細谷地区は太田市役所の南西約4kmのところ
国道354号線(新道)のすぐ南側に南向き参道で冠稲荷神社が鎮座します
神社の北側、東側、そして南側に駐車場が有ります
一般の方々は、東側の広い駐車場(社殿に一番近い)を利用する様です
参道南側の赤鳥居脇の第一駐車場を利用しました(私の他に止めている車は有りませんでした)
では、冠稲荷神社の木々を見て行きましょう
横文字の案内板です、ここの境内の木々の紹介が載っています
イチョウにクスノキ、キンモクセイ、マツです
ボケ(県指定)です
まずは参道左手匕福神殿前にイチョウです
北東側から
参道(南東側)からクスノキです
イチョウの前(南側)からクスノキです
西側から
拝殿前から見上げました、目通り幹囲5,0mの巨木です
社務所前の鳳凰の松です
説明版です
高山彦九郎 寵愛の青松
鳳凰の松
鳳凰は、古代中国で麟・亀・龍とともに四瑞の一つとして尊ばれて瑞鳥で聖人が世に現われる前兆として飛来するといわれる。枝張りが力強くまた美しく樹冠が、さながら翼を広げた鳳凰をおもわせるところから名付けられたという。
高山彦九郎の書斎の前にあった自然の松で、彦九郎がこよなく愛惜した賢木である。樹齢200年をこえるものと推定される。
高山彦九郎書斎は、当神社の境外旧所有地のあったが、彦九郎没後、境内に移築し社務所(昭和39年解体)として用いられた。その時に、鳳凰の松も移植された。松は豊穣の神、大年神のよりくる(宿る)神木である。
高山彦九郎は、のちに、林子平、蒲生君平とともに寛政の三傑といわれた思想家である。
延享4年(1747)新田郡細谷村の生まれた。遠祖は、新田義貞公統幕の軍に従った精鋭16騎党の一人、高山遠江守重栄である。18歳の頃から、国政の乱れ道義の退廃を憂い、北は青森、南は鹿児島まで歴訪し、閉鎮された幕藩体制を打破しようとした。明治維新思想の形成、実践の大先達と讃えられる。寛政5年(1793)6月、九州久留米で謎の自刃により果てた。時に、47歳である。
明治2年、政府太政官は、「勤王の大義を唱え、その気節深く」と追賞して、子孫に三人扶持を下賜した。
京都三条大橋のたもとには、御所を遥拝する高山彦九郎坐像が現存する。
祈る心すくなる道をとめくれば 行末ながく神やまもらん 彦九郎
県指定天然記念物のボケです
説明版です
群馬県指定天然記念物 冠稲荷のボケ
1、名称及び員数
群馬県指定天然記念物 冠稲荷のボケ 一株
2、指定年月日
昭和30年1月14日
3、所在
太田市大字細谷字稲荷1番地
4、指定理由
●群馬県文化財保護条例38条の規定による。
●指定等の基準第6の3の(2)のアによる。
●園芸種の緋ボケでは県内でも古く株も大きい。
5、説明事項
●樹齢 300~400年(推定)
●樹高 約3.5m
●周囲 根本約3m
●枝張り 約9m四方
●500本程の樹が分岐し半円形状に簇生し、一株を形成している。3月下旬~4月上旬頃開花し、秋に結実する。
●由来
境内にある聖天宮が創建されたと伝えられる永禄年間(戦国時代)の頃、子供のない婦人が子宝を授け給えと毎朝日参していた。ある朝、宮の前にいた老修験者に祈願の理由を問われた。すると、修験者は「ボケ」の実を採ってこれをきざみせんじて飲めば効験があるだろうと教え、どこかえ立ち去った。
婦人は相変わらず日参怠らず修験者の教えを守り実行した。そのうち効験が現われ、夫婦相和し、数多くの子をもうけることができ、その家も富に栄えるようになり、夫婦は大願成就のお礼に神苑に「ボケ」の木を植えた、この「ボケ」がその時植えられたものと伝えられる。以来、この「ボケ」は、里人たちにより、、縁結びの子宝祈願・子育て等にと厚く信仰されている。
昭和61年3月31日
群馬県教育委員会
太田市教育委員会
キンモクセイは、お札販売所の中央になってしまっています
南東側参道わきの縁結びのサクラです
