旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

海泉禅寺・新黒稲荷神社

2022-01-07 16:14:29 | 神戸市長田区
2022年1月6日、お参りしました。
「寺伝では、1288(正応元)年漸岸覚俊禅師が駒ヶ林で暴風雨にあい、大樹に身を寄せ一心に観音経を念誦すると大樹の頂に龍灯が輝き、その導きで無事宝満寺に帰ることができた。その奇端に感じ、1289(正応2)年圓明国師を開山に創建された。」
神戸市長田区駒ケ林町3-10-1
map
山門















南門

庫裏



玄関





本堂







唐門





新黒稲荷神社、西向かいの海泉寺の鎮守のようですね。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒竹稲荷神社

2022-01-07 15:39:58 | 神戸市長田区
2022年1月6日、お参りしました。
「創建年月は不祥、地元では江戸後期の文化・文政時代(1804~)と伝えられている。元は駒ヶ林町1丁目3番地(旧駒ヶ林村字東之町東端)に鎮座していたが、神戸市都市計画事業による市道五位池線の開設に伴い、昭和39年10月現在地に遷座した。御神霊は高取山より迎えられたと伝えられている。」
神戸市長田区駒ヶ林町1-9-16
map
鳥居

燈籠



手水鉢





狛狐



拝殿






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝満寺・大日寺

2022-01-07 15:28:34 | 神戸市長田区
2022年1月6日、お参りしました。
宝満寺
説明書より「『西摂大観』にある寺記及び古文書などによれば、宝満寺は808(大同3)年弘法大師が開創し、もと和田山の字寺山(現在の兵庫区和田山通付近)にあったが、1180(治承4)年平清盛が、福原内裏造築のとき現在地に移したと伝えられている。1184(寿永3)年源平による一の谷の合戦で伽藍の大部分を焼失したが、1266(文永3)年亀山天皇の勅命で法燈圓明国師によって、禅寺として再建されたという。また、1334から1336の建武年中には足利尊氏の崇敬を受け、伽藍の修復及び寺領を寄進されたことが見られる。1579(天正7)年荒木村重により寺禄を没収され、伽藍は焼き討ちに遭い衰退する。1945(昭和20)年、米軍による空襲で宝満寺は全焼し、寺史に関する文書資料は焼失するものの、大日如来坐像といくつかの寺宝は、境内の枯れ井戸に隠されていて被災を免れた。」
神戸市長田区東尻池町2-11-1
map
寺標

山門

本堂、玄関



大日寺、真言宗御室派
説明書より「寺伝では、平安時代の1169(嘉応元)年、平清盛が和田岬の浜に僧侶1000余人を集めて大輪田泊(現在の兵庫港)と瀬戸内航路の海上安全の為に萬灯会を行った時に燈籠堂を建立し、法華経をお祀りしたのが当寺の始まりと伝わる。その年から春と秋の年2回、燈籠堂の浜にて千僧供養が行われていました。1172(承安2)年の春には後白河法皇が行幸され、阿弥陀如来をお祀りし千人の僧侶と読経し、この時に西行法師も参列し「きえぬべき法のひかりの灯(ともしび)をかかぐる和田の御崎(泊)なりけり」と詠っております。
1180(治承4)年に和田京を造営の折、清盛公が燈籠堂を寺とし、万代山安養寺と号す。その折、安徳天皇の玉帯安穏と国家安泰を祈るために一字金輪尊(大日如来)を祀り御願所となりました。
その後、源平の戦火で堂塔伽藍がすべて焼失しましたが、平家滅亡の後に平家一門の菩提を弔う為に建礼門院の発願で諸方より寄進を受け再建されました。
鎌倉時代に入り1285(弘安8)年8月には奈良西大寺の興正菩薩叡尊が来られて菩薩戒を972人に授け、遊女1700余人に持斎戒を授けられました。
南北朝時代の1336(建武3)年湊川の戦いの時、南朝方の大館左馬助氏明が兵3000を率い、燈籠堂南の浜を陣所にしました。
江戸時代の元和年間(1615~1623)和田岬より西尻池の当地に移った。万治の頃(1658頃)、当地方を治めた尼崎藩主青山幸利候が当寺に深く帰依され、候の死後、位牌が青山家より納められました。
元禄(1688~1703)以後、時代の変遷により衰退し住職不在で廃寺となり西尻池村の大日堂と呼ばれていました。本尊、什物、古文書等はすべて焼失し、本堂と青山候の位牌、鎌倉時代頃の作と伝えられている町石のみ残りました。
大正末期に純真和上が入寺され、名刹が廃寺の憂き目に遭っているのを嘆き、大日堂を和上の師の寺である播州朝日山大日堂の別院として自ら中興開山第一世となり大日寺と寺名を改め再建されました。太平洋戦争中、昭和19年の神戸空襲でも本堂は被害を免れ、被災者の救護所として利用されました。
平成18年に朝日山別院を返上し、旧に復して万代山と山号を戻して現在に至っております。」
神戸市長田区腕塚町1-1-26
map


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長田神社

2014-05-20 15:52:31 | 神戸市長田区
2014年5月19日、長田神社にお参りしました。
長田神社(ながたじんじゃ)は、旧社格は官幣中社で、神功皇后以来の歴史を持つ名社とされています。生田神社、湊川神社と共に神戸を代表する神社の一つです。
事代主神を主祭神とし、本殿瑞垣内に天照大御神、応神天皇を祀っています。
由緒書によると、「神功皇后摂政元年(201)御神意を受け此の長田の里にお祀りされたと伝える我国有数の名社です(日本書紀記載)。事代主神は皇室守護国土統一の神として宮中八神殿にお祭りされ神話では国護りの神として広く語り継がれています。御神名の『事代』は全ての事柄を知り司りあらゆる業を教え導かれる事を顕し、開運招福、心願成就、商工業の守護神、福の神として篤く信仰されています。」
幣殿、拝殿、東楽所、西楽所、透塀及び門、天照社、八幡社、月読社、出雲大社、蛭子社、松尾社、神門、神符授与所及び附属屋、廻廊及び脇門、神楽殿は国登録文化財となっています。
神戸市長田区長田町3-1-1
map
鳥居、地下鉄長田駅のところ



鳥居

由緒書

手水舎

配置図



神門

廻廊





絵馬殿

長田神社のクスノキ
周囲620㎝、樹高22m

眼鏡碑





大和さざれ石

拝殿











本殿



絵馬願かけ所

説明書



儀式殿



神楽殿



遙拝所

松尾社

月読社

出雲大社

蛭子社

灯篭、名優中村時蔵奉納
中村吉右衛門が昭和13年4月参拝の時に吟ず
「燈籠に父を語るや春の宮」

本殿の北側の燈籠

楠宮稲荷神社

神撫山参拝所

七福神

鳥居の外の参道にあります。







やぐもはし


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平盛俊塚、明泉寺と平知章公墓所、平知章之碑、監物太郎頼賢の碑

2014-05-20 15:12:38 | 神戸市長田区
2014年5月19日、長田神社にお参りしたおりに近隣を歩きました。
平盛俊塚
説明書より、「越前前司平盛俊は、平安時代末期の平の大将で、力優れ、剛勇のほまれが高かった。源平合戦の際、この地近くで陣をしていたが、源義経のひよとせり越えの急襲により源氏方の猪俣小兵六と組み討死にした。その剛勇をたたえ塚を建てたものである。」
神戸市長田区名倉町2-2
長田神社から北側、宮川町9交差点北側の道路右少し行って、橋の手前右に行ったところです。
map
説明書






明泉寺
寺の縁起によると、「明泉寺(通称大日寺)は寺伝によれば天平の昔、行基菩薩が大輪田の泊を改修され、さらに真野の荒野を開墾し、その用水のために西代の蓮池を開掘された。蓮池の水源である上流の地、現在の大日丘に自刻の大日如来の尊像を祀り、明泉の永久に尽きることのないよう祈願されたのが始まりである。大日川、苅藻川の水は長田村、池田村、東尻池村、西尻池村、駒ヶ林村の水田を養い、今日、西神戸という立派な市街を形成するもととなったと思われ、行基菩薩の先見の明による恩沢とも考えられる。」
神戸市長田区明泉寺町2-4-3
map



縁起説明書
「山号は天照山、大日寺、大日さんで知られ牛の寺としても信仰を集めている。天平年間、行基菩薩(668~749)が西代の蓮池を拓かれた際の創建と伝えられ長田村から白川村を経て太山寺へ通じる長坂越東山の古明泉寺大日丘の地にあったが寿永三年(1184)二月七日明泉寺合戦(吉川英治の「新平家物語」に詳しい)に平盛俊が陣を布き義経の来襲に備えたため戦火で焼け、観応二年(1351)赤松判官光範公によりこの地に復興された。また十六歳の知章が父知盛を助けて逃れさせ、討ち死にしたのは当寺の北の谷、モンナ池の辺りで薮の中に塚があったのを神戸史談会会長木村昇三氏等の手によって境内に移し五輪塔として祀っている。」

