多度町下野代地区は、桑名市役所の北北西約8kmのところ
桑名市役所南側の道路を東へ、直ぐの国道1号線を北へ
約1,7kmの「宮前町」信号で「⇐東員・県道142号線」の標識に従って左(西北西)へ、直ぐの「宮前西」信号を右(北北西)へ
約800mの一時停止で右(北北西)へ、美濃街道です、約1.1kmの「「桑名東インター入口」信号で右(北)へ、国道258号線です
約3.9kmの「下野代北」信号を左(西)へ

約400mの交差点北西側に「下野代区集会所」があります
野志里神社南側の「下野代区集会所」前に
車を止めさせて頂きました



東向きに鎮座する参道に目的の「野志里神社のクスノキ」は、北へ向かう道路右脇です(南西側から)



西側から

「伊勢神宮御旧跡野代の宮」の標石です

野志里神社の説明版です
野志里神社
野志里神社は延喜式(905年編さんの書物)に名を列ねる古社で、皇太神宮御遷座の旧跡です。
「倭姫命世紀(やまとひめのみことのせいき)」という古典によると、垂仁天皇は、皇女倭姫命を御杖代(みつえしろ)と定められ、姫は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊と御神璽を(ごしんじ)をお持ちになり、新たに清浄な御鎮座の土地を求めて、大和の笠縫邑(かさぬいむら)を離れられた。
この後、伊賀・近江・美濃・尾張などの各地を御巡幸、この伊勢国の野代の里に御遷幸されたと伝えられています。
その旧跡が、この野志里神社だといわれていますが、その時代にはもう少し川寄りであったと考えられます。
さて、ここにお祀りして4年、宇治の土公の祖(おや)、太田命(おおたのみこと)が地相を占い、「五十鈴の川上に霊地があります。御先導申し上げます。」と奏(そう)し、姫はこれを聞き入れ、現在の伊勢市宇治に御到着になり、ここに御神域と御神殿を整え、皇太神宮として奉祀(ほうし)することになりました。
こののち、大鹿島命(おおかしまのみこと)が主祭神となり、倭姫命は斎宮となられて、奉仕されるようになりました。
桑名市教育委員会



北西側から



北側から、目通り幹囲5.5mの巨木です



東側から見ました

野志里神社へお参りしましょう

右手に尾社務所前に由緒石碑です
由緒
野志里神社は、天照皇大神遷座の御奮蹟にして人皇10祟神天皇6年皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)を御杖代となし、皇大神を大和国笠縫邑に奉斎し給ふ。
33年の後諸国巡幸大宮所を覚めさせ給いしが、斯くて垂仁天皇14年9月1日皇女倭姫命(やまとひめのみこと)、大神を奉載して伊勢国桑名野代の宮に遷幸奉斎、4年爾後伊勢国各地を経させられ、同天皇26年伊須々河上に御遷幸大宮所を奠め給ふ。今の内宮即ち是なり。
仍て当社を野代の大宮と稱へ奉る
神祇百首 「菫菜生ふ 聖代の宮の ある里とす 橋人なしに 弥つる春ら仍」でしょうか

手水舎です

ウナギとナマズの描かれた説明版です
野志里神社(のじりじんじゃ)
この神社は約2030年前、倭姫(やまとひめ)が天照大神を永遠にお祀りする地を求めて各地を旅されました。
その時、天照大神をお祀りした旧跡です。
お祀りしている間、人々は倭姫命から、農業、織物、治水など色々な事を学びました。
そして4年が経った時、もっと良い地を求めて伊勢へ旅たたれました。そこが今の伊勢神宮です。
野志里神社は天照大神を一時的にお祀りしましたので元伊勢とも呼ばれます。
のしろおたから発見隊

拝殿は塚の上です

説明版です
千人塚由来
1、元亀2年(1571年)織田信長、長島一揆勢に敗北双方の戦死者が葬られた。
2、天正2年(1574年)織田軍に敗れ、壊滅した長島一揆勢の戦死者が多数葬られた。
3、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に敗れた西軍の一部が当地に逃走、その時の戦死者が葬られた。
供養 毎年8月15日

拝殿です

本殿屋根が見えました
では、次へ行きましょう

2025・1・24・13・45
桑名市役所南側の道路を東へ、直ぐの国道1号線を北へ
約1,7kmの「宮前町」信号で「⇐東員・県道142号線」の標識に従って左(西北西)へ、直ぐの「宮前西」信号を右(北北西)へ
約800mの一時停止で右(北北西)へ、美濃街道です、約1.1kmの「「桑名東インター入口」信号で右(北)へ、国道258号線です
約3.9kmの「下野代北」信号を左(西)へ

約400mの交差点北西側に「下野代区集会所」があります

野志里神社南側の「下野代区集会所」前に




東向きに鎮座する参道に目的の「野志里神社のクスノキ」は、北へ向かう道路右脇です(南西側から)




西側から


「伊勢神宮御旧跡野代の宮」の標石です


野志里神社の説明版です
野志里神社
野志里神社は延喜式(905年編さんの書物)に名を列ねる古社で、皇太神宮御遷座の旧跡です。
「倭姫命世紀(やまとひめのみことのせいき)」という古典によると、垂仁天皇は、皇女倭姫命を御杖代(みつえしろ)と定められ、姫は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊と御神璽を(ごしんじ)をお持ちになり、新たに清浄な御鎮座の土地を求めて、大和の笠縫邑(かさぬいむら)を離れられた。
この後、伊賀・近江・美濃・尾張などの各地を御巡幸、この伊勢国の野代の里に御遷幸されたと伝えられています。
その旧跡が、この野志里神社だといわれていますが、その時代にはもう少し川寄りであったと考えられます。
さて、ここにお祀りして4年、宇治の土公の祖(おや)、太田命(おおたのみこと)が地相を占い、「五十鈴の川上に霊地があります。御先導申し上げます。」と奏(そう)し、姫はこれを聞き入れ、現在の伊勢市宇治に御到着になり、ここに御神域と御神殿を整え、皇太神宮として奉祀(ほうし)することになりました。
こののち、大鹿島命(おおかしまのみこと)が主祭神となり、倭姫命は斎宮となられて、奉仕されるようになりました。
桑名市教育委員会



北西側から




北側から、目通り幹囲5.5mの巨木です




東側から見ました


野志里神社へお参りしましょう


右手に尾社務所前に由緒石碑です
由緒
野志里神社は、天照皇大神遷座の御奮蹟にして人皇10祟神天皇6年皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)を御杖代となし、皇大神を大和国笠縫邑に奉斎し給ふ。
33年の後諸国巡幸大宮所を覚めさせ給いしが、斯くて垂仁天皇14年9月1日皇女倭姫命(やまとひめのみこと)、大神を奉載して伊勢国桑名野代の宮に遷幸奉斎、4年爾後伊勢国各地を経させられ、同天皇26年伊須々河上に御遷幸大宮所を奠め給ふ。今の内宮即ち是なり。
仍て当社を野代の大宮と稱へ奉る
神祇百首 「菫菜生ふ 聖代の宮の ある里とす 橋人なしに 弥つる春ら仍」でしょうか


手水舎です


ウナギとナマズの描かれた説明版です
野志里神社(のじりじんじゃ)
この神社は約2030年前、倭姫(やまとひめ)が天照大神を永遠にお祀りする地を求めて各地を旅されました。
その時、天照大神をお祀りした旧跡です。
お祀りしている間、人々は倭姫命から、農業、織物、治水など色々な事を学びました。
そして4年が経った時、もっと良い地を求めて伊勢へ旅たたれました。そこが今の伊勢神宮です。
野志里神社は天照大神を一時的にお祀りしましたので元伊勢とも呼ばれます。
のしろおたから発見隊

拝殿は塚の上です


説明版です
千人塚由来
1、元亀2年(1571年)織田信長、長島一揆勢に敗北双方の戦死者が葬られた。
2、天正2年(1574年)織田軍に敗れ、壊滅した長島一揆勢の戦死者が多数葬られた。
3、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に敗れた西軍の一部が当地に逃走、その時の戦死者が葬られた。
供養 毎年8月15日

拝殿です


本殿屋根が見えました

では、次へ行きましょう


2025・1・24・13・45