ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

千葉県成田市、助崎城跡です!!

2015-03-15 13:42:53 | 城跡・館跡・陣屋跡
助崎城跡は、成田市役所の北東約7km、北側に延びる台地の先端部に有ります

県道63号線沿いの成田ゴルフクラブ西側から北へ進み

尾羽根川を渡って北側の台地に登って行きます

尾羽根川の南側から城跡のある山林を見ます(正面住宅の後ろ側です、左手の車道を上がって行きます)

ここを上がってきました、嘗ての堀跡の様です(駐車場が無いので道路脇に駐車しました)


道路脇に助崎城跡の標柱が有ります

裏面に、説明が有ります
   助崎城跡は、名古屋地区南端の舌状台地の上面に位置する中世城郭です、大須賀氏の一族で中世末期にスケサキ殿と
  記載される、助崎大須賀氏の本城と考えられており、大規模で明瞭な土塁・空堀東等の意向を遺している下総地区でも
  最大規模の城郭遺跡である。


既に城跡の中の様です、本廓への上り口です

道路の直ぐ脇の大きな堀跡の様です

廓下の大きな空堀です

本廓と空堀を挟んで馬出のような部分が有ります

本廓の虎口です

廓内には水道の施設が有ります


北側から東側には低い土塁が残っているようです

南側の虎口の様です


南側には大きな土塁が残ります


その南側には腰廓が有るようです

南東側下にも平坦部が有るようです

廓の西半分は笹薮に覆われていますが土塁が残っている様です


西に延びる道路の両側にも廓が有ったのでしょうか、梅の花が見ごろでした

では、次へ行きましょう
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千葉県成田市、宗吾霊堂です!!

2015-03-14 10:51:29 | 文化財・寺社
宗吾霊堂は、成田市役所の西南西約4kmの所、国道464号線沿いにあります。

京成本線そうごさんどう駅の北約1kmです

宗吾霊堂入口の西側に駐車場が有ります

鳴鐘山 東勝寺 宗吾霊堂入口です

説明版が有ります
     別格本山 宗吾霊堂
    宗吾霊堂は真言宗豊山派東勝寺の管理する佛堂であります。
    今より三百六十余年前承応年間下総佐倉藩の悪政により生活に苦しむ人々を救う為、公津村名主(木内惣五郎)は
   徳川四代将軍家綱公に直訴し十万の人々の命を救われました。
    しかしその罪により承応二年(1653年)に本人と四人のお子様は刑に処せられ、その遺骸を当山住職等が現在
   のお墓の地(当時の刑場跡)に埋葬されました。
    その後、百年祭の時(1752年)に佐倉藩主堀田正亮公により「宗吾」の法号を贈られ立派な佛位を得られてよ
   り宗吾様を祀るお堂を宗吾霊堂と称するのであります。
    即ちお墓では偉大な宗吾精神(大慈大悲の広い心)を敬慕し、お堂では信徒の方々が所願成就を御祈祷し、現世の
   ご利益を授かるので有ります。
      毎月三日は宗吾様の命日。九月三日は祥月命日            鳴鐘山 東勝寺

手水舎です


宗吾父子の御墓です、承応二年八月三日受刑され、この地に宗吾様と四人のお子様が合葬されております。


大山門です

参道の先に宗吾霊堂が見えます

右手の池の向こう側に鐘楼が有ります

薬師堂です

聖天堂です

参道左手には大本坊が有ります


河津桜が咲き始めています


歌舞伎の上演記念碑が有ります


宗吾霊堂です


宗吾霊堂の裏側にあるのが奥ノ院です


宗吾顕彰碑です

霊宝殿です

他にも県指定・市指定の文化財が有るようです

では、次へ行きましょう

             
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千葉県印西市、国指定重要文化財 栄福寺薬師堂です!!

