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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県太田市、清泉寺・悪源太義平の墓です!!

2015-05-16 07:23:58 | 文化財・寺社
群馬県太田市世良田には、徳川家・新田義貞関連の文化財がたくさんありますが

そんな中に、源頼朝の兄の墓があります

太田市役所の西南西約10kmです(元の尾島町)

国道354号線の世良田信号北西側へ入った所にある清泉寺です

入口の案内板です

山門へいきます

山門ですが、山名が消えてしまっています

門前に石仏です


清泉寺説明版です
     清泉寺      所在地  太田市世良田町1490番地
       義平山清泉寺は、東京湯島霊雲寺に属し真言律宗の祈祷寺であった。創立はつまびらかでないが、平安末期
      に悪源太義平の妻がここに庵を結んだのがこの寺の期限だといわれている。時を経て江戸時代に保年中(1
      741~1744)高健教岳により中興された。
       悪源太義平は義朝の長男で鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄である。十五歳の時叔父義賢(木曽義仲の父)を、
      武蔵大蔵館(現嵐山町)に討ち悪源太といわれた。ここで悪とは善悪の悪ではなく勇猛という意味である。
       平治の乱には父義朝と共に平清盛と戦い、待賢門の戦いでは平家の嫡子重盛と一騎打をしたことで有名であ
      る。
       戦局は源氏に利非ず父義朝は討たれた。義平は京に潜入し清盛父子の命をねらったが捕らえられ六条河原で
      斬首された(二十歳)。義平の妻は新田義重の娘であったが、夫の死を知り京に上ってその首を秘かに持ち帰
      りこの地に埋葬し、剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔ったという。当時の山号を義平山というのもそれゆえ    
      である。
       境内西側に義平と称する石塔があり次の銘文がある。
             悪源太義平公御廟
             永暦元 庚辰 年正月に廿五日
      永暦元年(1160)は義平の没年である。
       また傍らの宝篋印塔は梵字のみで銘文がなくその由来は全く不明であったが昭和五十五年経筒が発見されそ
      の中の経文の奥書により八代将軍吉宗の次子田安宗武が、娘誠姫と婚約者の伊達重村に寿福を祈願して霊雲寺
      四世法明に命じて宝暦五年(1755)建立させた。
            昭和五十七年三月                太田市教育委員会


モミジの向こう側に本堂です(祈願寺ということで痛みがめだちます)
 
悪源太義平の墓です

宝篋印塔です
      太田市指定重要文化財
        宝篋印塔  附 陀羅尼経及び経筒
          指定年月日  平成三年四月二十五日  所在地  太田市世良田町1490番地
        この宝篋印塔は、基壇上に基礎・塔身・笠・相輪を積上げ、塔身の中から経筒に入った写経が発見された。
        この写経は鳥の子紙を使用し、湯島霊雲寺の僧法明書写になる一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経と
       清泉寺の僧廓照書写になる梵字宝篋印陀羅尼経(いづれも宝暦五年に書写)で、二千四百一体の不動尊を刷っ
       た十一枚のがんぴ紙に包まれて納められていた。写経の奥書によって、徳川八代将軍吉宗の第二子で、田安家
       (徳川将軍家の一門である三卿の一つ)の創立者であり、国学者、歌人でもあった田安宗武が娘の誠姫とその
       婿(後に伊達七代藩主となった重村)の寿福を願って建立したことが判明した。現在、奉納物については、東
       毛歴史資料館に寄託してある。
              平成四年三月三十一日                 太田市教育委員会 

では、次へ行きましょう

大倉館については、2012年5月7日の木曽義仲縁の地ブログをご覧ください。
     
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栃木県足利市、稲岡観音と龍泉寺の大カヤです!!

2015-05-15 16:23:28 | 巨樹・大木
稲岡観音は、足利市役所の東約6km

毎年正月登山に御邪魔する大小山の東側登山口に当たりますが

距離が長いので歩かれていないようです

JR両毛線とみおか駅から北へ進み、佐野市との境の手前を左へ


栃木県指定重要文化財木造聖観音菩薩立像の石碑が目印です

立派な石橋が入口です

階段を上がると山門(仁王門)が有ります


仁王様です

考古資料金剛力士立像ですね

説明版です
    足利市重要文化財(彫刻)
     木造金剛力士立像 二軀
      阿形像・吽形像とも像高二メートル四十センチ  江戸時代
     ともに上半身裸形で、玉眼挿入、赤面塗彩で台上に立つ。阿形像は開口し左手に金剛忤をとり、吽形像は閉口し
     右手を開く。観音堂に至る階段にかかる山門の左側に阿形像、右側に吽形像がある。山門が天保五年(1834)
     の建造であることから同時期の作とみられる。保存もよい。
                    昭和五十七年三月十五日  指定   足利市教育委員会