では、次へ行きましょう
国道354号線(新道)のすぐ南側に南向き参道で冠稲荷神社が鎮座します
神社の北側、東側、そして南側に駐車場が有ります
一般の方々は、東側の広い駐車場(社殿に一番近い)を利用する様です
参道南側の赤鳥居脇の第一駐車場を利用しました(私の他に止めている車は有りませんでした)
では、冠稲荷神社の木々を見て行きましょう
横文字の案内板です、ここの境内の木々の紹介が載っています
イチョウにクスノキ、キンモクセイ、マツです
ボケ(県指定)です
まずは参道左手匕福神殿前にイチョウです
北東側から
参道(南東側)からクスノキです
イチョウの前(南側)からクスノキです
西側から
拝殿前から見上げました、目通り幹囲5,0mの巨木です
社務所前の鳳凰の松です
説明版です
高山彦九郎 寵愛の青松
鳳凰の松
鳳凰は、古代中国で麟・亀・龍とともに四瑞の一つとして尊ばれて瑞鳥で聖人が世に現われる前兆として飛来するといわれる。枝張りが力強くまた美しく樹冠が、さながら翼を広げた鳳凰をおもわせるところから名付けられたという。
高山彦九郎の書斎の前にあった自然の松で、彦九郎がこよなく愛惜した賢木である。樹齢200年をこえるものと推定される。
高山彦九郎書斎は、当神社の境外旧所有地のあったが、彦九郎没後、境内に移築し社務所(昭和39年解体)として用いられた。その時に、鳳凰の松も移植された。松は豊穣の神、大年神のよりくる(宿る)神木である。
高山彦九郎は、のちに、林子平、蒲生君平とともに寛政の三傑といわれた思想家である。
延享4年(1747)新田郡細谷村の生まれた。遠祖は、新田義貞公統幕の軍に従った精鋭16騎党の一人、高山遠江守重栄である。18歳の頃から、国政の乱れ道義の退廃を憂い、北は青森、南は鹿児島まで歴訪し、閉鎮された幕藩体制を打破しようとした。明治維新思想の形成、実践の大先達と讃えられる。寛政5年(1793)6月、九州久留米で謎の自刃により果てた。時に、47歳である。
明治2年、政府太政官は、「勤王の大義を唱え、その気節深く」と追賞して、子孫に三人扶持を下賜した。
京都三条大橋のたもとには、御所を遥拝する高山彦九郎坐像が現存する。
祈る心すくなる道をとめくれば 行末ながく神やまもらん 彦九郎
県指定天然記念物のボケです
説明版です
群馬県指定天然記念物 冠稲荷のボケ
1、名称及び員数
群馬県指定天然記念物 冠稲荷のボケ 一株
2、指定年月日
昭和30年1月14日
3、所在
太田市大字細谷字稲荷1番地
4、指定理由
●群馬県文化財保護条例38条の規定による。
●指定等の基準第6の3の(2)のアによる。
●園芸種の緋ボケでは県内でも古く株も大きい。
5、説明事項
●樹齢 300~400年(推定)
●樹高 約3.5m
●周囲 根本約3m
●枝張り 約9m四方
●500本程の樹が分岐し半円形状に簇生し、一株を形成している。3月下旬~4月上旬頃開花し、秋に結実する。
●由来
境内にある聖天宮が創建されたと伝えられる永禄年間(戦国時代)の頃、子供のない婦人が子宝を授け給えと毎朝日参していた。ある朝、宮の前にいた老修験者に祈願の理由を問われた。すると、修験者は「ボケ」の実を採ってこれをきざみせんじて飲めば効験があるだろうと教え、どこかえ立ち去った。
婦人は相変わらず日参怠らず修験者の教えを守り実行した。そのうち効験が現われ、夫婦相和し、数多くの子をもうけることができ、その家も富に栄えるようになり、夫婦は大願成就のお礼に神苑に「ボケ」の木を植えた、この「ボケ」がその時植えられたものと伝えられる。以来、この「ボケ」は、里人たちにより、、縁結びの子宝祈願・子育て等にと厚く信仰されている。
昭和61年3月31日
群馬県教育委員会
太田市教育委員会
キンモクセイは、お札販売所の中央になってしまっています
南東側参道わきの縁結びのサクラです
では、次へ行きましょう