立沢地区は、富士見町役場の北東約6kmのところ
県道190号線で立場川沿いを上って行きます
地区の入り口近くの本郷小学校への下り道を下りると
交差点北側にドルメン類似遺跡が有ります
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
遺跡への入り口です
遺跡です
石碑です
説明版です
富士見町指定史跡
ドルメン類似史跡
ここ坪平遺跡は、大正の末年、
郡史編纂調査の一環として民族・
考古学者の鳥居龍蔵博士らによっ
て発掘され、「ドルメン類似遺跡
」と称せられた。
発掘されたのは石で覆った墓と
目される遺構で、4m近い間隔で
二基ならんで発見された。片方は
偶然、地主の植松夏平氏によって
掘り起こされた。南北5,7m、
東西4,5mばかりの長方形に石
積がなされ、その北端に長さ15
cm弱の人形をした石製品(立沢
区所蔵)があっらという。
もう一方もやはり南北5m、東
西3,6mほどの長方形に積石が
みられた。掘り起こしてみると6
0cmほどの深さに積まれており
、中央やや北に寄ったところには
直径1m余りの大きな蓋石がいく
つかの支石の上に被せられていた
。支石で囲まれた不規則な室は長
さ90cm、幅30cmほどであ
るが、そこに遺物は見当たらず、
蓋石の北側から石器や土器片が発
見されたという。
このような支石と蓋石のあり方
はヨーロッパ考古学で「ドルメン
」と称する支石墓に似ており、こ
れらは石器時代の墳墓である。そ
して、日本にも巨石文化の小規模
なものが存在したと、鳥居龍蔵は
考えた(「諏訪史」第一巻)
こんにち、坪平遺跡は縄文時代
後期(およそ3800年前)の遺
跡として認識されている。いっぽ
う、1980年来、八ヶ岳南麓の
北巨摩郡下では墓や墓域に大量の
石を用いた同時代の遺跡がいくつ
か発掘されてきた。それらに照ら
してみると、坪平の遺構を支石墓
と断定することには疑問もあるが
、諏訪における考古学史上記念す
べき遺跡であることに変わりはな
い。その時の発見箇所100㎡ほ
どが、区有地として保護されてい
る。
なお平成10年、この東に隣接
する土地500㎡余りを発掘調査
した。しかし、墓跡と思しき穴三
基を検出したにとどまり、同類の
遺跡は見当たらなかった。
平成17年3月
富士見町教育委員会
南側の甲斐駒ケ岳や鋸山方面の眺めです
では、次へ行きましょう
県道190号線で立場川沿いを上って行きます
地区の入り口近くの本郷小学校への下り道を下りると
交差点北側にドルメン類似遺跡が有ります
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
遺跡への入り口です
遺跡です
石碑です
説明版です
富士見町指定史跡
ドルメン類似史跡
ここ坪平遺跡は、大正の末年、
郡史編纂調査の一環として民族・
考古学者の鳥居龍蔵博士らによっ
て発掘され、「ドルメン類似遺跡
」と称せられた。
発掘されたのは石で覆った墓と
目される遺構で、4m近い間隔で
二基ならんで発見された。片方は
偶然、地主の植松夏平氏によって
掘り起こされた。南北5,7m、
東西4,5mばかりの長方形に石
積がなされ、その北端に長さ15
cm弱の人形をした石製品(立沢
区所蔵)があっらという。
もう一方もやはり南北5m、東
西3,6mほどの長方形に積石が
みられた。掘り起こしてみると6
0cmほどの深さに積まれており
、中央やや北に寄ったところには
直径1m余りの大きな蓋石がいく
つかの支石の上に被せられていた
。支石で囲まれた不規則な室は長
さ90cm、幅30cmほどであ
るが、そこに遺物は見当たらず、
蓋石の北側から石器や土器片が発
見されたという。
このような支石と蓋石のあり方
はヨーロッパ考古学で「ドルメン
」と称する支石墓に似ており、こ
れらは石器時代の墳墓である。そ
して、日本にも巨石文化の小規模
なものが存在したと、鳥居龍蔵は
考えた(「諏訪史」第一巻)
こんにち、坪平遺跡は縄文時代
後期(およそ3800年前)の遺
跡として認識されている。いっぽ
う、1980年来、八ヶ岳南麓の
北巨摩郡下では墓や墓域に大量の
石を用いた同時代の遺跡がいくつ
か発掘されてきた。それらに照ら
してみると、坪平の遺構を支石墓
と断定することには疑問もあるが
、諏訪における考古学史上記念す
べき遺跡であることに変わりはな
い。その時の発見箇所100㎡ほ
どが、区有地として保護されてい
る。
なお平成10年、この東に隣接
する土地500㎡余りを発掘調査
した。しかし、墓跡と思しき穴三
基を検出したにとどまり、同類の
遺跡は見当たらなかった。
平成17年3月
富士見町教育委員会
南側の甲斐駒ケ岳や鋸山方面の眺めです
では、次へ行きましょう