2015-03-13 07:50:14 | 文化財・寺社
永福寺は、印西市役所の南東約6kmの所にあります、国道464号線を東へ、

JR成田線いんばにほんいだい駅の手前県道65号を南へ入って直ぐ西へ入った所です

栄福寺の門前に駐車場が有ります


栄福寺の入り口です、門柱に「文化財 薬師堂」の文字が有ります

道路脇から薬師堂が見えます

鐘楼ですが鐘が有りません

左甚五郎作のビンズル大師です


国指定 重要文化財 薬師堂です

説明版が道路脇に有ります
       国指定 重要文化財
     栄福寺薬師堂  一棟 附 厨子一基・棟札一枚
        所 在 地  印西市角田二
        指定年月日  昭和二十九年九月十七日
       永福寺の沿革は明らかでなく、厨子と本尊は印旛村鎌刈から勧請されてと伝えられている、しかし附に指定
      されている棟札には 「寛永七(1466)年六月柱立、応仁三(1469)年霜月上棟、文明四(1472)
      年二月成就」と墨書銘があり、室町時代中期の建物であることがわかる。
       正面側面共に三間の単層の堂で、屋根は茅葺寄棟造である。正面階段部分の向拝は、江戸時代中期に設けら
      れたものである。正面には桟唐戸が備えられ、側面の前一間は舞良戸、中の間は板戸、その他は縦板壁となっ
      ている。外陣は、鏡天井に極彩色で天女図を描き、内陣は来迎柱を立て、その前に極彩色で飾った須弥壇を設
      け、薬師如来像を安置した厨子がある。
       県下でも最古の建立年代の明確な木造建築として大変貴重なものである。
         平成三年一月三十一日
                                 印西市教育委員会



直ぐとなりには熊野神社が有ります

境内には大きな椎の木と

銀杏の木が有ります

では、次へ行きましょう
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千葉県印西市、国指定重要文化財 宝珠院観音堂(光堂)です!!

2015-03-12 07:05:54 | 文化財・寺社
宝珠院観音堂は、印西市役所の西南西約3km

手賀沼の東側台地上の住宅地の中にあります

県道59号線の松山下公園から南に登った所です

坂道の途中に光堂の石碑が有ります、石碑の所に車を置いていくのが良いでしょう

この案内板のところの路地を入って行きます

国宝 光堂の石柱が建っています

西へ進みます

右に曲がって垣根の間を進むと

御堂が見えてきます




観音堂(光堂)です

説明版が有ります
     国指定重要文化財
    宝珠院観音堂(光堂)
      指 定  昭和九年一月三十日
      所在地  印西市小倉三門口1138番地
      所有者  泉倉寺 院代寺 宝珠院
  構造
     方三間、単層、寄棟、茅葺におさまるこの観音堂の様式を禅宗様式という。
     臨済禅が中国唐代の様式を伝承して建てられたお堂である。
  建立年代
     本尊の観世音菩薩がおさまる厨子の内壁には、「永禄六季 発亥 林鐘下旬」と墨書きされ、室町後期の
    建立とされる。
  文化
     室町時代は尊氏以来二百三十五年。その後半を世に戦国時代という。荘園制が崩れ、戦国大名が現れ、農
    民の反抗による土一揆等、幕府執権の中、独り無我、無一物、禅本来の文化を、禅宗様式、水墨画、能、茶
    道、花道、等に伝えている。
  禅宗様式
     丸柱、粽、出三寸詰組、唐戸、等。
       平成元年五月
                                  印西市教育委員会

重要文化財の標柱です

境内の御堂です

印西八景 光堂の雪景の標柱です


大きな杉の木が御神木です

では、次へ行きましょう
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さきたま史跡博物館に国宝を見に行って来ました!!

2015-03-11 17:31:36 | 遺跡・史跡
行田市のさきたま古墳群にある、さきたま史跡博物館です

稲荷山古墳から見つかった、国宝を見に行って来ました




さきたま史跡博物館入口です
.
さきたま古墳群の案内図です

拝館料は一般200円です



国宝 金錯銘鉄剣です

国宝 画紋帯環状乳神獣鏡です

国宝 銀環と勾玉(ヒスイ製)です

他にも 鉄剣と同時に発見された遺物が国保指定を受けています


埴輪などもたくさん復元されて展示されていました

古民家を見て行きます


旧遠藤家住宅です


旧山崎家住宅は、傷みが激しく見學できなくなっています


梅の花が見ごろです




瓦古墳です、全長73mの前方後円墳です

他の古墳に関しては、このブログで以前、数回にわたって紹介していますので、今日はおしまいです

では、帰ります
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芝増上寺、本堂から裏側へ行きましょう!!

2015-03-09 17:05:11 | 文化財・寺社
三解脱門から西へ、本堂が有ります



増上寺の背後には東京タワーが迫ります

本堂は大殿と呼ばれています
    大殿
   昭和四十九年(1974)浄土衆開祖八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。
   「大殿」と称し、間口二十六間余(約48m)奥行二十五間余(約45m)高さ七丈半余(約23m)総面積は
  10、535平方メーターという大きさの大本堂です。
   石段をのぼり切った二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地階に三縁ホールなどを備えています。
   本堂には、本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇段に高祖善道大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される
  方々の厚い信仰をあつめています。

本堂前左手に、幼少の法然上人像が有ります

本堂脇を通って、階段を登ると


圓光大師堂が有ります
   圓光大師堂
   この御堂は平成二十三年(2011)宗祖法然上人八百年御忌を記念し、知恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と
  当山法主第八十七世成田有恒台下との尊い由縁が実を結び、時の執事長江口定信上人が実務を担当、続いて楠美執
  事長が後を龒ぎ、平成十八年十一月二十五日知恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。成田台下は直ち
  に「御身柄(おみがら)」と命名、この縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成二十一年九月に竣工しました
  。
   圓光大師堂の概要は木造平屋建、妻入入母屋造本瓦葺、向背軒唐破風付、間口四間(約8m)奥行は裏堂を含み
  八間(約13.5m)高さ9.5mの御堂です。


直ぐ北側には、大納骨堂が有ります
   大納骨堂は昭和八年(1933)に建立されました。御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像である。
   戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和五十五年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修されました。
   堂内には有縁無縁のご本骨、ご分骨が納められ、狛犬に守られてお祀りされています。

更に墓地北側に菩薩様がいらっしゃいます

四菩薩像です、普賢・地蔵・虚空蔵・文殊の菩薩です

港区の文化財に成っています


   徳川将軍家墓所
   戦前、徳川家霊廟は御魂屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。
   墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、
  いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
   その後昭和二十年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
   正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前
  「中門」であったものを移築しました。
   中央の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍、下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東
  照宮と並び評され往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。
   墓所には二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍の
  ほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)静院宮(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室、桂
  昌院(三代家光公の側室、五代綱吉公の実母)はじめ五人の側室、及び三代将軍家光公代三子甲府宰相綱重公
  歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
 

港区文化財です

では、次へ行きましょう
   
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芝増上寺、三解脱門(国指定重要文化財)です!!

2015-03-08 06:42:25 | 文化財・寺社
芝増上寺へ行きます、浜松町駅北口から西へ

大門を越えると


三解脱門が見えてきます



浄土宗大本山増上寺です

重要文化財案内です

  三縁山 広度院 増上寺
   浄土宗七大本山の一つ
  三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式な呼称です。
  開山は明徳四年(1393)、浄土宗第八祖、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)聖人によって、江戸貝塚(現在の
 千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470)には勅願所に任ぜられ
 るなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
  江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)聖人、後の「観智国師」が、徳川家康公から深
 く帰依を受け、手厚い保護を受けました。
  慶長三年(1589)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八壇林の筆頭として隆興し
 浄土宗の統制機関となりました。
  その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学
 する大寺院でした。
  現在でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など
 多数の重要文化財を所蔵しています。

  三解脱門
  慶長十六年(1611)に、徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元
 和八年(1622)に再建されました。
  この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影をお残す建造物で、重要文化財に指定されています。
  三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚
 知(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。
  建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさ
 を見せています。
  




正面の柱



飾りでしょうか

境内側から見ます

大きな末の木が有ります

境内案内板です




鐘楼です


   鐘楼堂
   慶長十年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。
   納められている梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。
   徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され
  七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本で最大級として知られています。
   その大きさ、高さ一丈(約3m)重さ四千貫(約15t)の大鐘です。
   その鐘の音は、時を告げるだけでなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。
   江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か、上野(寛永寺)か、浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは
  聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。


港区の文化財に指定されています


   水盤舎
   この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・
  昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。
   徳川家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。

では、本堂を回って、霊廟へ行きましょう
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上野東照宮と五十塔です!!