更に、階段を上がります

観音堂です

正面扉です

標柱です

説明版が有ります
    足利市重要文化財(建造物)
     稲岡観音堂 一棟
      本堂は、稲岡町西根の通称観音山の中腹に東面して建つ。
      規模、形態は、桁行三間、梁間三間、正面向拝付き、屋根は入母屋造り、茅葺(現状はトタン張り)、壁は
     堅板張り。内部については天井が、花鳥画のある折上組入れ格天井、厨子は宮殿造り。様式的には、和様と禅
     宗様が混合した折衷様と見られるところがある。組物(斗や肘木)の背が低いこと、建物内部の状況、軸組の
     構成などは和様を呈し、組物が詰組であること、正面扉が桟唐戸であることなどは禅宗様を示している。
      文書や正面の額などから、建築年代は江戸時代前半と考えられる。
                    平成四年六月二十五日  指定    足利市教育委員会

階段を戻り、橋の手前を北側に入ると龍泉寺です

山門には真言宗豊山派狐峯山龍泉寺の額です

本堂です

山門と本堂の間、東側に大きなカヤの木が有ります



栃木名木百選に指定されています

標柱です

説明版です
    龍泉寺のカヤ
      稀にみる大木でるが、九十年程前にこの木の近くにあった堂宇が火災にあい、片側半分は焼けて枯死した。
     現在も幹に焼け跡があり、また、幹の大部分が欠損して内部は空洞になってある。
      樹齢は不明であるが土地の古老の話などから八百年位と考えられる。
      雌木でよく結実したが、現在は一年おきになったという。
                     昭和三十七年六月二十五日  指定  足利市教育委員会

では、次へ行きましょう

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群馬県館林市、ブンブク茶釜の茂林寺です!!

2015-05-14 21:07:09 | 巨樹・大木
茂林寺は、館林市役所の南南西約3kmのところ

東武伊勢崎線もりんじ駅の東にあります

茂林寺まえの東側と南側には大きな駐車場が有ります


茂林寺商店街を通って門です

門前に茂林寺の配置図が有ります


さすがに茂林寺の象徴”狸”・・”茶釜狸”がいますね~

山門です、写っていない下半分には大勢の観光客がいます


聖観音と説明版です


聖観音の直ぐ後ろに有るのが、大サワラです


太い幹です

幹回り4,9mで巨木ラインの5m目前です


大きな本堂です


本堂前には、大ヒイラギです

幹回り1,7mですが、樹齢は550年以上です



ラカンマキです、県指定天然記念物です

幹回り2,85mですが、こちらも樹齢550年以上です

では、次へ行きましょう
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埼玉県行田市、馬見塚神明社の欅です!!

2015-05-13 04:53:44 | 巨樹・大木
馬見塚の神明社は、行田市役所の北約4kmの農村風景の中に有ります


北側から南へはいると鳥居が有ります

社務所の南側に神明社の社殿が有ります、脇の御神木が大ケヤキです

主幹はなくなっています

東側から、注連縄が巻かれています

北側から

南側から、中身がなくなってしまっています

幹回り5.3mの大木ですが、今わ皮一枚で元気に葉を茂らせています

では、次へ行きましょう
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埼玉県行田市、本丸児童公園のC57機関車です!!

2015-05-12 07:17:34 | 機関車、列車車輌
行田市の水城公園の北側、市営プールの脇に蒸気機関車があります

C57型26号車です





説明版です








良く管理されています

では、次へいきます
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埼玉県行田市、忍城佐間口・天満社の大ケヤキです!!

