2025年1月10日、お参りしました。
説明書より「本尊の開基は823(弘仁14)年弘法大師が嵯峨天皇の篤い帰依をうけて都南に東寺を賜った時、東寺より見て鬼門(東北)にあたる地に一体の不動明王像を祀ったことを始まりとしている。この不動尊像は空海はこの土地にて一基の霊石を発見し、その石に不動明王を彫刻し石棺に納めて井底深くに安置したという。本尊は霊石不動と称する不動明王像で、地中深くに封じられているため、現在は御前立の不動明王立像を拝むこととなっている。899(寛平11)年宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇が法皇となられたとき、この地をふくめて京都西、洞院に東西に二町南北に四町という宏大壮麗なる東七条御所(または亭子院)をいとなまれました。その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあるのを知り、人に命じて取り出そうとしたところ、霊力のためか井戸の石をみるもの悉く眼を痛み恐れをなして終に果たせなかったといいます。そこで法皇はち勅して井戸を封じ以降何人もうかがうことを許さぬと大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。下って、室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが、井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの予になって再び堂宇の造建をみました。その後、江戸時代に入って、1764(明和元)年11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。建立当初、本寺は宇多天皇が仁和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場として1782(天明2)年までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。」
京都府京都市下京区油小路塩小路下る南不動堂町7
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説明書より「本尊の開基は823(弘仁14)年弘法大師が嵯峨天皇の篤い帰依をうけて都南に東寺を賜った時、東寺より見て鬼門(東北)にあたる地に一体の不動明王像を祀ったことを始まりとしている。この不動尊像は空海はこの土地にて一基の霊石を発見し、その石に不動明王を彫刻し石棺に納めて井底深くに安置したという。本尊は霊石不動と称する不動明王像で、地中深くに封じられているため、現在は御前立の不動明王立像を拝むこととなっている。899(寛平11)年宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇が法皇となられたとき、この地をふくめて京都西、洞院に東西に二町南北に四町という宏大壮麗なる東七条御所(または亭子院)をいとなまれました。その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあるのを知り、人に命じて取り出そうとしたところ、霊力のためか井戸の石をみるもの悉く眼を痛み恐れをなして終に果たせなかったといいます。そこで法皇はち勅して井戸を封じ以降何人もうかがうことを許さぬと大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。下って、室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが、井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの予になって再び堂宇の造建をみました。その後、江戸時代に入って、1764(明和元)年11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。建立当初、本寺は宇多天皇が仁和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場として1782(天明2)年までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。」
京都府京都市下京区油小路塩小路下る南不動堂町7
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