ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県ひたちなか市、武田館(甲斐武田氏発祥の地)です!!

2015-03-31 16:18:43 | 城跡・館跡・陣屋跡
武田館は、ひたちなか市役所の南西約3km、勝田台地の南端にあります

勝田橋北詰から県道63号線を西へ、田圃簿中の道を北へ進みます





JR常磐線の向こう側、正面左手に見える木立が武田館です



坂道を登って、踏切を越えると、間もなく沼尾神社です

甲斐武田氏発祥の地の石碑が有ります



説明版が有ります
   名将信玄を出した甲斐武田氏発祥の地
   源頼義の長子八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、後三年の役(1083~1087)に際し兄義家軍への参加や、
  常陸介に任ぜられて東国常陸への赴任を通して、早くから在地勢力と提携し、常陸大掾平氏と縁戚関係を結んで、常
  陸進出の野望を着々と実現していった、義光には、義業、実光、義清、盛義、親義らの数子があったが、まず、長子
  義業を、常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ常陸進出の拠点とした。
   一方、三男の義清を、常陸国吉田郡武田郷(勝田市武田)に配して勢力の扶植を計った、ここが甲斐武田氏発祥の
  地である。
   義清は刑部三郎と称し、武田郷の地名をとって初めて武田氏を名乗り武田冠者と呼ばれた。この義清が甲斐武田氏
  の始祖となったのである。
   「武田氏系図」によると、義清は上野介源兼宗の女を妻とし清光を設けている。「長秋記」によれば、大治五年(
  1130)十二月三十日の条に「常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり、子細目録に見ゆ」と記されている。
   十二世紀初めの武田郷周辺の地は在地豪族の間で互いに勢力を張りあっていたが、勢力拡張をあせる義清・義光父子
  にゆき過ぎの行為があった。
   そのため吉田郡地方に隠然たる勢力をもつ常陸大掾に族吉田清幹らに疎外され「清光濫行」として告発された、その
  結果、義清・清光父子は告発された直後、甲斐国市河荘に配流となった。
   義清の曽祖父頼信、祖父頼義、父義光と三代にわたって甲斐守に任ぜられ、清和源氏と甲斐は一説な関係にあった祖
  父ゆかりの地に土着し、新天地を開いて甲斐源氏発展の基盤を築いた。
   名将武田信玄は義清から十八代目に当たる。
   佐竹・武田氏両氏略系図
      義光・・・義業(佐竹)・・・昌義・・・隆義・・・義重
         ・・実光
         ・・義清(武田)・・・清光・・・信義・・・晴信(信玄)

   常陸大掾伝記・常陸大掾系図
      平繁盛・・桂幹・・為幹・・繁幹・・致幹
                     ・・清幹・・盛幹・・幹清(吉田太郎)
                     ・・女子(佐竹義業妻昌義母)
     勝田市・勝田市教育委員会


ぬま尾神社誌です


神社さ伝は、再建のため取り壊されてしまっています

工事事務所です

手水舎です

境内社が一つだけ残っています

神社の西側には、復元武田館が有ります

武田と言えば騎馬軍団 馬小屋です

館の建物ですが、時間が早かった為、門が開いていませんでした


市指定天然記念物のスダジイです


ヒイラギです

では、次へ行きましょう
コメント
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