山門











本堂











狛犬ではなくて龍





境内

手水鉢

佛足石
仏陀の足の裏の形を石に彫りつけたもので、古来より礼拝の対象とされてきた。



石の上に龍

お牛様







灯篭の中に仏様

思出の松

寺崎方堂の句碑
「青嵐ちぎれ雲さへなかりけり」

知章公墓所 境内西北角にあります
平知章は、平安時代末期の平家一門の武将で、平知盛の長男、清盛の孫で、怪力で知られた。享年16の悲劇の若武者です。
参道の史蹟

説明書
平家物語 巻9より
新中納言知盛の郷は、生田の森の大将軍にておはしけるが、その勢、皆落ち失せ、討たれしかば、御子武蔵の守知章、侍に監物太郎由頼方、主従三騎、汀の方へ落ち給ふ処に、ここに児玉党と覚しくて団扇の旗さしたる者どもが、十騎ばかり、鞭鐙を合せて、おしかけ奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手なりければ、取って返し、真先に進んだる旗差が首の骨をひやうっぱと射て、馬より倒に射落す。その中の大将と覚しき者、新中納言に組み奉らんとて、馳せ並ぶところに、御子武蔵の守知章、父を討たせじと、中に隔たりおし並べ、むずと組んで、どうと落ち、取って押さえて首をかき、立ち上がらんとし給う所に、敵の童、落ち合せて、武蔵の守の首を取る。監物太郎、落ち重なり、武蔵の守討ち奉ったりける敵の童をも、討ちてけり。その後矢種のあるほど射盡し、打物抜いて戦いけるが、弓手の膝口をしたたかに射させ、立ちも上らで、居ながら討死してげり。《寿永3年(1184)2月7日》
その後、新中納言知盛の郷、大臣殿の御前におはして、涙を流いて申されけるは、「武蔵の守にも後れ候ひぬ。監物太郎をも討たせ候ひぬ。今は心細うこそまかりなって候へ。されば、子はあって、親を討たせじと敵に組むを見ながらいかなる親なれば、子の討たるるを助けずにして、これまで遁れ参って候ふやらん。あはれ、人の上ならば、いかばかりもどかしう候ふべきに、わが身の上になり候へば、ようは命は惜しいものにて候ひけりと、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思し召さん御心の中どもこそ、恥しう候へ。」とて、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣かれければ、大臣殿、「まことに、武蔵の守の、父の命に代られけるこそありがたけれ。手もきき、心も剛にして、よき大将軍にておはしつる人を、あの清宗と同年にて、今年は十六な」とて、御子う右衛門の督のおはしける方を見給ひて、涙ぐみ給へば、その座にいくらも並み居給へる人々、心あるも心なきも、皆鎧の袖をぞ濡されける。

知章墓

源平合戦勇士の碑
長田区役所北側の川の東にあります。

平知章之碑
説明書より「この附近は、小平六池といわれていた。寿永3年(1184)源平一の谷の合戦で討ち死にした平通盛、源氏の木村源吾重章同じく猪俣小平六則綱(平盛俊を討ち取った)らの碑が、この附近の西国街道に面してあった。後、長田区明泉寺附近で討ち死にした平知章の碑をここに移し、敵味方へだてなく源平勇士の碑としてあわせて弔ったといわれ、つわものどもの夢の跡といった姿である。」

平知章之碑

平通盛碑

猪俣小平六則綱之碑





同じ場所の北側にありました。
阪神淡路大震災の慰霊碑

新道開通記念碑

監物太郎頼賢の碑
地下鉄長田駅の西側すぐにあります。神戸市認定地域文化財(史跡)です。

説明書より「監物太郎頼賢は、中納言平知盛の家臣でした。平家物語によると寿永3年(1184)2月7日、源平一ノ谷合戦で活躍した監物太郎は、主人平知盛とその嫡男平知章の三人で海のほうへ落ちのびようとしていました。その途中で、源氏方の児玉党との戦いになり、主人知盛を助けようとした監物太郎は知章とともに討死にすることになりました。そのことにより知盛はおちのびることができたのです。『摂津名所図会』によると、江戸時代の享保年間に並河誠所が所国行脚の途中、討ち死にの地(長田区明泉寺)に立ち寄り、監物太郎の忠義を称え顕彰するため、西国街道近くの現在の地に石碑を移したということです。」







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする