旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

湯郷グランドホテル

2025-02-13 08:14:08 | 温泉、旅館、ホテル
2025年2月9日、利用しました。
湯郷温泉は、歴史ある湯治・美肌の湯として有名です。開湯は1300年で、その昔、円仁法師が一羽の白鷺が湯で傷を癒している姿を見て発見されたとされ、『鷺の湯』とも呼ばれています。無色透明の湯は肌がつるつるとなると評判です。泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物泉です。大浴場、露天風呂、バレルサウナがあります。到着後、食後、早朝と3回浸かりました。食事は「みまさか会席」でした。
岡山県美作市湯郷581-2
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外観

玄関



ロビーでのおもてなし

フロント

ロビー













館内

































売店







廊下

室内







おもてなし



夕食



先付、胡麻豆富・蟹味噌

前菜・季節の盛り合わせ、 煮物・季節野菜の煮物 酢の物・季節の物







地酒、甘口の登龍をリクエストしました。

造里、三種盛り合わせ

小鍋、牛しゃぶ

鍋焼きうどん

焼き物、鰆の焼き物

強肴、鶏味噌陶板焼き

替鉢、茶碗蒸し
写真忘れました。
吸物、鯛つみれ、香の物

デザート

料理長は内海久典さんでした。
朝食です。鮭、豆腐、煮物、玉子焼き、佃煮、焼き海苔、野菜サラダ、アサリ汁、ご飯、生卵、デザート
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安養寺

2025-02-12 20:57:28 | 岡山
2025年2月9日、お参りしました。
説明書より「慶長年間よりの古寺で、本尊木造十一面観世音立像は国指定重要文化財である。また、境内には小堀遠州作と伝えられる庭園があり、本堂裏の枯山水の築山と前庭の亀島との眺めは人々に感銘を与える。開山以来、毎年2月に会陽(裸祭り)が行われている。」
岡山県美作市林野48
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山門



仁王院

持仏堂

宝篋印塔



美作大観音





鐘楼

銅鐘

観音堂





大師堂















金毘羅神社
鳥居

拝殿









本殿

一願地蔵尊







大黒天



裏山88か所




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豊國神社

2025-02-12 20:28:53 | 岡山
2025年2月9日、お参りしました。
パンフレットより「古くから豊国地区は農業文化に優れた地区として名高い場所であり、その中心的存在となるべく、860(清和天皇貞観2)年に現在の五座神社に勧請されたのが始まりです。1314(花園天皇正和3)年5月の大雨によって御社殿が流失した事により、6年後の1320(元応2)年に現在の地に遷座し、惣社山王宮と称していました。新社地は出雲街道に面していた事から参勤交代の大名を始め勝山城主三浦家や津山城主森家が頻繁に訪れる等厚く崇敬されていた事が社史に残っています。」
岡山県美作市北山621
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鳥居

安東政重翁頌徳碑

クロガネモチ(美作市指定文化財)

鳥居

社標

狛犬







手水舎

拝殿



狛犬







本殿





末社






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春日神社

2025-02-12 17:57:24 | 岡山
2025年2月9日、お参りしました。
説明書より「当神社が初めて吉野郡淡相の郷(美作市粟井中)に建立されたのは、67代三条天皇の御世、1013(長和2)年3月で平安時代である。備前・美作の国造(地方官で祭事を行なった)和気清麻呂五世の孫相法公によって大和国官弊大社春日大社の御分霊を奉斎した由緒ある古社である。当時の日本は藤原氏の全盛時代であり、その氏神である春日大神がこの地に勧請された政治的な意味が大きかったと思われる。『枕草子』『源氏物語』が書かれたのもこの頃である。この粟井の郷は京の都から播磨国を通って西国へ行く街道筋であり、中央政府から近国の重要地点としての扱いを受けていたものと思われる。
万葉集に小野の双子山が『紐鏡能登香の山も誰がゆゑか君来ませるに紐開かず寝む』と詠われており、古の奈良の都の頃から万葉歌人がこの郷を訪れていたのである。『後醍醐天皇の行幸』1332(元弘2)年隠岐へ配流の途上の3月16日、警護役の近江守護大名佐々木道誉から『美作国粟井郷に春日大明神と申す古社があり、昔皇位の危機を救った和気清麻呂の子孫が勧請したもので行幸なされては』との奏上により参詣された史実がある。
神社裏山には粟井中村城または粟井城と呼ばれた城址があり、築城完成は1015(長和3)年2月である。本丸、東の丸などの跡地が現存している。当時の御社は現在地よりも裏山の少し高い所に在った。室町時代の乱世により、春日神社も粟井城と共に戦火にまみれ焼失した。その後103代後土御門天皇の御世1486(文明18)年丙午の年、旧9月17日、将軍足利義尚の臣、英多郡司粟井近江守菅原景盛公(粟井城主)より、現在地に再建された。北福鉱山(大字粟井中)、瀬戸・大弘鉱山(大字瀬戸)など生野代官支配の銀山の採掘が盛んで城下町として市が立ち、出雲・津山街道の宿場町として大いに栄えていた。」

岡山県美作市粟井中273
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手水舎



三木太郎のケヤキ
「1898(明治31)年老朽化した拝殿・吊殿の再建のとき当社は財政難であった。このケヤキを競売して資金にすることになったが梶原の横山三木太郎はこの神木ケヤキを伐採してはならぬと、一度売られたケヤキを買い戻し春日神社に奉納したものである。いつしか人呼んでこの木を『三木太郎のケヤキ』という。」

鳥居

手水鉢
「①1764(明和元)年八月大穀日(大変よい日)、手水鉢の水で『手水作法』に従い心身を浄めて、参拝するのがならわしとなっている。この手水鉢は、初めて当社の手水舎に設置されたもので、石は、宮の谷より運びだした。②『武當山』当社に現存する、神仏混淆の唯一の貴重な遺物である。側面には1864(弘化3)年9月吉日、」



随神門





明神鳥居礎沓石
「勧請千年祈念事業として、鳥居を再建するために旧鳥居を取り除くと、その下から出土した。1220(承久2)年5月8日粟井郷の地頭伴惟時が石生谷を使って、礎沓を作りこの上に木造の明神鳥居を建立した。」

狛犬



後醍醐天皇御腰掛石

拝殿





本殿



社務所

石灯籠
「小堀遠州式灯籠は、岡山県内に二基あるとされるが、修復されて形状が変り、修復されていないものはこの一基のみである。」





末社

国司神社
「1911(明治44)年10月23日粟井中字亀の甲、国司神社を始め粟井村五大字、粟広村の三大字の25社合祀遷座する。」

稲荷神社
「1911(明治44)年10月23日『粟井村五大字粟広村の三大字』の41社が合祀され、その後2011年10月25日粟井中字森の下稲荷を合祀し、42社が祀られています。豊宇気姫命のお名前から女の神様と考えられます。」

水若酢神社
「弥都波能売神・御井神・瀬織津比売神・水分神・大地主神・大山祇神・猿田彦神の七柱の紙を祀っている。」

荒神社
「祭神は素戔嗚命とも須佐之男命、建速須佐之男命とも申し上げます。伊邪那岐命と伊邪那美命を御両親として天照大神の弟君です。」



シラカシ(推定樹齢250年)

杉(美作市指定天然記念物)
「推定樹齢1000年、樹高37m、目通周囲5.8m」


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日指毘沙門天

2025-02-12 17:10:27 | 岡山
2025年2月9日、お参りしました。
説明書より「当山本尊毘沙門天は、本朝最初の出現にして今を距る1400年の昔、聖徳太子16歳の御時守屋大連御誅罰の際、586(用明2)年3月3日生身の毘沙門天忿怒の姿にて出現し給い、禅定の弓・知恵の矢忽守屋の胸を貫き遂に逆臣を滅し給う。奈良朝の高僧行基菩薩日指山に登らるや山中振動し、如意珠の岡の頂に、方八尺の櫃を感得し給う。『南無大慈大悲福田多門天王宇賀宮天目一箇尊』と銘あり。堂塔営構の大願を起こし、この櫃の四周を道場の基礎として善美を盡して、本堂を造立し自ら天王の尊像を一木一像・一刀三禮して彫刻し、御丈五尺三寸で左手に宝塔・右手に宝剣をもって十万の敵をひしぐ憤怒の形相で足下に天邪鬼を踏み全身黒肉色で頗る入心の妙を極め霊容俊厳にして威四辺を払う。豊臣秀吉朝鮮征伐の時、戦勝祈願霊験有りて感激のあまり尊前に百間の馬場を礎き奉納される。堂塔伽藍具備し、壮麗を極めしも数度の兵火に罹りて灰燼に帰したが、多数信徒の帰依厚く法燈維持す。例年正月三日は、福徳瑞喜の霊験を授かろうと参詣者多数あり今日に至る。」

岡山県美作市日指508
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参道の階段

石碑

本堂












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長城寺

2025-02-10 17:40:23 | 岡山
2025年2月9日、お参りしました。
説明書より「真言宗御室派の寺院です。日指は山上の高地で、朝から夕方まで日差しが申し分ないところから、この地名ができたと言われています。この集落は、平安末期がら鎌倉初期にかけて開創されてた古刹長城寺とともに開けました。
長城寺は戦国時代と江戸中期に再三火災にあい、ほとんどが焼失して、今はその後建てられた本堂、庫裏、鐘楼などを残すのみで、昭和十年頃までは、正月の会式には『日指の毘沙門まいり』といって近郷から数千の人出で賑わったものです。」

