2022年9月15日、お参りしました。
説明書より「山号は金勝山と号し、浄厳院(じょうごんいん)。1578(天正6)年織田信長によって建てられた浄土宗の寺である。この地はもと佐々木六角氏頼が建てた慈恩寺(天台宗)の跡地であり現在も大字慈恩寺として地名が残っているが、近江八幡市多賀町にあった興隆寺のお堂を移し、栗太郡の金勝寺より明感という僧侶を招いて金勝山浄厳院とした。また本尊の阿弥陀如来像は愛知郡二階堂にあった古寺より譲り受けたもので平安時代の作である。ここはまた『信長公記』にみられる、法華宗と浄土宗との間で争われた『安土問答』の場としても有名である。」
滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺744
map
寺標
仁王門
徳本上人名号碑
山門
手水舎
鐘楼堂(近江八幡市指定文化財)
「この建物は、県内に珍しい袴腰付の大型鐘楼で、平面は一間3.67メートルの方形です。隅の鬼瓦銘(寛保2年1742年)と梵鐘銘(寛保元年1741年)のほかに全体の様子から江戸時代中期、寛保2年に建てられたものと認められます。三段石積基壇上に建つため、比較的背が高く感じますが、袴腰の裾を広げ、軒の出も深く、軒の反り強くした近世らしい袴腰付鐘楼に整えています。当寺は、江戸時代に八幡の大工高木家と深く関わっており、この鐘楼もその関連建物の一つです。」
観音堂
本堂(重要文化財)
「1577(天正5)年織田信長が再興、本堂はこの時、近江八幡多賀村の興隆寺弥勒堂を移建したものであって、室町時代中期末頃の建築とみられ和様を主体とした古い形式を示し、中世地方寺院の遺構として貴重な存在である。」
茶所
釈迦堂
不動堂(近江八幡市指定文化財)
「この建物は、宝形造、桟瓦葺で禅宗様を取り入れた小堂です。隅鬼瓦銘(元禄16年1702年)と、細部の彫刻などの特徴から、江戸時代中期、元禄16年に建てられたものと認められます。正面、背面が一間、側面が二間になっていますが、寸法は各面4.98メートルを測る平面方形の建物です。基壇上に建ち、内部は瓦四半敷の土間、正面は方位を立て桟唐戸両開で、両脇の小間に火頭窓を設けています。江戸時代中期、元禄時代の禅宗様でまとまった価値の高い建物です。」
塔頭・誓要院
塔頭・春陽院
説明書より「山号は金勝山と号し、浄厳院(じょうごんいん)。1578(天正6)年織田信長によって建てられた浄土宗の寺である。この地はもと佐々木六角氏頼が建てた慈恩寺(天台宗)の跡地であり現在も大字慈恩寺として地名が残っているが、近江八幡市多賀町にあった興隆寺のお堂を移し、栗太郡の金勝寺より明感という僧侶を招いて金勝山浄厳院とした。また本尊の阿弥陀如来像は愛知郡二階堂にあった古寺より譲り受けたもので平安時代の作である。ここはまた『信長公記』にみられる、法華宗と浄土宗との間で争われた『安土問答』の場としても有名である。」
滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺744
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寺標
仁王門
徳本上人名号碑
山門
手水舎
鐘楼堂(近江八幡市指定文化財)
「この建物は、県内に珍しい袴腰付の大型鐘楼で、平面は一間3.67メートルの方形です。隅の鬼瓦銘(寛保2年1742年)と梵鐘銘(寛保元年1741年)のほかに全体の様子から江戸時代中期、寛保2年に建てられたものと認められます。三段石積基壇上に建つため、比較的背が高く感じますが、袴腰の裾を広げ、軒の出も深く、軒の反り強くした近世らしい袴腰付鐘楼に整えています。当寺は、江戸時代に八幡の大工高木家と深く関わっており、この鐘楼もその関連建物の一つです。」
観音堂
本堂(重要文化財)
「1577(天正5)年織田信長が再興、本堂はこの時、近江八幡多賀村の興隆寺弥勒堂を移建したものであって、室町時代中期末頃の建築とみられ和様を主体とした古い形式を示し、中世地方寺院の遺構として貴重な存在である。」
茶所
釈迦堂
不動堂(近江八幡市指定文化財)
「この建物は、宝形造、桟瓦葺で禅宗様を取り入れた小堂です。隅鬼瓦銘(元禄16年1702年)と、細部の彫刻などの特徴から、江戸時代中期、元禄16年に建てられたものと認められます。正面、背面が一間、側面が二間になっていますが、寸法は各面4.98メートルを測る平面方形の建物です。基壇上に建ち、内部は瓦四半敷の土間、正面は方位を立て桟唐戸両開で、両脇の小間に火頭窓を設けています。江戸時代中期、元禄時代の禅宗様でまとまった価値の高い建物です。」
塔頭・誓要院
塔頭・春陽院
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