旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

下呂温泉の森八幡神社

2017-07-01 17:40:33 | 岐阜
2017年6月27日、岐阜美濃市の町並み、郡上八幡城と町並み散策し、下呂温泉の小川屋に宿泊です。1泊2日の旅行です。下呂温泉は2回目です。下呂温泉の町並みは2015年10月を参照してください。⇒下呂温泉の街並み
今回は、前回にお参りできなかった森八幡神社にお参りします。
旅館に着いてから、入浴し夕食までの時間に行きました。
マンホール「いい湯 いいまち 下呂のまち」、白鷺が表示されています。





下呂温泉観光案内図





森八幡神社
『木造神像は国の重要文化財にしていされています。10体の木造神像が保管されており、像高は30~60cmで、平安時代から鎌倉時代にかけて飛騨の匠の手によって彫られました。神像は、風俗的にも彫刻的にも地方色を生かした素朴なもので貴重です。田の神祭は国指定重要無形民族文化財で、本神社の祭事として毎年2月14日に境内で行われます。中世以来の田遊びの芸能が規模、様式ともに継承されており、稀にみる貴重な民俗資料とされています。4人の若者が、大きな色とりどりのかぶり笠をつけて踊ることから、別名「花笠祭」と言われ、飛騨で最も早い祭であることから、「飛騨路に春を告げる祭」として賑わいます。』
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鳥居







参道

手水舎

狛犬



拝殿







下呂の大杉





神庫







願い石



本殿





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小川屋・下呂温泉

2017-07-01 17:29:20 | 温泉、旅館、ホテル
2017年6月28日、美濃・郡上八幡観光の1泊2日旅行で利用しました。下呂温泉は2度目です。小川屋を選択したのは、100帖の広さの大浴場に畳が敷かれての面白さとリーズナブルな料金からです。大浴場は地下1階にあります。露天風呂はさらに1階下です。建物が川沿いに立地していますので、フロントが3階で、地下1階ですが河川を望めることができます。地下2階の露天風呂から川で釣りや対岸を眺望できます。泉質はアルカリ性単純温泉です。Ph8.9で、浸かると肌がすべすべという感じです。女性用の露天風呂は白濁の湯とのことです。朝夕入れ替えがなく残念。
プラン名は豚の朴葉焼き会席[川側]です。
岐阜県下呂市湯乃島570
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外観



玄関



室内、15畳と広縁





踏み込み

おもてなし

ラウンジ









眺望、飛騨川





廊下



装飾







































おみやげ処



ロビーの足湯

浴場の待合











温泉の説明書





















日帰り入浴の案内

エレベーターは外が見れます。







エレベーターホール

夕食です。下呂の地ビールを飲みながらおいしくいただきました。
お献立

先付けの胡麻豆腐

揚げ物、天ぷらです。

吸物替り、海老と地元の野菜

造り、鮪・烏賊・鯛など

焼き物、鮎塩焼き

塩辛くなく、品のいい味付けです。

蟹せいろ蒸し

茶碗蒸し

飛騨産豚の朴葉焼き



止め椀と香の物

牛乳プリン、上品でおいしいです。

部屋からの夜景

朝食はバイキング形式です。

リーズナブルな料金で、食事もおいしくいただき、温泉はいいし、スタッフの応対は丁寧です。下呂でのお薦めのホテルです。
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郡上八幡(重伝地区)

2017-07-01 11:46:01 | 岐阜
2017年6月27日、美濃のうだつの上がる町並み(重要伝統的建造物群保存地区)、郡上八幡城、郡上八幡の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)、下呂温泉、名古屋城と1泊2日の岐阜観光旅行です。郡上八幡城を観光し、城下の郡上八幡観光協会の駐車場に移動です。
岐阜県郡上八幡町島谷520-1
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吉田川





郡上八幡旧庁舎記念館(登録有形文化財)
「昭和11年(1936)建築、木造2階建、瓦葺、建築面積797㎡。非対称型になる木造2階建の洋風の庁舎で、正面に玄関ポ-チが付く。内部は1階が町政執務関係、2階が議会関係に使用された。設計は野村建築事務所で、施工は地元の大工棟梁水谷藤兵衛。外壁は軒廻りを除き下見板張とし、縦長の窓を配した端正な建物である。」





内部は観光案内所、お土産、軽食などがあります。

新橋を渡り町並みへ

神農薬師如来
「当町、市島林組の富豪治左エ門方に立ち寄った一巡礼が、厚いもてなしを受けたお礼に薬師如来を置いて立ち去った。天明5年(1781)その薬師如来を同地の竹林内に安置奉安した。その後、325名余名の神農講会員により、昭和4年1月8日薬師如来をもらいうけ、同年7月28日の馬市を利用し、当巌窟に奉還して、入佛式を奉行した。尚、神農薬師は、商売繁盛の外、諸病、諸難一切を払い給うと言い伝えられ、多くの人々より信仰されている。」





郡上市郡上八幡北町(重要伝統的建造物群保存地区)
「郡上市は岐阜県の中央部に位置する。郡上市の中心にあたる旧八幡町は、永禄2年(1559)、戦国時代より当地域一円を支配していた郡上(ぐじょう)東(とう)氏(し)を攻めるため、遠藤盛数(もりかず)が八幡山に陣営を構えたことに始まる。江戸時代後期には、吉田川を挟んで北側は北町、南側は南町と称され、それぞれ名主がおかれた。
北町は、八幡山に築かれた八幡城跡の西に位置し、北、西、南の三方を川に囲まれた旧城下町の一部である。南北行き三筋の通りが配され、東の通りに沿って柳町、中央の通りに沿って殿町、西側の通りに沿っては、北から職人町、鍛冶屋町、本町とされる。
山上には本丸が、山麓の二の丸には居館が置かれた。柳町及び殿町には武家地が配され、職人町、鍛冶屋町、本町及び大手町には町人地が形成された。大正8年、北町一帯が焼失する大火が発生する。復興にあたり、武家地が細分化され町家が建ち、屋根の不燃化が進められた。
 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、東西約589メートル、南北約525メートルで旧武家地、旧町人地並びに八幡城跡から構成される面積約14.1ヘクタールの範囲である。主屋は総二階建で、切妻造平入、真壁造で木部を弁柄(べんがら)塗とし、壁を漆喰塗とするものが多い。袖壁を設けるのが一般的で、屋根は鉄板葺又は桟瓦葺を基本とする。敷地の傾斜を利用して、主屋一階の床下にシタヤと呼ばれる居室やムロと呼ばれる貯蔵庫を設けるものもある。通りに沿ってそれぞれ水路が引かれ、現在でも生活用水として利用されている。
 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、四方を山と川に囲まれた自然地形をいかした城下町の一部で、統一された様式を持つ町家が密度高く建ち並ぶとともに、湧水をいかした水利施設とが一体となって、城下町としての歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。」





郡上八幡博覧館

浄因寺、真宗大谷派の寺院







左に曲がり、職人町へ



職人町の角に長敬寺があります。
長敬寺と凌霜隊
『八幡城第二代と第四代の城主であった遠藤慶隆が、古今伝授で有名な「東氏」の子孫が飛騨高山の照蓮寺に仮住まいしていることを知り、慶長6年(1601)に招いて建立したのが長敬寺である。本堂裏に遠藤慶隆のものと伝えられている墓が残っている。また古絵図によると寺の裏近くに矢場が記されている。
 慶応4年(1868)4月江戸城開城の折、郡上藩士45名が「凌霜隊」を編成、佐幕派の中心会津へ救援隊として出発し、会津若松城の「白虎隊」と共に政府軍と戦った。
 9月、会津の降伏により凌霜隊士は郡上へ護送され獄舎に入れられた。きびしい獄舎の生活に犠牲者の出るのをみた城下寺院の嘆願が聞き入れられ、明治2年長敬寺に移された。明治3年釈放されたものの彼らの一生は苦しいものがあった。」

山門





龍の彫刻







本堂

















鐘楼





職人町・鍛冶屋町









蓮生寺









再び通りへ、小川が流れています。





















宗祇水
「文明年間連歌の宗匠飯尾宗祇が東常縁から古今伝授を受けるため、この泉のほとりに草庵を結び、この清水を愛用したところから名づけられた。昭和60年全国名水百選の一番手として指定を受けた。」









清水橋













直井家住宅主屋(登録有形文化財)
「明治22年(1889)/昭和初期(1926-1988)増築、木造2階建、鉄板葺、建築面積252㎡。歴史的な町並みの中心となる交差点角に建つ。建築面積252㎡、木造2階建、鉄板葺。南側は昭和初期に増築された居室で、西隣には土蔵を接続する。2階は旧規を良くとどめ、通りに面して連続する出格子を設け、落ち着いた佇まいの街角景観を形成している。」







やなか水のこみち
「風情のある水辺のポケットパーク。別名美術館通りとして、界隈に3つの美術館・民芸館があります。」





野中稲荷神社
「野中稲荷神社は、この一帯に郡上藩三代藩主遠藤常友の弟大助が家臣とともに住んだ長屋群があり、その遠藤家の屋敷と土地を守る屋敷神であったとされる。」















願蓮寺
「願蓮寺は、明応3年(1494)に腰細村(相生)に正円が僧庵をむすび、親鸞聖人が開顕された浄土真宗宣布の道場から歩みが始まり、爾来十七代に渡り法灯が相続され今日に至っています。時は戦国時代であり、僧侶と言え、歴代住職の中では武士としての面を持っていたようあります。二代正専のころ、永禄12年(1569)に飛騨の三木自綱が郡上を来襲する事件があり、時の城主遠藤慶隆から寺院側に援軍の要請があり、正専も三参戦し畑佐の砦を襲撃し大激戦の末、敵軍はついに砦をすてて境外に退去したのですが、その戦いの中で、正専は奮闘するもついに敵刃に散ったのであります。元和9年(1623)、五代目慶傳の代に本山から寺号公称(願蓮寺)が許可されました。」

















日吉神社
「御祭神は大山咋神で、往古この地は原野にして宇大美屋と称し西に向いて一小祠あり開基は判らず。天正年中(1573~1591)遠藤慶隆この社に戦勝を祈り安久田村日吉村をも勧請合併して社殿を営み城南の鎮護とした。」

鳥居



拝殿

狛犬





稲荷社





最勝寺
『浄土真宗本願寺派の寺院で山号を玅高山と称する。本尊は阿弥陀如来である。当寺創立は、越前(福井県)田野最勝寺文書に「清和天皇十五代の末孫伊予守源宗政が貞永2年(1233)上洛し親鸞聖人に帰依し直弟となり、法名を専修と言い姓を多田と称して一宇を建立した」とあるように摂津国多田庄(兵庫県川辺郡)に一宇を建立したのが始まりである。郡上での一向宗寺院としての活動は、郡上九ケ所門徒道場などで以前からなされていたが、延徳元年(1489)九世専宗の時、美濃国郡上群市島村(郡上八幡)に最勝寺の道場堂宇が建立された。永禄9年(1566)十一世専賢の時、郡上をめぐる合戦による兵火のため市島の堂宇・宝物などすべてを焼失し、隣の川佐村に移転したことがあった。その後、越前国大野郡(福井県大野市)に移ったが、世継ぎの関係で3つに分かれ、その一つが郡上八幡に建立された。他の二つは、福井県大野郡上据村の最勝寺(本願寺派)と同県大野市明倫町の最勝寺(大谷派)である。寛文6年(1665)に郡上八幡の六代城主遠藤常友の城下町整備に伴なう政策ににより現在地(八幡町赤谷山本)に寺領が与えられ、現在に至っている。』

山門

鐘楼

本堂

道路のマンホールは魚

慈恩護国禅寺
「臨済宗妙心寺派の寺院である。当寺は戦国時代末期、八幡城主遠藤慶隆公深く禅門に帰依され、京都花園妙心寺に定慧円明国師(南北玄興禅師)を訪ね、その弟半山紹碩禅師を当地に迎えて教えをこわれ、慶長11年(1606)国泰民安を祈願して建立、半山禅師を創建開山と仰がれる御本尊は、釈迦如来である。」

山門











鐘楼



庫裏・玄関





本堂



町並みに戻ります。

乙姫川沿い

左京稲荷
「このあたりは旗本三千石金森左京の屋敷跡ですので左京町といわれております。金森左京は、元郡上藩主金森頼錦の分家です。本家が宝暦の百姓一揆で断絶したとき一族でただ一人特に存続を許され、明治維新まで栄ました。この稲荷神社は好運児金森左京の守護神でありました。こんにちも一家の繁栄を願う多くの人々から崇敬されています。」







宝暦騒動(郡上一揆)1754~1758
「江戸時代の宝暦年間に、郡上の百姓たちが年貢の取り立て方法変更等の藩政に対して蜂起した百姓一揆。藩主、金森氏を改易に追い込むほか、老中・若年寄など幕府の中枢も失脚となる歴史的な事件となりました。」
町並みへ

駐車場にもどりました。
いがわの小径
「いがわのこみち」は、民家に囲まれた用水沿いに続く、長さ119m、幅1mの小さな生活道路です。(当地では古くから、生活に利用する小河川、用水路のことを「いがわ」と呼んでいます。)この用水(島谷用水)は、周辺の有志の人達(いがわと親しむ会)によって、自主的に管理されている鯉や、岩魚、あまご、鮎などが泳いでいます。」













お疲れ様でした。下呂温泉に向かいます。
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