2015-05-10 06:45:14 | 巨樹・大木
行田市内には、忍城のなごりが何か所かあります

水城公園の南東隅の天満社があります、ここが佐間口であったようです

県道66号線と県道77号線との交差点が「佐間」で直ぐ北西側です




神社に山門です

佐間天神社縁起です
    佐間神社縁起
     佐間神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊えお出口とし
    たと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した、今から500年前の事である。享
    保五年十二月(1720年)京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満神社」の神格を与えられた。その後、文化十年八月
    二十五日(1800年)本殿が再建された、本殿は行田市教育委員会の推定によると四百年とされている。
     佐間天神社には学問の神様、菅原道真公が祭神として祀られている。以前は慈眼山安養院が神護神であったが、その
    様子は今でも白山社。伊奈利社。厳島。明神・・・等の合祀社が多く両部神道の名残を留めている。神文は安政三年(
    1850年)の大火で類焼したがここで火が止まった為、火防の門と呼ばれていた。
     明治二十二年、佐間村、成田町、行田町が合併し忍町となり、妙音寺にあった温知学校を廃止し天神社社務所に佐間
    学校が開校した。正式には忍学校第三教場といわれた。」大正四年三月、行田尋常小学校第三校舎(現在の新町会館)
    が新築されるまでここに存在したのである。



鳥居と拝殿です


山門と鳥居の間に大きなケヤキが有ります

ケヤキ群についての説明版です
欅群
     天神社は、享保5年(1720)12月京都の吉田家より神位を与えられ、正一位天満天神と称するようになった、との
    記録がある行田市佐間地区の鎮守です。
     祭神は学問の神様として信仰されている菅原道真です。
     その天神社境内に9本の巨木が群生するこの欅群は、いずれも樹齢400年以上と推定される古木群です。樹高は高いもの
    で30m、目通り幹回りは再D歳のもので5.0mを計ります。
     落雷のため幹に空洞があるものもありますが、樹勢は旺盛で、枝張りもよく繁茂していて、神域の風致を保っています。
    また、秋には美しい黄葉がみられます。 
                平成23年                      行田市教育委員会


本殿東側の稲荷社の周りにも大きなケヤキが有ります

佐間口の設明版です
   佐間口
     天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めた際、忍城主成田氏長の家臣正木丹波守利英が”佐間口”の
    守りを固め、市東を繰り広げたと伝えられています。
     この天神社付近がその”佐間口”にあたり、定かではありませんが、正木丹波守の屋敷がこの付近にあったとする説
    もあります。
     天神社の道を挟んで東側にある臨済宗円覚寺派天真山高原寺は、”佐間口”の合戦の戦死者を弔うために正木丹波守
    が建立した寺院てあると伝えられており、正木丹波守の墓碑も山門脇に残されています。
     この”佐間口”の戦いなど忍城をめぐる攻防戦で、正木丹波守が奮戦したことが「成田記」、「忍城戦記」、「増補
    忍名所図会」などに記されていますが、これらが記されたのは合戦から100年以上も後で、その内容をそのまま史実であ
    ると考えることはできません。
     残念ながら”佐間口”でどのような戦いが繰り広げられたのか、不明ですが、この天神社境内周辺には、いにしえの
    ”佐間口”の攻防戦を感じ取れる雰囲気が残っている様に思われます。
                平成23年                       行田市教育委員会

正木丹波守利英ゆかりの地です

では、次へ行きましょう


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埼玉県東松山市、松山陣屋跡です!!

2015-05-09 04:09:18 | 城跡・館跡・陣屋跡
松山陣屋跡は、現在の東松山市役所の位置にありました

東松山市役所の建物の東側に石碑が有るだけですが

見て来ました

市役所西側の駐車場が利用できます





東側道路より、東松山市役所です

東松山市役所入口

入口の東側に石碑があります・「前橋藩 松山陣屋跡」です

説明版です
        松山陣屋跡
                東松山市指定史跡(昭和三十六年三月八日指定)
          幕末における東松山市行きの領地は、藩領・旗本領・幕府直轄領として領有され、椎木の約半分の
         領地が川越藩主松平大和守家直克に管理されておりました。
          松平大和守家は、寛延二年(1749)の国替えにより、姫路から前橋藩となりましたが、度重な
         る利根川の氾濫による前橋城の損壊により、明和四年(1767)松平朝紀のとき川越藩に移転しま
         した。
          川越藩への移転から100年後の慶応三年(1867)、藩主松平直克のとき、四年の歳月をかけ
         て再建した前橋城に帰城することとなり、武蔵国比企郡を中心に前橋藩の飛び地として、約六万二千
         石余の領地が残ったため、これらの領地を治める必要から、慶応三年(1867)「松山陣屋」が置
         かれました。現在の松葉町一丁目のほぼ全域に渡る大規模なもので、幕末の動乱期を背景として主要
         施設は、堀と土塁に囲まれた堅牢な構えとなっています。
          陣屋は、大政奉還後の明治四年(1871)の廃藩置県により、建設からわずか四年でその役割を
         終えることになりますが、当地方発展の礎となりました。
          藩領はその後、前橋藩・前橋県・群馬県・入間県・熊谷県・を経て明治九年(1876)現在の埼
         玉県に編入されることになります。
                          平成二十五年六月    東松山市教育委員会



市役所入口の欅の木です

東松山市の名木のプレートが掛けられています


では、次へ行きましょう


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埼玉県東松山市、八幡神社に大ケヤキ(市指定天然記念物)です!!

2015-05-08 03:32:00 | 巨樹・大木
八幡神社は、東松山市役所の南南東約5km

国道407号線が越辺川を渡る高坂橋の北側2つ目の信号を東へ向かうと

左手の丘の上、河岸段丘上に有ります

階段の上に鳥居です

手水舎です

拝殿右手に天満神社と日枝神社です

拝殿です

本殿です

拝殿左手には稲荷神社です

獅子舞の説明版です
      宮鼻の獅子舞          昭和五十五年一月十日
                      市指定無形民俗文化財
        宮鼻の獅子舞は、四月一日(現在は四月の第一日曜)の春祈祷に、鎮守八幡神社に奉納されます。
       引き続き、悪病よけに内を行列して歩く「廻り獅子」が行われます。
        行列は、猿太彦之命(宮鼻では「おクニさん」と呼んでいる)が道案内役として、先頭に立ち、
       笛太鼓がそのあとに続きます、十月十七日(現在は十一月三日)の秋の大祭は風雨柔順・五穀成就
       氏子快楽を祈願するもので、八幡神社で獅子舞を奉納したあと香林寺でも獅子舞が奉納されます。
       このときには、万灯が行列の先頭に立ちます。
        この獅子舞は、昔、風水害にばかり合い、村人たちが悲惨な毎日を送っていたので、獅子舞を神
       社に奉納することになったのが始まりと言われています。
        宮鼻の獅子舞は、一人立ちの三匹獅子舞で、女獅子・中獅子・宝丸獅子・簓子(ささら)・笛吹
       き(笛方)・歌うたい(歌方)・ぐんばい(囃子)・万灯持ち(花車持)・世話役(世話掛)で構
       成されています。その他の役人として、竹の三尺棒(昔は刀をさしていた)を持った七人の警固が
       います。
        獅子頭は、現在六基ありますが、そのうちの三基は、創始当時の木彫りの重箱獅子で、約百八十
       年前の文化二年(江戸末期)のものと伝えられています。        昭和六十二年三月
                                    東松山市教育委員会

南側からの大ケヤキです

東側から

北側の稲荷神社前から

西側の道路から

目通り5,5メートルです

天然記念物標柱です

説明版です 
      市指定文化財 天然記念物
        八幡神社の大ケヤキ(昭和三十七年三月二六日指定)
       県の木として親しまれてきたケヤキ(昭和五年「県の木」に選定)は、ニレ科の落葉高木で、本州・四国
      九州に広く分布しています。
       ケヤキとは、「けやけき木」で、「際立って他の木より目立つ木」の意味があり、空を突く美しい堂々と
      した樹形や巨大な幹は遠くからもその優雅な姿から他の樹木と見分けることが出来ます。
       県内では東部低地から秩父山地にかけて分布し、台地から低地に移る傾斜地や山間の肥沃地に生育します
      越辺川沿いの低地に接する高坂大地南部の傾斜地には今でもケヤキだけでなく、ムク、エノキなどの同じ二
      レ科の大木が多く見られ、昔から川岸の斜面林として発達してきました。
       またケヤキは農具や家具の建築材として優れていることから、江戸幕府が、農民に植栽することを推し進
      めてきたことなども、農家の屋敷林や寺社林として多く見られる所以となっています。
       ここ宮鼻の八幡神社にあるケヤキは根回り8.0mほどもあることから、樹齢は約七百年以上と推定され
      ています。 
       八幡神社の御神木として奉られてきたケヤキの大木は、古くから地域の人の心の拠り所として、農作業の
      合間の涼を取る憩いの場所として親しまれて来ました。長い年月の間に幾多の台風などにより、主幹部は空
      洞化していますが、根元の太さはその長い歴史を物語っています。
        文化材を大切にしましょう     平成十九年三月   東松山市教育委員会     
       

境内には大きな切株が残っていました

では、次へ行きましょう
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埼玉県朝霞市、りっくんランド(陸上自衛隊広報センター)です!!

2015-05-06 17:26:07 | Weblog
朝霞市の国道254号線沿いにある


久しぶりで、りっくんランドへ寄ってみました

仕事の途中などで、トイレを借りに依ったりしていますが

展示内容が変わっていたので、紹介しましょう


陸上自衛隊広報センターです

入口のモニュメント的(ライトアーマー)

軽装甲機動車です

展示場に行きます

新しく展示に加わったのは
.

遠隔操縦観測システム(無人機)のヘリコプターです

最新型10(ひとまる)式戦車です

正面


斜め後です


以前から有った展示車です

ちなみに、戦車など



74式戦車です


75式自走155mmりゅう弾砲です


74式自走105mmりゅう弾砲です

室内展示場には・・・


90式戦車と

戦闘ヘリ

他にも、色々ありますので、一度ご覧になることをお勧めします

平日はすいていますので、のんびりできますよ

では、次へ行きましょう


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埼玉県上尾市、八枝神社ケヤキ群(市指定天然記念物)です!!

2015-05-05 07:18:45 | 巨樹・大木
上尾市役所の南西約4km

県道56号線が荒川を渡る開平橋の北側にあります

駐車場は、社殿の南側にあります

北向きに鳥居が有ります

八柱神社です

説明版です
    八柱神社                    上尾市平方488
        祭神・・・すさのうのみこと・はっくだいじん
      上尾市の平方は、荒川の舟運における主要な河岸の一つである平方河岸があった所としてしられている。
     当社は、この河岸の近くに鎮座している。
      当社の創建について、「明細帳」は、「元禄年中(1688~1704)の創立にして正徳元卯年(17
     11)六月十五日再建其他不詳」と記している。しかし、明治時代に廃寺となった正覚寺に所蔵されていた
     元禄七年(1694)の「平方村寺社地御改之覚」(福田家文書)に、当社の社地が古くから除地とされて
     いた旨が記されているため、ささやかな祠や仮宮などの形で、それ以前から何らかの祭祀が行われていた可
     能性が考えられる。
      江戸時代までは「牛頭天王社」として祀られ、江戸時代後期には御獅子を奉斎し、悪疫退散の守護神・疫
     病除けの神として地元の上尾地区を始め、足立郡内、比企、入間、南埼玉の県内各郡、現東京都の西北部、
     旧多摩地方に信仰が広まり、村々では「平心講」という信徒組織が結成され、一時は講員数三万余人に達し
     たと言われている。
      明治初年、京都の「八坂神社」の御祭神と同じ牛頭天王をお祀りしていることから、八坂神社の枝社とし
     て「八枝神社」と改称している。
      祭神は「すさのうのみこと」並びに「狛狗大神」で、一般には「平方のおししさま」として親しまれ、各
     地への渡御(御獅子の巡回)は年間を通して行われてきた。こ獅子頭は一説には左甚五郎の作とも伝えられ
     るが、その確証はない。
     境内にある大樹は、創建当時からあるものと伝えられ、樹齢500年から600年以上と推定される古木で
     上尾市指定天然記念物として大切にされている。
      また、毎年7月の夏祭り(祇園祭)には、水と泥(土)と人とが一体となる奇祭、「どろいんきょ祭り」
     が、各地より沢山の見物客を集めて盛大に執り行われ、埼玉県指定無形民俗文化財に指定されている。
      境内社に「疫神社」「八幡社」を祀る。

平方どろいんきょの説明版です  


拝殿です

本殿は覆い屋の中です

神楽殿です

拝殿正面に二本の欅を西から

北側から


南側の社務所脇の一本



拝殿北側のは四本


本殿南側に一本

説明版です
    上尾市指定天然記念物  八枝神社の境内ケヤキ・エノキ群
                      上尾市大字平方488番地
                      昭和56年3月31日指定
      八枝神社は、もと牛頭天王社と言い、元禄七年(1694)の「平方村社寺御改覚」の中に社名があるので、
     それ以前の起原をもつことは明らかである。明治初年に八枝神社と称するに至ったが、その名は八坂神社(京都)
     の枝社の意であるといわれる。
      当社は狛狗大神とも呼ばれ、古くから、おシシ様で名を知られ、今日でも広く講社を有している。
      境内には、ケヤキやエノキが群生していて社苑に美しさを加えている。
      社殿の北側に四本、南側に一本、社殿と神楽殿の中ほどに二本あり、いずれも大木である。高さは一部を除き
     20メートルを越え、四方に枝を伸ばして境内の空を覆っている。幹回りは平均して3,5メートルに及び、森
     厳さを引きたてている。樹齢は推定であるが、四百年から五百年と見られる。これだけの群生は、市内でもめず
     らしいものといえよう。
            昭和五十八年九月三十日                 上尾市教育委員会