2015-03-06 09:28:47 | 文化財・寺社
上野東照宮です、上野動物園の直ぐ南側です

五重塔は上野動物園の敷地内に建っているので、ご注意ください


東照宮入口の大石鳥居です


厩橋(群馬県、前橋城)城主従四位下酒井雅楽頭源朝臣忠知の寄進です

東照宮案内板です

鳥居の南側にある「お化け灯籠」です

説明版です
   お化け灯籠
                    台東区上野公園四番
   佐久間大善亮勝之が東照宮に寄進した石造りの灯籠で
      奉寄進佐久間大善亮平朝臣勝之
      東照大権現御宝前石灯籠
         寛永八年辛未孟冬十匕日
   と、刻字し、寄進者、寄進年月日を知ることが出来る。寛永八年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく
  社頭には、現在の大鳥居、銅灯籠、石灯籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他に先駆けて、
  この灯籠を寄進したのである。
   勝之は織田信長の武将佐久間盛次の四男、母は猛将柴田勝家の姉という。信長、北条氏政、豊臣秀吉、のち徳川
  家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
   灯籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.63メートルと巨大で、その大きさゆえ「お化け灯籠
  」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。
        平成八年匕月                 台東区教育委員会

参道へ戻ります


重要文化財の説明版です
    上野東照宮(国指定重要文化財)
                                台東区上野公園九番
   藤堂高虎(1556~1630)は、上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った、
  これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(1637)宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは、
  「東照社」と称していたが、正保二年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶように
  なった。
   現在の社殿は、慶安四年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ
  当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内
  でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
   唐門、透塀は、社殿とともに構造様式が優れており貴重であることから、参道入り口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ
  銅灯籠四十八基とあわせて国の重要文化財に指定されている。
      平成二十一年三月                  台東区教育委員会




重要文化財の案内板です

参道わきに、石灯籠、銅灯籠が並びます

銅灯籠です

手水舎です

唐門です

唐門の説明版です
   唐門(からもん)
  1651年造営、国指定重要文化財
  正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。
  左甚五郎作の昇り龍、降り龍の彫刻や、扉には唐草格子、扉の上には亀甲花菱、正面上部に錦鶏鳥の透かし彫り、
  など非常に精巧を極めたものである。                      昭和25年重要文化財指定

五重塔はフェンスの向こう側です





では、次へ行きます
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上野寛永寺厳有院殿霊廟勅願門です!!

2015-03-05 09:40:53 | 文化財・寺社
寛永寺厳有院殿霊廟勅願門は、国立博物館の北側寛永寺墓所の南端に有ります

黒門から西側の国立博物館の東側道路を北へ、タクシーがたくさん並んでいる道路を西へ進むと





勅願門が見えてきます

国の重要文化財です

説明版です

水盤舎は何処でしょうか



西の寛永寺本堂との間に、立派な門がみえます、天璋院篤姫墓所ですが、近づけなかったので望遠でとりましたので内容確認できません







では、次へ行きましょう
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上野寛永寺、黒門です!!

2015-03-02 05:03:58 | 文化財・寺社
東京都内には、国の重要文化財で近世以前の建物が少ないのは

戊辰戦争や太平洋戦争による戦火と都市開発によるところが大きいのかもしれません

都内に行くのは、電車が便利です

上野駅公園口から北へ進むと、化学博物館の北側に

東叡山輪王寺の入口黒門、旧本坊表門です

門跡の石碑です

重要文化財表示版です

黒漆でしょうか、菊の釘隠しとの対比がきれいです

黒門の西側には、厄除け両大師が有ります

説明版です

厄除け角大師の縁起です

本堂です

大師堂です

鐘楼です

手水舎です

井戸跡です


御車返しの桜です、一重と八重が一緒の木に咲くようです


紅梅が見ごろでした

では、次へ行きます
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今日から3月!!

2015-03-01 19:02:34 | Weblog
今日から3月ですが、外は

それも暴風雨状態です

三寒四温と言いますが

大雨状態の三月の始まりです

2014年度しめくくりの月だったり

東京大空襲から71年

東日本だ相震災から四年

等々いろいろ思いめぐらせて~

・ 




明日も頑張りましょう
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