上野地区は、市川三郷町役場の東約2kmのところ
JR身延線かいうえの駅の南側台地上に怪しい天守閣があります
歌舞伎文化公園、歌舞伎資料館です
公園の駐車場を利用させて頂きました
説明版です
市川三郷町歌舞伎文化公園
由緒
当公園は曽根丘陵の最南端に位置し、海抜287m
にして、西に白根三山など南アルプス連峰を、北に八
ヶ岳金峰山など秩父の峰々を望し、釜無川・笛吹川・
芦川など富士川支流を眼下に甲府盆地を一望する景勝
の地にあります。
古くは、縄文・弥生の時代から人々が居を構え。古
代ロマンに彩られた地であり、その遺構は、狐塚・大
塚・伊勢塚・エモン塚など数多く、史跡として現存し
ております。
近世においては、甲斐の守護職であった武田信玄公
の異母弟で武田二十四将の一人、一条右衛門信龍がこ
の地に上野城を構え騎馬武者二百騎を擁して甲斐南領
の守りを固めておりました。
往時、武田家の能係をつとめたとされる堀越十郎式
部、さらに、その孫堀越十郎家宣が、相模北条氏との
戦いで、武功を立て上野の地に百五十貫の地の領地を
拝領、信龍の家臣として居を構えました。
勝頼の代、武田氏は織田信長・徳川家康の連合軍に
敗れ、十郎家宣は下総の国幡谷、現在の千葉県に逃れ
ました。
即ち、江戸歌舞伎、初代市川團十郎の曽祖父であり
ます。現、十二代市川團十郎丈こと、堀越夏雄氏が三
珠町名誉町民として本町と深い縁で結ばれる由縁であ
ります。
当歌舞伎文化公園は、面積二万㎡に、既設の歌舞伎
資料館の他、考古資料館、歌舞伎ホール、芝生広場、
散策の庭などを新設して構成し、三珠町民の文化・憩
いの拠点として、「文化と青空のまち、歌舞伎のふる
さと三珠町」が、ふるさと創生事業を機に企画・建設
したものであります。
平成6年4月27日 三珠町
芝生広場の北側、西向きに蹴裂神社入口です
鳥居です
石碑が有ります「史蹟 ソ一塁城跡」でしょうか
説明版です
史跡 一条氏累跡
昭和51年6月19日指定
武田信玄は始祖武田信義の嫡男、一条次郎忠頼に
始まる一條家の名跡の絶えているのを惜しみ、異母
弟一条右衛門大夫信竜をたてて家跡を継がせた。
信竜は、ここ上野の地に塁城を築き、その子上野
介信就と共に、騎二百を率いて、武田家滅亡(天正
10年3月)まで甲南の守りを固めていた、塁跡は
蹴裂神社となっている。
鳥居脇のスギとケヤキの大木です
拝殿です
本殿です
本殿裏側の祠です
本殿裏側にカシノキの大木です
南側から、目通り幹囲4,9mの大木です
東側から
境内東端に一条右衛門大夫信竜の祠です
境内には、杉の大木が数本あります、一番太いのが本殿北側の目通り4m程のこちらでしょうか
では、次へ行きましょう
JR身延線かいうえの駅の南側台地上に怪しい天守閣があります
歌舞伎文化公園、歌舞伎資料館です
公園の駐車場を利用させて頂きました
説明版です
市川三郷町歌舞伎文化公園
由緒
当公園は曽根丘陵の最南端に位置し、海抜287m
にして、西に白根三山など南アルプス連峰を、北に八
ヶ岳金峰山など秩父の峰々を望し、釜無川・笛吹川・
芦川など富士川支流を眼下に甲府盆地を一望する景勝
の地にあります。
古くは、縄文・弥生の時代から人々が居を構え。古
代ロマンに彩られた地であり、その遺構は、狐塚・大
塚・伊勢塚・エモン塚など数多く、史跡として現存し
ております。
近世においては、甲斐の守護職であった武田信玄公
の異母弟で武田二十四将の一人、一条右衛門信龍がこ
の地に上野城を構え騎馬武者二百騎を擁して甲斐南領
の守りを固めておりました。
往時、武田家の能係をつとめたとされる堀越十郎式
部、さらに、その孫堀越十郎家宣が、相模北条氏との
戦いで、武功を立て上野の地に百五十貫の地の領地を
拝領、信龍の家臣として居を構えました。
勝頼の代、武田氏は織田信長・徳川家康の連合軍に
敗れ、十郎家宣は下総の国幡谷、現在の千葉県に逃れ
ました。
即ち、江戸歌舞伎、初代市川團十郎の曽祖父であり
ます。現、十二代市川團十郎丈こと、堀越夏雄氏が三
珠町名誉町民として本町と深い縁で結ばれる由縁であ
ります。
当歌舞伎文化公園は、面積二万㎡に、既設の歌舞伎
資料館の他、考古資料館、歌舞伎ホール、芝生広場、
散策の庭などを新設して構成し、三珠町民の文化・憩
いの拠点として、「文化と青空のまち、歌舞伎のふる
さと三珠町」が、ふるさと創生事業を機に企画・建設
したものであります。
平成6年4月27日 三珠町
芝生広場の北側、西向きに蹴裂神社入口です
鳥居です
石碑が有ります「史蹟 ソ一塁城跡」でしょうか
説明版です
史跡 一条氏累跡
昭和51年6月19日指定
武田信玄は始祖武田信義の嫡男、一条次郎忠頼に
始まる一條家の名跡の絶えているのを惜しみ、異母
弟一条右衛門大夫信竜をたてて家跡を継がせた。
信竜は、ここ上野の地に塁城を築き、その子上野
介信就と共に、騎二百を率いて、武田家滅亡(天正
10年3月)まで甲南の守りを固めていた、塁跡は
蹴裂神社となっている。
鳥居脇のスギとケヤキの大木です
拝殿です
本殿です
本殿裏側の祠です
本殿裏側にカシノキの大木です
南側から、目通り幹囲4,9mの大木です
東側から
境内東端に一条右衛門大夫信竜の祠です
境内には、杉の大木が数本あります、一番太いのが本殿北側の目通り4m程のこちらでしょうか
では、次へ行きましょう