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埼玉県北本市、多聞寺のムクロジ(県指定 天然記念物)です!!

2015-05-04 05:53:52 | 巨樹・大木
多聞寺は、JR高崎線きたもと駅の東口を出て

中山道を南へ直ぐ東側にあります

駅から300m程です


真言宗智山派 多聞寺 山門です

鐘楼です

六地蔵様です

本堂の前に有るのが「ムクロジ」です

東側から、現在は、樹高約12mまでにおれてしまっています

「天然記念物多聞寺ノ無患子」の石碑です

天然記念物
  多聞寺の無患子樹(むくろじ)
    幹 回    3.6メートル
    根 回    7,6メートル
    樹の高    27メートル
    枝 張    14,5メートル
    樹 齢    約二百年
   昭和十六年二月二十一日 県指定 保存会

本堂です

真言宗中興の祖 興教大師像です

宝篋印塔です

多聞寺の北側には「天神社」があります

鳥居です

拝殿です


北本市指定の保存樹が有ります

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埼玉県桶川市、多気比売神社の大シイです!!

2015-05-03 05:53:50 | 巨樹・大木
多気比売神社は、桶川市役所の北北東約3km

県道12号線の加納橋を赤堀川沿いに西へ入ると


右手に、こんもりとした木々が見えてきます


延喜式内 多氣比賣神社です

鳥居です

説明版です
     多気比売神社御由緒
                桶川市篠津58
      御縁起(歴史)
       「延喜式」神名帳に載る足立郡四座のうちの一座「多気比売神社」に比定される当社は、篠津の集落の南に、
      赤堀川を挟んで対岸は一面の水田となっているが、かつては「篠津沼」という大きな沼があった。篠津とは篠の
      生い茂った中の船着き場に由来するといい、祭神である豊葦建(竹)姫命を考え合わせるに、恐らくは篠や葦・
      竹の茂った付近一帯を領く女神を祀ったものであろう。
       「風土記稿」篠津村の項に「姫宮社 当社は[延喜式]内多気比売神社にて、祭神は豊葦建姫命なり、神体は女
      体にして十二単衣冠の坐像(中略)金剛寺の持」と載ていたことがわかる。しかし、吉田東伍氏は「大日本地名
      辞書」の中でこれを否定し、さいたま市緑区三室の氷川女体神社を本来の多気比売神社であるとしている。
       別当の金剛寺は、真言宗の寺院で、社蔵の文化五年(1808)の「姫宮大明神」再建棟札にも「別当金剛寺
      専教」の名が見える。
       明治初年、当社は社名を姫宮社から多気比売神社に改め、明治六年に村社となった、同四十年大字五丁台字上
      耕地の稲荷社を合祀した。
       祀職は、明治初年の神仏分離により金剛地の僧が姓を金田と名乗って復飾し神職となり、当社の東隣に居住し
      て昭和二十年ごろまで務めたが、その後、加納の桜井家が継いで、現在に至っている。
           御祭神と御神徳
            豊葦建姫命・・・安産、子宝
           末社
            天神社・稲荷社・三峯社
           祭日
            祈年祭(二月十一日)・例大祭(三月十五日)・ふせぎ(四月一日)・新嘗祭(十一月二十三日)

