台場の形なのかな



 道路を灯台方向(北)へ戻るように進みます

 南側の砲台への入り口です、大きな松が土塁の上に生えています

 中ほどに「松前街道」の石碑です

 北側から見ました

 北側の台場入口です

 中へ入って北側から南側を見ました、東側に土塁の切れている部分に大砲があったようです

 南側の台場入口で見た松を台場内(東側)から見ました

 南側から、目通り幹囲3.5m(目測)の大木です


 台場の東側陸奥湾沿いを南側から見ました


 遠くに下北半島です

 下北半島の佐井村、仏ケ浦の南側の岩場が白く見えます

 沖を函館方面に客船が通ります

 *直ぐ南側の松並木に「長寿の松」というクロマツの巨木があるようでしたが見付けられませんでした

 では、次へ行きましょう
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青森県鰺ヶ沢町、建石町石神「餅ノ沢遺跡見学施設」です!!

2023-07-07 06:29:33 | 遺跡・史跡
 建石町石神地区は、鰺ヶ沢町役場の東南東約8kmのところ

 鰺ヶ沢町役場前から国道101号線の信号を越えて、大間越街道を東へ

 約1.5kmで県道31号線に合流して更に東へ進みます

 道成りに約5.9kmで交差点の右手に石動神社の社號標が建っています

 ここを南へ入って約600mで斜め左へ、約500mで左手に石動神社です

 すぐ先(南東側)の道路沿い右側に「餅ノ沢遺跡」の展示館が有ります

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 南東側から展示館を見ました

 北側がメインの入り口です
   餅ノ沢遺跡
 餅ノ沢遺跡は、縄文時代前期後半から後期前半(約5500~3500年前)にかけての時期を主体とした遺跡です。
 1997年から1998年にかけて実施された県営中山間地整備事業に伴う発掘調査で、竪穴住居跡、石囲炉、配石遺構、石棺墓、埋設土器、土坑、捨て場、遺物包含層などの遺構と、段ボール箱約1000箱もの遺物が出土しました。
 特に注目されるのは、石棺墓、大形住居などの特殊な遺構や、赤色顔料入り土器、土偶などの祭祀的性格の濃い遺物です。
 餅ノ沢遺跡は縄文人の生死に対する考え方や、祭祀のあり方を考える上で非常に重要な遺跡と言えそうです。
       発掘調査・説明文  青森県埋蔵文化財調査センター
       

 北側展示館入口です

 第1号石棺墓が発掘調査時のまま展示されています、奥側に立てかけられているのが石棺墓の蓋です

 第3号石棺墓と第2号石棺墓の蓋が並んでいます

 南側から見ました

 南側に展示内容説明です 
  *石棺墓
 石棺墓は、扁平な石を箱型に並べ、その上に蓋石をのせた特殊な形態のお墓で非常に珍しい遺構です。
 この見学施設の中には、縄文時代中期の終わり頃(約4000年前)のものと推定される3基の石棺墓が、発掘調査の時のままで保存されています。
 蓋石に覆われた状態で確認されましたが、それを取り外して内部を調査したところ、第1石棺墓から副葬品と思われる管玉状の石製品が出土しました。はたして縄文人に階層差はあったのでしょうか。
  *大型住居跡
 石神神社の西側から検出された大型住居跡は長さが約30mもありました。
 調査区域内で全体を検出することはできませんでしたが、何回か建て替えられたようすが伺えます。
 その大きさは山内丸山遺跡で復元された大型住居に匹敵し、全国でも最大級の部類に属します。
 直径約4~5mの一般的な縦穴住居跡に比べると格段に大きいので、集会所、共同作業所、複合居住家屋など、特別な用途があったものと考えられます。
  *赤色顔料の入った土器
 石棺墓から約50m程北西で赤色顔料がびっしり詰まった土器が出土しました。
 復元してみると、注ぎ口と把手がついた極めて特殊な形の土器であることがわかりました。
 もう一点似たような形で内側に顔料が付着し、外側に人面が表現された土器も出土しました。
 縄文時代のお墓にはしばしば赤色顔料がまかれた例がありますが、餅ノ沢遺跡の石棺墓にもそれらしい痕跡がありました。
 これらの特殊な土器は石棺墓に赤色顔料をまくために使われた可能性も考えられます。
  *土偶
 狭い範囲の調査であったにもかかわらず、餅ノ沢遺跡からは100点の土偶が出土しています。
 十字形の板状土偶が主体ですが、完全な形のものはなく、どこかが欠けています。
 これらのほとんどは縄文時代中期の終わり頃のものと推定されますが、この時期のものとしては県内最多を誇ります。
 他にもミニチュア土器、土製品、石製品など祭祀に関連する遺物が多数出土していることから、餅ノ沢遺跡は何らかの祭祀を行なった場所である可能性も考えられます。