岡山県美作市日指319
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本堂

鐘楼

庫裏

宝篋印塔






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道祖神社

2025-01-11 18:20:38 | 京都
2025年1月10日、お参りしました。
「道祖神は猿田彦大神と天鈿女命の夫婦の2神で、夫婦2神が抱き合う神像から縁結びの神として信仰されています。」
京都駅北側の塩小路通を少し西に進み、国道1号線の手前の路地に入ったところに鎮座しています。
京都市下京区南不動堂町5-4
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鳥居と社標、左に道祖神の像



手水舎

末社





狛犬



拝殿






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不動堂明王院

2025-01-11 17:45:09 | 京都
2025年1月10日、お参りしました。
説明書より「本尊の開基は823(弘仁14)年弘法大師が嵯峨天皇の篤い帰依をうけて都南に東寺を賜った時、東寺より見て鬼門(東北)にあたる地に一体の不動明王像を祀ったことを始まりとしている。この不動尊像は空海はこの土地にて一基の霊石を発見し、その石に不動明王を彫刻し石棺に納めて井底深くに安置したという。本尊は霊石不動と称する不動明王像で、地中深くに封じられているため、現在は御前立の不動明王立像を拝むこととなっている。899(寛平11)年宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇が法皇となられたとき、この地をふくめて京都西、洞院に東西に二町南北に四町という宏大壮麗なる東七条御所(または亭子院)をいとなまれました。その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあるのを知り、人に命じて取り出そうとしたところ、霊力のためか井戸の石をみるもの悉く眼を痛み恐れをなして終に果たせなかったといいます。そこで法皇はち勅して井戸を封じ以降何人もうかがうことを許さぬと大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。下って、室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが、井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの予になって再び堂宇の造建をみました。その後、江戸時代に入って、1764(明和元)年11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。建立当初、本寺は宇多天皇が仁和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場として1782(天明2)年までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。」

京都府京都市下京区油小路塩小路下る南不動堂町7
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六孫王神社

2025-01-11 17:02:04 | 京都
2025年1月10日、お参りしました。
説明書より「六孫王神社は、961(応和元)年に清和源氏の祖源経基の嫡男満仲が経基邸宅跡に霊廟を建てたことに始まると伝えられています。中世には衰退しましたが、1704(元禄14)年に江戸幕府により再興されたのが現在の社殿です。建物は切妻造で平入の本殿と、その前方に建つ入母屋造、平入の拝殿が造合で連結された複合社殿です。連結部分の屋根には棟をつくらず、本殿と拝殿の軒がそのまま接しています。唐門は、入母屋造の屋根の前後に唐破風をつけた四脚門で、両脇に回廊が接続しています。なお、屋根は当初本殿が桧皮葺、拝殿、回廊は栩葺でした。当社の本殿は例の少ない切妻造本殿で、拝殿と接続した複合社殿である点に特色があります。また、唐門、回廊も同時期の造営になり、これら一連の社殿は江戸時代中期の中規模神社の形態を知るうえで貴重であり、京都市指定有形文化財に指定されました。」

京都市南区八条町509
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社標



南鳥居

年中行事案内

東鳥居



東二の鳥居

狛犬



鯉魚塚

末社・睦弥稲荷神社



誕生水弁財天社



神龍池

鷺がいました。

神龍拝所

神橋



手水舎



狛犬



石灯籠

唐門



拝殿

回廊

神馬

社務所
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石上布留社

2025-01-11 16:11:24 | 京都
2025年1月10日、お参りしました。
説明書より「東寺執行家は823(弘仁14)年から1871(明治4)年まで1048年の間、真言宗の政所であって、歴代世襲職であった。阿刀家は、弘法大師の生母の里方である。阿刀家の女婿となった。阿刀大足の時、はじめられたものである。境内にある石上布留社(いそのかみふるしゃ)は、阿刀家の斎壇である。相殿は阿刀大神である。小祠には、三輪、伊勢、賀茂、石清水、二天夜刃、役氏小角、稲荷、弄鈴、王仁、空海大神がある。又境内に在るナミキリ不動明王は、弘法大師のお地盤(おじば)の明王と云われ、四国路、東寺、高野山4などの霊地に参りても、ここ弘法大師のお地盤の明王を参らざれば、御利益が、頂けないのだと云って、有名である。」

京都市南区九条町
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社標

鳥居

手水舎

社殿



末社



クスノキ

波切不動明王






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