宮川地区は、茅野市役所の南約2kmのところ
国道152号線に前宮前信号が有ります
信号に向って北東向きに参道が開きます
信号の北側に広い駐車場が有りますので利用させて頂きました
前宮参道の石段を上がると参道は鉤の手に曲がります
そこに御室社が鎮座します
目印になる大きなケヤキが覆いかぶさっています
御室社のケヤキです
小さな祠が御室社です
説明版です
御室社
中世までは諏訪郡内の諸郷の
奉仕によって半地下式の土室が
造られ、現人神の大祝や神長官
以下の神官が参篭し、蛇形の御
体と称する大小のミシヤクジ神
とともに、「穴巣始」といって
、冬ごもりをした遺跡地である。
旧暦12月22日に、「御室
入り」をして、翌年3月中頃寅
日に御室が撤去されるまで、土
室の中で神秘な祭祀が続行され
たという。
諏訪信仰の中では特殊神事と
して重要視されていたが、中世
以降は惜しくも廃絶した。
安国寺史友会
北側から
西側から、目通り幹囲5,5mの巨木です
直ぐ西側に五輪塔が有ります
説明版です
諏訪照雲頼重の供養塔
この地は、もと「大祝様御
屋敷地」といわれた神殿に近
く、明治初年に五輪塔及び多
宝塔等の石造物残欠が多数出
土したし、付近住民によって
私有地の一角に保存されてき
た。
当寺は五輪塔火部に「照雲」
との銘が判読できたという伝承
があり、中世前期の形式をそな
えた貴重な歴史的遺物である。
照雲とは上社大祝をつとめた
三河入道頼重のことで「太平記
」にも名をとどめ、建武2年(
1335)7月14日に北條氏
再興をはかってこの地に決起し
、北條時行(高時の遺児亀寿丸
)を擁立して「中先代の乱」を
戦い鎌倉を占領した信濃勢の総
大将であった。
しかし、足利勢の大軍に敗退
し、8月19日、遂に勝長寿院
大御堂にて壮絶な自害をし果て
たと記録されている。
近年これら石造物も風化損傷
がひどくなり地元保存会が補修
整備を行なったものである。
平成4年3月
安国寺史友会
そばの観光施設の交流広場は閉鎖中でした
鎌倉道遊歩道の案内図が有ります
前宮へ行きましょう
国道152号線に前宮前信号が有ります
信号に向って北東向きに参道が開きます
信号の北側に広い駐車場が有りますので利用させて頂きました
前宮参道の石段を上がると参道は鉤の手に曲がります
そこに御室社が鎮座します
目印になる大きなケヤキが覆いかぶさっています
御室社のケヤキです
小さな祠が御室社です
説明版です
御室社
中世までは諏訪郡内の諸郷の
奉仕によって半地下式の土室が
造られ、現人神の大祝や神長官
以下の神官が参篭し、蛇形の御
体と称する大小のミシヤクジ神
とともに、「穴巣始」といって
、冬ごもりをした遺跡地である。
旧暦12月22日に、「御室
入り」をして、翌年3月中頃寅
日に御室が撤去されるまで、土
室の中で神秘な祭祀が続行され
たという。
諏訪信仰の中では特殊神事と
して重要視されていたが、中世
以降は惜しくも廃絶した。
安国寺史友会
北側から
西側から、目通り幹囲5,5mの巨木です
直ぐ西側に五輪塔が有ります
説明版です
諏訪照雲頼重の供養塔
この地は、もと「大祝様御
屋敷地」といわれた神殿に近
く、明治初年に五輪塔及び多
宝塔等の石造物残欠が多数出
土したし、付近住民によって
私有地の一角に保存されてき
た。
当寺は五輪塔火部に「照雲」
との銘が判読できたという伝承
があり、中世前期の形式をそな
えた貴重な歴史的遺物である。
照雲とは上社大祝をつとめた
三河入道頼重のことで「太平記
」にも名をとどめ、建武2年(
1335)7月14日に北條氏
再興をはかってこの地に決起し
、北條時行(高時の遺児亀寿丸
)を擁立して「中先代の乱」を
戦い鎌倉を占領した信濃勢の総
大将であった。
しかし、足利勢の大軍に敗退
し、8月19日、遂に勝長寿院
大御堂にて壮絶な自害をし果て
たと記録されている。
近年これら石造物も風化損傷
がひどくなり地元保存会が補修
整備を行なったものである。
平成4年3月
安国寺史友会
そばの観光施設の交流広場は閉鎖中でした
鎌倉道遊歩道の案内図が有ります
前宮へ行きましょう