 *三内丸山遺跡(このブログの2012年11月2日投稿、もう10年も前になってしまいましたが)は、、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡。世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」に登録された、国指定の特別史跡でもあります。
 *三内丸山遺跡が陸奥湾から約5kmの地点だったのに対して、餅ノ沢遺跡が鰺ヶ沢の日本海からでも約9kmの内陸にあったことを考えると、大型住居跡や石棺墓・数多くの土偶など重要な遺跡であることは明白ですね

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秋田県能代市、磐杉沢台「外野神社跡のケヤキと杉沢台遺跡(国指定史跡)」です!!

2023-06-28 06:28:55 | 遺跡・史跡
 磐杉沢台地区は、能代市役所の北北東約6kmのところ

 能代市役所から国道101号線を北へ、米代川を能代大橋で渡り約3.5km進みます

 交差点を右(東)へ県道209号線です、すぐにJR五能線の踏切を越えてまた直ぐに斜め左(北東)へ

 まだまだ県道209号線を進みます

 約1.4kmで斜め右へ小土集落へ入って行きます、そのまま集落を貫けると

 正面にケヤキの森です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 祭神 馬ヶ相染神 外野神社跡の石碑です

 祠です

 *蒼前様(そうぜんさま)は、東日本に分布する馬の守護神で,相染,勝善とも書く。正月あるいは年に数度の厩祭をする場合が多く,厩に蒼前様のお札を貼り,祈禱してもらう。近世期には猿回しを専業とする猿太夫と称する者が厩祈禱と守護札の配札にまわっていた。秋田では,旧佐竹北家の厩番に伝えられてきたが,神仏分離以降祈禱師に転じたといわれ,彼らは厩祭だけではなく,獣医の役割や馬に関するいっさいの世話をしていたという
 
 祠の後ろ側のケヤキです

 南側のケヤキです

 南西側のケヤキです

 西側から見上げました、主幹が枯れてしまった形になっています


 東へ農道を進むと「杉沢台遺蹟」の標柱です


 説明版です
   国指定史跡 杉沢台遺蹟
      昭和56年9月3日指定
      所在地 能代市磐字杉沢台
 杉沢台遺跡は、東雲台地北側とその斜面にかけて形成されており、範囲は35000㎡に及ぶ。縄文時代前期を中心とする集落遺跡で、昭和55年秋田県教育委員会により4672㎡の範囲で発掘調査が行われた結果、多数の遺構が発見されている。
 大形住居跡4軒を含む、合計44軒の竪穴住居跡が検出されたほか、貯蔵穴などに使われたフラスコ状ピットも100基以上発見されており、中には土器片や貝殻などが捨てられているものもあった。とくに長軸31m、総面積222㎡におよぶ竪穴住居跡は縄文期では日本最大級と注目を浴びた。この住居は、柱穴の重複関係から、少なくとも3回の建替えがおこなわれたと考えられている。大形住居を中心とした集落は東日本全般にわたって存在することが知られており、本遺跡は当時の集落や社会構造を解明していくうえで重要な遺跡である。
 平成15~17年の能代市教育委員会の調査でもフラスコ状ピットや住居跡が史跡周辺から発見され、縄文集落が広がっていることが判明した。これまでの調査で、縄文時代前期・後期・晩期・弥生時代、平安時代の複合遺跡であることが確認されている。
      能代合教育委員会

 説明版の北側です


 説明版の北西側です

 南側です

 杉沢台遺跡前から西側のケヤキのある社叢を見ました

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群馬県太田市、新田市野井「新田義貞挙兵の生品神社」(国史跡)です!!

