長谷寺は「花の御寺」として有名なボタンの名所ですが、「うさぎ寺」として最近とみに有名です
しかし、訪問時には「白うさぎ」が一頭だけになっています。
昨年春に、多頭飼育(10頭以上を飼育する場合の第二種動物取扱業者の届け出)が問題になり、数を減らすことになったようです
一時期は、数えきれないほどの「うさぎ除草部隊」が境内で除草作業に取り組んでいたとか、残念ですが「飼育崩壊」として保健所の指導に従うほかなかったようです。
(うさぎは、雄と雌を一緒にしてはいけません「子孫繁栄のシンボル」ですからね~)
では、
長谷地区は、佐渡市役所の南東約7kmのところ
県道181号多田皆川金井線を東へ、地持院川を渡ると間もなく右(南)へ県道181号線をそのまま道なりに進みます
小佐渡山地の山裾に入っていきます、ゆるく坂道を登っていくと長谷寺の案内板が有ります
左に入って、長谷寺仁王門の前を通って第二駐車場に入りました
県道から左に入ります
三つのお寺があるようです
手前は遍照院の参道です
参道の上には山門が見えていますが、長谷寺の仁王門へ行きます
参道入り口の山門は仁王門です
真言宗 豊山派 長谷寺(ちょうこくじ)です(奈良桜井市の総本山と同じです)
左に阿形像です
右に吽形像です
説明版です
仁王門(国登録有形文化財)
仁王門は享保年間(1716年~1735年江戸中期)に建立された。
仁王像(県指定文化財)
阿形・吽形の二体の金剛力士像の製作年代は、平安後期の彫像製作にしばしば用いられた一木割矧造の技法に通じる点などから平安後期に遡ると考えられる。
金剛力士像は、鎌倉時代以降の遺品が圧倒的に多く、平安時代に遡るものは、京都醍醐寺の像など、極めて少ないことから甚だ貴重なものである。
仁王像の県指定文化財標柱です
説明版です
長谷寺の歴史
当山は今から1200年前の大同2年に弘法大師の創 なり。と「古伝縁起」に記されております。
本尊十一面観音立像三躯は、太師の御作と伝えられ、明治39年4月国宝に指定されました。また本尊は古来から秘仏のまま常に御厨子の中におさめられ、三十三年毎に一回の御開扉法会を慣例としてきました。
当山の寺号は、一説によれば、承久年間〔1219年~1222年)順徳上皇御還幸の際、地形が大和の長谷に似ている
ことから「里を長谷と称し、山号を豊山、寺号を長谷寺と称せり。」と佐渡誌に見えております。
大悲殿(観音堂)は、正長年間第八世智円和尚が再建し現在の建物は、元禄4年(1691年、約300年前)に改修されたものです。
天正17年(1589年)上杉謙信の嗣子景勝が佐渡国攻略の際、家老直江山城守兼続は、当寺の再興に尽くし、文禄4年当国支配役鳥羽備前守に令を下し寺領を兵火の災いから保護するためにつとめられました。永享年間(1431年)佐渡に流された観世元清(世阿弥)は、その「道の記」に「山道を下れば長谷と申す観音の霊地にわたらせ給い、故郷にも聞こえし名仏なれば懇に礼拝し」と記されています。
長谷寺
境内案内図です
参道石段です
参道左上の御堂は聖天堂です
説明版です
義僧 憲盛法印
当山先師憲盛法印は、名を智専と云い真野町に生まれ17才の時、修業の為京都に上り勉学に励み学んだあと当寺の住職となる。
明和3年佐渡では、農作物の大凶作に見舞れ重税に苦しむ国仲53ヶ村の農民は、年貢米の軽減と時の代官所へ願い出るも、聴き入れられず、此の時智専は途方にくれる農民の窮状見るに忍びず、此の請願を一身に引き受け、奉行所直訴の決心をしたのであるが、その頃早くも役人の知るところとなる。一部同志と共に捕縛の身となる。
獄中3年拷問を受け、乍ら常に釈迦の救世捨身を信条として一切の責は愚僧にありと、同志農民を庇い通し遂に明和7年3月21日斬首の刑を受けたのであるが、刑場にあっても智専は泰然自若として般若心経を朗誦したと伝えられ、此の大慈悲心によって悪政漸く改り、同志農民も延納も許されたのである。
智専没後憲盛法印と贈名され、国仲53ヶ村の村毎に石碑を打ち建て永くその仏徳を讃し、今なお信仰が絶えません。
平成3年4月
無量山遍照院
更に西側には遍照院本堂です
参道に戻りました、御不動様ですね
参道右手に本堂入り口です
入り口脇には手水です
参道石段から、目的のコウヤマキです
北西側から、本堂側に立っています
本堂です
コウヤマキは本堂側の参道との間です
南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
本堂前(東側)から
本堂脇(北東側)から
本堂前では除草部隊解散後、白うさぎ一人(頭)で除草作業にあたっていました、写真を撮ろうとしたら石の影に隠れてしまいました
うさぎ観音は第三駐車場、庫裏の東側です
うさぎ観音は大きな方は高さ6m、夜になると目が赤く光るようです
東側には、コロナ撲滅祈願犬 名犬コロの像です
長くなりそうなので、次「三本杉」へまわします
