三解脱門から西へ、本堂が有ります
増上寺の背後には東京タワーが迫ります
本堂は大殿と呼ばれています
大殿
昭和四十九年(1974)浄土衆開祖八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。
「大殿」と称し、間口二十六間余(約48m)奥行二十五間余(約45m)高さ七丈半余(約23m)総面積は
10、535平方メーターという大きさの大本堂です。
石段をのぼり切った二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地階に三縁ホールなどを備えています。
本堂には、本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇段に高祖善道大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される
方々の厚い信仰をあつめています。
本堂前左手に、幼少の法然上人像が有ります
本堂脇を通って、階段を登ると
圓光大師堂が有ります
圓光大師堂
この御堂は平成二十三年(2011)宗祖法然上人八百年御忌を記念し、知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と
当山法主第八十七世成田有恒台下との尊い由縁が実を結び、時の執事長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執
事長が後を龒ぎ、平成十八年十一月二十五日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。成田台下は直ち
に「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成二十一年九月に竣工しました
。
圓光大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向背軒唐破風付、間口四間(約8m)奥行は裏堂を含み
八間(約13.5m)高さ9.5mの御堂です。
直ぐ北側には、大納骨堂が有ります
大納骨堂は昭和八年(1933)に建立されました。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像である。
戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和五十五年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。
堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られてお祀りされています。
更に墓地北側に菩薩様がいらっしゃいます
四菩薩像です、普賢・地蔵・虚空蔵・文殊の菩薩です
港区の文化財に成っています
徳川将軍家墓所
戦前、徳川家霊廟は御魂屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、
いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
その後昭和二十年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前
「中門」であったものを移築しました。
中央の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍、下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東
照宮と並び評され往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
墓所には二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍の
ほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)静院宮(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室、桂
昌院(三代家光公の側室、五代綱吉公の実母)はじめ五人の側室、及び三代将軍家光公代三子甲府宰相綱重公
歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
港区文化財です
では、次へ行きましょう
増上寺の背後には東京タワーが迫ります
本堂は大殿と呼ばれています
大殿
昭和四十九年(1974)浄土衆開祖八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。
「大殿」と称し、間口二十六間余(約48m)奥行二十五間余(約45m)高さ七丈半余(約23m)総面積は
10、535平方メーターという大きさの大本堂です。
石段をのぼり切った二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地階に三縁ホールなどを備えています。
本堂には、本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇段に高祖善道大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される
方々の厚い信仰をあつめています。
本堂前左手に、幼少の法然上人像が有ります
本堂脇を通って、階段を登ると
圓光大師堂が有ります
圓光大師堂
この御堂は平成二十三年(2011)宗祖法然上人八百年御忌を記念し、知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と
当山法主第八十七世成田有恒台下との尊い由縁が実を結び、時の執事長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執
事長が後を龒ぎ、平成十八年十一月二十五日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。成田台下は直ち
に「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成二十一年九月に竣工しました
。
圓光大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向背軒唐破風付、間口四間(約8m)奥行は裏堂を含み
八間(約13.5m)高さ9.5mの御堂です。
直ぐ北側には、大納骨堂が有ります
大納骨堂は昭和八年(1933)に建立されました。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像である。
戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和五十五年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。
堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られてお祀りされています。
更に墓地北側に菩薩様がいらっしゃいます
四菩薩像です、普賢・地蔵・虚空蔵・文殊の菩薩です
港区の文化財に成っています
徳川将軍家墓所
戦前、徳川家霊廟は御魂屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、
いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
その後昭和二十年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前
「中門」であったものを移築しました。
中央の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍、下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東
照宮と並び評され往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
墓所には二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍の
ほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)静院宮(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室、桂
昌院(三代家光公の側室、五代綱吉公の実母)はじめ五人の側室、及び三代将軍家光公代三子甲府宰相綱重公
歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
港区文化財です
では、次へ行きましょう