手水舎です

拝殿です

本殿です


本殿西側や

拝殿前には注連縄が掛けられた木もあります


根本から二つに分かれた大シイです

東側から


大シイの直ぐ北側の古木です  

大シイの説明版です
     多気比売神社と大シイ
             桶川市指定文化財[多気比売神社の大シイ] 種別:記念物(天然記念物) 昭和36年4月1日指定
       篠津の多気比売神社は、平安時代に編さんされた、「延喜式」(延長5年[1927]完成)の{神名帳)に名が
      載る足立四座の一つで、桶川市内で最古の神社です、祭神は「豊葦建姫命」です、地元であは、「ひめみやさま」
      と親しまれ、古くから安産の神様として多くの信仰を集めて来ました。
       鳥居の脇のそびえる大シイは、高さ13メートル、根回り6,7メートル、枝張り南北17メートル、東西14
      メートル、樹齢は約600年と推定されている古木に風格が漂うご神木です。5月末頃には黄色い房状の花が咲き、
      9月にはドングリに似た小さなシイの実が熟します。
       鎮守の森の象徴ともいえるこの大シイは、境内の他の樹木とともに、篠津地区の人々の信仰と親愛の情によって、
      大切に守られてきました。歳末には氏子たちによって境内地の古木に張る太い注連縄が作られ、前年の縄とは張り
      替える習わしが続け」られています。
                               平成27年3月       桶川市教育委員会

根元には、二つの丸い「力石」があります

直ぐ東側では、圏央道が新幹線を越える橋梁の工事が大詰めを迎えていました

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埼玉県桶川市、明星院 倉田の大榧です!!

2015-05-01 14:54:34 | 巨樹・大木
倉田の大榧は、桶川市役所の東約2km

県道311号線沿いにある、明星院の本堂裏に有ります

明星院の駐車場が利用できます



真言宗智山派 五大山 明星院です

説明版です
     明星院
      明星院は、「五大山 興願寺」と号し、新義真言宗智山派の由緒ある寺である。寺伝によれば、室町
     時代初期に隆尊上人(1378没)によって開山されたというが、江戸時代までの沿革については不明
     な点が多い。ところが天正十八年(1590)に徳川家康が関東に入国すると、明星院は翌天正十九年
     には寺領十石を拝領し、その寄進状は現在も残されている。そして、この宗派の関東触頭職となり、さ
     らに関東十一か談林(関東における十一の学問寺)の一つとして高い格式を誇ったにである。
      この寺には、「明星院文書」として、戦国時代から江戸時代の太田氏、北条氏、伊奈氏、徳川氏にか
     かわる貴重な古文書保管されている。その中でも、慶応十八年(1613)に徳川家康から明星院に下
     された「新義真言宗諸法度」は宗派唯一のものである。このほかにも金蒔絵の行厨器(旅行のときに持
     ち歩いた弁当箱)、金屏風などの家康から下賜された品が伝えられている。
      本堂裏の竹林のなかには、県指定天然記念物である「大カヤ」の巨木がそびえ立ち、同じく林の中ほど
     どには「明星の井戸」があり、明星院という名はこの井戸に由来する。
           昭和六十二年三月                  桶川市教育委員会
       





天然記念物倉田の大榧の石碑です

山門を入ると仁王門です

一級水準点が山門の陰にあります

鐘楼です

手水舎です

弘法大師像です

本堂です

本堂前に大榧の説明版が有ります
      埼玉県指定文化財 倉田の大カヤ
        種別:記念物(天然記念物)昭和33年3月20日指定
       真言宗智山派の名刹、明星院の本堂裏手にたたずむ倉田の大カヤは、 高さ31,4m、幹回り
      5,7m、根回り9、4mで樹齢は約600年と推定されています、幹は地上4,7mのところで
      三つに分かれてそびえ立っています。
       寺の言い伝えによれば、開山の祖である隆尊上人が修行のおりに枝を地にさし、それがね根づい
      て育ったものといわれています。      
       カヤはイチイ科カヤ属の常緑針葉樹で、本州北部から、四国、九州、屋久島まで自生します、樹
      皮は灰白色、葉は濃い緑色で線形の革質(革のように硬いこと)、先端は細く鋭くなります。雌雄
      異株で、4月ごろに花が咲き、雌木には10月ころ長い楕円の実がつきます、この実の胚乳は食用
      となるほか、良質の油がとれます、また、独特の臭気があり、虫よけの効果を持ちます。
          平成27年3月            桶川市教育委員会



本堂への渡り廊下の向こうです




大榧は本堂の裏側にあります

庫裏に声をかけてから、拝見しました


南側から、すっきりと立っています


西側からです

北側の根元です

おまけです

住職さんのお話から



 
大カヤの北側に、背の高い「柿」の木が二本あります、「甘がき」だそうです

住職さんの話は、「日本一背の高い柿の木ではないか」と

しかし、一本が庫裏の屋根に懸かっているので、今年切ってしまうそうです


足元にはシャガの花が見ごろです

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