しかし、訪問時には「白うさぎ」が一頭だけになっています。
昨年春に、多頭飼育(10頭以上を飼育する場合の第二種動物取扱業者の届け出)が問題になり、数を減らすことになったようです
一時期は、数えきれないほどの「うさぎ除草部隊」が境内で除草作業に取り組んでいたとか、残念ですが「飼育崩壊」として保健所の指導に従うほかなかったようです。
(うさぎは、雄と雌を一緒にしてはいけません「子孫繁栄のシンボル」ですからね~)
では、
長谷地区は、佐渡市役所の南東約7kmのところ
県道181号多田皆川金井線を東へ、地持院川を渡ると間もなく右(南)へ県道181号線をそのまま道なりに進みます
小佐渡山地の山裾に入っていきます、ゆるく坂道を登っていくと長谷寺の案内板が有ります
左に入って、長谷寺仁王門の前を通って第二駐車場に入りました
県道から左に入ります
三つのお寺があるようです
手前は遍照院の参道です
参道の上には山門が見えていますが、長谷寺の仁王門へ行きます
参道入り口の山門は仁王門です
真言宗 豊山派 長谷寺(ちょうこくじ)です(奈良桜井市の総本山と同じです)
左に阿形像です
右に吽形像です
説明版です
仁王門(国登録有形文化財)
仁王門は享保年間(1716年~1735年江戸中期)に建立された。
仁王像(県指定文化財)
阿形・吽形の二体の金剛力士像の製作年代は、平安後期の彫像製作にしばしば用いられた一木割矧造の技法に通じる点などから平安後期に遡ると考えられる。
金剛力士像は、鎌倉時代以降の遺品が圧倒的に多く、平安時代に遡るものは、京都醍醐寺の像など、極めて少ないことから甚だ貴重なものである。
仁王像の県指定文化財標柱です
説明版です
長谷寺の歴史
当山は今から1200年前の大同2年に弘法大師の創 なり。と「古伝縁起」に記されております。
本尊十一面観音立像三躯は、太師の御作と伝えられ、明治39年4月国宝に指定されました。また本尊は古来から秘仏のまま常に御厨子の中におさめられ、三十三年毎に一回の御開扉法会を慣例としてきました。
当山の寺号は、一説によれば、承久年間〔1219年~1222年)順徳上皇御還幸の際、地形が大和の長谷に似ている
ことから「里を長谷と称し、山号を豊山、寺号を長谷寺と称せり。」と佐渡誌に見えております。
大悲殿(観音堂)は、正長年間第八世智円和尚が再建し現在の建物は、元禄4年(1691年、約300年前)に改修されたものです。
天正17年(1589年)上杉謙信の嗣子景勝が佐渡国攻略の際、家老直江山城守兼続は、当寺の再興に尽くし、文禄4年当国支配役鳥羽備前守に令を下し寺領を兵火の災いから保護するためにつとめられました。永享年間(1431年)佐渡に流された観世元清(世阿弥)は、その「道の記」に「山道を下れば長谷と申す観音の霊地にわたらせ給い、故郷にも聞こえし名仏なれば懇に礼拝し」と記されています。
長谷寺
境内案内図です
参道石段です
参道左上の御堂は聖天堂です
説明版です
義僧 憲盛法印
当山先師憲盛法印は、名を智専と云い真野町に生まれ17才の時、修業の為京都に上り勉学に励み学んだあと当寺の住職となる。
明和3年佐渡では、農作物の大凶作に見舞れ重税に苦しむ国仲53ヶ村の農民は、年貢米の軽減と時の代官所へ願い出るも、聴き入れられず、此の時智専は途方にくれる農民の窮状見るに忍びず、此の請願を一身に引き受け、奉行所直訴の決心をしたのであるが、その頃早くも役人の知るところとなる。一部同志と共に捕縛の身となる。
獄中3年拷問を受け、乍ら常に釈迦の救世捨身を信条として一切の責は愚僧にありと、同志農民を庇い通し遂に明和7年3月21日斬首の刑を受けたのであるが、刑場にあっても智専は泰然自若として般若心経を朗誦したと伝えられ、此の大慈悲心によって悪政漸く改り、同志農民も延納も許されたのである。
智専没後憲盛法印と贈名され、国仲53ヶ村の村毎に石碑を打ち建て永くその仏徳を讃し、今なお信仰が絶えません。
平成3年4月
無量山遍照院
更に西側には遍照院本堂です
参道に戻りました、御不動様ですね
参道右手に本堂入り口です
入り口脇には手水です
参道石段から、目的のコウヤマキです
北西側から、本堂側に立っています
本堂です
コウヤマキは本堂側の参道との間です
南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
本堂前(東側)から
本堂脇(北東側)から
本堂前では除草部隊解散後、白うさぎ一人(頭)で除草作業にあたっていました、写真を撮ろうとしたら石の影に隠れてしまいました
うさぎ観音は第三駐車場、庫裏の東側です
うさぎ観音は大きな方は高さ6m、夜になると目が赤く光るようです
東側には、コロナ撲滅祈願犬 名犬コロの像です
長くなりそうなので、次「三本杉」へまわします
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます