群馬県太田市世良田には、徳川家・新田義貞関連の文化財がたくさんありますが
そんな中に、源頼朝の兄の墓があります
太田市役所の西南西約10kmです(元の尾島町)
国道354号線の世良田信号北西側へ入った所にある清泉寺です
入口の案内板です
山門へいきます
山門ですが、山名が消えてしまっています
門前に石仏です
清泉寺説明版です
清泉寺 所在地 太田市世良田町1490番地
義平山清泉寺は、東京湯島霊雲寺に属し真言律宗の祈祷寺であった。創立はつまびらかでないが、平安末期
に悪源太義平の妻がここに庵を結んだのがこの寺の期限だといわれている。時を経て江戸時代に保年中(1
741~1744)高健教岳により中興された。
悪源太義平は義朝の長男で鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄である。十五歳の時叔父義賢(木曽義仲の父)を、
武蔵大蔵館(現嵐山町)に討ち悪源太といわれた。ここで悪とは善悪の悪ではなく勇猛という意味である。
平治の乱には父義朝と共に平清盛と戦い、待賢門の戦いでは平家の嫡子重盛と一騎打をしたことで有名であ
る。
戦局は源氏に利非ず父義朝は討たれた。義平は京に潜入し清盛父子の命をねらったが捕らえられ六条河原で
斬首された(二十歳)。義平の妻は新田義重の娘であったが、夫の死を知り京に上ってその首を秘かに持ち帰
りこの地に埋葬し、剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔ったという。当時の山号を義平山というのもそれゆえ
である。
境内西側に義平と称する石塔があり次の銘文がある。
悪源太義平公御廟
永暦元 庚辰 年正月に廿五日
永暦元年(1160)は義平の没年である。
また傍らの宝篋印塔は梵字のみで銘文がなくその由来は全く不明であったが昭和五十五年経筒が発見されそ
の中の経文の奥書により八代将軍吉宗の次子田安宗武が、娘誠姫と婚約者の伊達重村に寿福を祈願して霊雲寺
四世法明に命じて宝暦五年(1755)建立させた。
昭和五十七年三月 太田市教育委員会
モミジの向こう側に本堂です(祈願寺ということで痛みがめだちます)
悪源太義平の墓です
宝篋印塔です
太田市指定重要文化財
宝篋印塔 附 陀羅尼経及び経筒
指定年月日 平成三年四月二十五日 所在地 太田市世良田町1490番地
この宝篋印塔は、基壇上に基礎・塔身・笠・相輪を積上げ、塔身の中から経筒に入った写経が発見された。
この写経は鳥の子紙を使用し、湯島霊雲寺の僧法明書写になる一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経と
清泉寺の僧廓照書写になる梵字宝篋印陀羅尼経(いづれも宝暦五年に書写)で、二千四百一体の不動尊を刷っ
た十一枚のがんぴ紙に包まれて納められていた。写経の奥書によって、徳川八代将軍吉宗の第二子で、田安家
(徳川将軍家の一門である三卿の一つ)の創立者であり、国学者、歌人でもあった田安宗武が娘の誠姫とその
婿(後に伊達七代藩主となった重村)の寿福を願って建立したことが判明した。現在、奉納物については、東
毛歴史資料館に寄託してある。
平成四年三月三十一日 太田市教育委員会
では、次へ行きましょう
大倉館については、2012年5月7日の木曽義仲縁の地ブログをご覧ください。
そんな中に、源頼朝の兄の墓があります
太田市役所の西南西約10kmです(元の尾島町)
国道354号線の世良田信号北西側へ入った所にある清泉寺です
入口の案内板です
山門へいきます
山門ですが、山名が消えてしまっています
門前に石仏です
清泉寺説明版です
清泉寺 所在地 太田市世良田町1490番地
義平山清泉寺は、東京湯島霊雲寺に属し真言律宗の祈祷寺であった。創立はつまびらかでないが、平安末期
に悪源太義平の妻がここに庵を結んだのがこの寺の期限だといわれている。時を経て江戸時代に保年中(1
741~1744)高健教岳により中興された。
悪源太義平は義朝の長男で鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄である。十五歳の時叔父義賢(木曽義仲の父)を、
武蔵大蔵館(現嵐山町)に討ち悪源太といわれた。ここで悪とは善悪の悪ではなく勇猛という意味である。
平治の乱には父義朝と共に平清盛と戦い、待賢門の戦いでは平家の嫡子重盛と一騎打をしたことで有名であ
る。
戦局は源氏に利非ず父義朝は討たれた。義平は京に潜入し清盛父子の命をねらったが捕らえられ六条河原で
斬首された(二十歳)。義平の妻は新田義重の娘であったが、夫の死を知り京に上ってその首を秘かに持ち帰
りこの地に埋葬し、剃髪して妙満尼と称し夫の菩提を弔ったという。当時の山号を義平山というのもそれゆえ
である。
境内西側に義平と称する石塔があり次の銘文がある。
悪源太義平公御廟
永暦元 庚辰 年正月に廿五日
永暦元年(1160)は義平の没年である。
また傍らの宝篋印塔は梵字のみで銘文がなくその由来は全く不明であったが昭和五十五年経筒が発見されそ
の中の経文の奥書により八代将軍吉宗の次子田安宗武が、娘誠姫と婚約者の伊達重村に寿福を祈願して霊雲寺
四世法明に命じて宝暦五年(1755)建立させた。
昭和五十七年三月 太田市教育委員会
モミジの向こう側に本堂です(祈願寺ということで痛みがめだちます)
悪源太義平の墓です
宝篋印塔です
太田市指定重要文化財
宝篋印塔 附 陀羅尼経及び経筒
指定年月日 平成三年四月二十五日 所在地 太田市世良田町1490番地
この宝篋印塔は、基壇上に基礎・塔身・笠・相輪を積上げ、塔身の中から経筒に入った写経が発見された。
この写経は鳥の子紙を使用し、湯島霊雲寺の僧法明書写になる一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経と
清泉寺の僧廓照書写になる梵字宝篋印陀羅尼経(いづれも宝暦五年に書写)で、二千四百一体の不動尊を刷っ
た十一枚のがんぴ紙に包まれて納められていた。写経の奥書によって、徳川八代将軍吉宗の第二子で、田安家
(徳川将軍家の一門である三卿の一つ)の創立者であり、国学者、歌人でもあった田安宗武が娘の誠姫とその
婿(後に伊達七代藩主となった重村)の寿福を願って建立したことが判明した。現在、奉納物については、東
毛歴史資料館に寄託してある。
平成四年三月三十一日 太田市教育委員会
では、次へ行きましょう
大倉館については、2012年5月7日の木曽義仲縁の地ブログをご覧ください。