2023-03-24 18:29:47 | 遺跡・史跡
 新田市野井地区は、太田市役所の西北西約7km、太田市役所新田庁舎の北東約2kmのところ

 太田市役所新田庁舎前から東へ進みます、新田庁舎東信号の丁字路を左(北)へ

 約1.3kmの信号を右(東)へ、道成りに進んで次の信号を左(北)へ県道322号線です

 間も無く左手に生品神社が南向きの参道で鎮座します

 鳥居前に駐車場が有ります

 太平記の里案内図です


 生品神社の社號標です

 手前の砂利の駐車場に、新田義貞公の像が有ります

 説明版です
  国指定史跡 新田荘遺跡
 生品神社境内
   所在地 群馬県新田郡新田町市野井640他
   指定  平成12年11月1日
 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。
 昭和9年に建武の中興600年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成12年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
 義貞が旗挙げを行った時はわずか150騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となった、15日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
 神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿のまえには義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
 現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年5月8日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
 平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと推定されます。
    平成13年7月
      文部科学省
      群馬県
      新田町・・・*2005年3月28日に平成の大合併により新しい太田市となった

 説明版のそばに「史跡 新田義貞挙兵伝説地」の標柱です

 駐車所の西端に説明版にあった「床几塚」です

 石碑です

 社務所の後ろ(西)側に「挙兵塚」です

 石碑です


 参道を進みます、ニノ鳥居です

 参道左手に手水舎です

 三ノ鳥居です

 参道左手には神楽殿(舞殿)です

 参道右側には、説明版い有った新田義貞公が旗挙げの時に軍旗を掲げたクヌギの切株です

 説明版です
   神代木
 此の木は櫟(クヌギ)なり、新田義貞公挙兵の際大中黒の旗を此の樹に掲げ戦捷うぃ祈願す。
 爾来鬱蒼と繁茂せり、周囲二丈(6m)余、高さ十丈(30m)にたっす。明治37年6月9日白晝(日中)静穏の時大音響ありて倒れたり、依って其の一部を遺し滋に記念とす。
 爾後春秋星霜90有余年風化に依り腐食朽壊の状なり、依って燻蒸処理をしポリウレタン系合成樹脂加工に依り脆弱破損部の強化修復をし最後シリコン材塗布に依り保存処理した。
 同時に覆屋も新築して未来永劫後世に遺すものとす。
   新田義貞公挙兵666年祭に際して
        生品神社

 かつて6mに及んでいた幹は、半分くらいの幹周で遺されています

 参道左手には、石祠が多数集められています

 拝殿です

 本殿です

 本殿左手には、冨士嶽浅間大神の石碑と祠です、後ろ側のブロックの建物は古御札納所です
 
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秋田県三種町、下岩川宮ノ目「宮ノ目神社の宮桜と板碑」です!!

2022-10-28 18:28:07 | 遺跡・史跡
 三種町下岩川宮ノ目地区は、三種町役場の東約12kmのところ
 
 国道7号線の西鵜川信号を左(北)へ、県道212号森岳鵜川線です

 秋田自動車道の高架を過ぎて東向きに道成りに進みます

 JR奥羽本線の踏切を渡ると県道は南に向きを変え、間も無く県道4号線との交差点です

 交差点を右(南西)へ道成りに進み、T字路を左(東)へ五城目方面へ

 道成りに北から南へ回り込む様に約8km進むと道路が山裾に近付きます



 県道脇に宮ノ目神社の板碑の入った御堂です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 案内板です、板碑とは板状の碑。中世身分の高い人や、金持ちの墓標としてつくられた。この板碑は五輪塔を刻んだ珍しい形式で、戦国時代末期のものである。平成元年11月1日 山本町教育委員会

 宮ノ目神社の御堂です


 すぐ後ろ側に、宮桜です

 幹は倒れてしまっています

 案内板です、菅江真澄遊覧記に、近郷一の桜といわれた木のあと 昭和63年10月 山本町教育委員会

 *この頃にはすでに倒れていたようです

 南側から

 すぐ南側の鳥居を潜って稲荷神社へ行ってみます

 参道を登ります

 杉林の中を進みます

 奥に建物が見えて来ました

 西向きに稲荷神社の社殿です


 境内入口のアカマツの大木です

 社殿です

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新潟県佐渡市、下加茂「日本一大きな杉の切り株・太郎杉遺株」です!!

2022-07-14 18:26:26 | 遺跡・史跡
 下川茂地区は、佐渡市役所の南約13kmのところ

 真野から県道65号線を南へ、急な登り下りにカーブが多く走りにくい道路です道路です

 山を抜けて、一度下りきると県道81号佐渡縦貫線の交差点の丁字路になります

 県道65号線は赤泊港・県道81号線は羽茂本郷の標識が手前にあります

 県道81号線を右へ進むと約700mで左へ、羽茂川を渡って森の中へ入っていきます


 五社神社の手前を左へ入ります

 しばらく進むと「太郎杉公園」の案内表示が出てきます

道なりに進むと、「太郎杉公園」です、広い駐車場があります


広い道路を歩いて進みます

苔に覆われています、歩かれていないようです

建物が見えて来ました

まず一階へ行ってみました

ドアに鍵が掛かっていますが、窓から中を覗くことができ、大きな切り株が有ります


二階への石段を登って・・・

太郎杉の館です、二階のドアから中に入ることができました


一階に大きな切り株が有ります

かなり腐朽が進んでいます

かつての切り株の写真です

説明版です
  太郎杉切り株
 太郎杉は江戸時代末期に伐採されたと伝えられ、次のような民話が語り継がれている。
 「太郎山」に聳える太郎杉は子守をしていた地元の娘に恋をし、若者の姿となって娘と逢瀬を重ねていた。
 殿様の命令で切られることとなった前夜、太郎杉は「俺は切られてもその場を動かんが、お前が来れば動く。それで貰える褒美で暮らせ。お前は俺の子共を何万と宿している。山で用をたすと種が出て、杉の木が生えて杉山になる」と娘に言い別れた。
 太郎杉は切られたが、人々がどんなに頑張っても動かず、人々は娘に助けを求めた。太郎杉は娘の声にあわせて運ばれ、海を越えていった。その後川茂には太郎杉の子が広がり、杉の産地として栄えた。
 太郎杉は大き過ぎて佐渡の樵では手が出ず、能登から来た樵によって伐採された。並みの長鋸では短く、地元の鍛冶屋が継ぎ合わせて一本とした。幹に遮られて相手が見えず、間に合図をする者がいて調子を合わせた。伐採には半年の月日がかかった。切り株に莚八枚を敷き、樵13人が輪になり酒盛りをした等、大きな杉であったことが語り伝えられている。
 太郎杉株の大きさ
  長径 3間(5,4m)
  短径 2間(3.6m)
  幹周 8間(14.5m)
  推定樹齢2000年以上
  (1935年、川茂大杉山・太郎杉切株踏査書より)
 太郎杉は川茂杉と呼ばれる、萌芽力・生命力の強い品種で、麓の五社神社には現存する最大の川茂杉(幹周5.2m、樹高30m)が神木として残っている。
 この展望台により切り株を保存し、赤泊村が大杉の産地であったことを長く伝える。
     赤泊村

南側から

東側から

西側の森を見ました

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静岡県伊豆市、修善寺「源範頼墓所」です!!

2022-02-23 06:24:09 | 遺跡・史跡
 修禅寺の西約500mの所に、「源頼朝」の弟「源範頼」の墓所があります

 範頼は、現在の日枝神社の参道にあったといわれる「信功院」に、建久4年(1193年)頼朝の誤解から幽閉され、

 翌年梶原景時率いる500騎の不意打ちにあって、防戦の後に自害に追い込まれたと言われております。

 
修禅寺山門前の観光ガイドの案内図です、「修繕寺」の左の「独鈷の湯」のすぐ左に「範頼の墓」の文字が有ります


桂谷川沿いの道路から一段上の修禅寺の西側の道路脇に案内板が有ります、480mだそうです

西に向かってきた道路をここで曲がります、あと130mとあります

墓地はこの上です、あと70mですね


墓所です

手水です

大きな五輪塔です


桂谷八十八ヶ所第八十一番 本尊千手観世音菩薩の石碑です

説明版です
  源範頼の墓
 範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。
 
 治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義家を倒し、次いで一ノ谷で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
 その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
 建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討の際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。
 範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。
   伊豆市

案内図です

上側の道路から修善寺の温泉街を見下ろしました

では、駐車場に戻って次へ行きましょう
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兵庫県神戸市、垂水区東舞子「舞子公園」です!!

2021-12-06 06:36:56 | 遺跡・史跡
淡路ジェノバラインで淡路島から明石港に戻って来ました

次は、JR山陽本線(神戸線)あかし駅から神戸方面の電車で、まいこ駅まで行きます

新快速で一駅でした、平行する山陽電鉄(山陽電気鉄道)の舞子公園駅でも行くことが出来ます

まいこ駅は、明石海峡大橋の北側の起点です

駅の屋上には、タクシーや高速バスの乗り場があります

南側の国道2号線を超える高架道路を下ります

舞子公園です


明石海峡大橋です

左の建物が旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)です

明石海峡大橋を真下から見上げました、舞子海上プロムナードは時間切れでした

橋の科学館も閉館時間を過ぎていました

舞子駅から次へ行きましょう
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