旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

おごと温泉 琵琶湖グランドホテル・京近江

2018-12-28 21:59:00 | 温泉、旅館、ホテル
2018年12月24日、利用しました。
プラン名、すき焼き鍋プラン・朝食バイキングです。雄琴温泉は、アルカリ性単純泉、大浴場が琵琶湖展望風呂と西館の風呂があります。
滋賀県大津市雄琴6-5-1
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外観



フロント

ロビー



















ラウンジ

廊下







庭園

室内



おもてなし

室内からの眺望



夕食













朝食

琵琶湖での鴨さん


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長命寺

2018-12-28 21:57:20 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
麓から本堂に至る808段の長い階段で登ります。非常に細い道ですが、自動車で本堂近くまで行くことが出来ます。そこから108段の階段を登ってお参りします。伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。
滋賀県近江八幡市長命寺町157
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808段の階段の参道







山門

手水舎



書院





本堂(重要文化財)
「入母屋造、檜皮葺き。桁行7間・梁間6間の和様仏堂である。寺の文書から室町時代・大永4年(1524年)の建立と判明する。手前の奥行3間分を外陣、後方の奥行3間分を内陣及び後陣とする。内陣須弥壇中央には秘仏本尊を安置する厨子を置き、厨子外の向かって左に毘沙門天立像(重要文化財)、右に不動明王立像が立つ。厨子も堂と同時代の造営。」

















本堂の裏の大きな岩

三重塔(重要文化財)
「本堂の東方、やや小高くなったところに建つ。高欄擬宝珠銘から慶長2年(1597年)の建立と判明する。こけら葺きで全面丹塗。和様の一般的な三重塔であるが、初重の両脇間に連子窓を設けず板壁とすること、初重に和様には珍しく腰貫を用いる点が特色である。初重内部は須弥壇を設け、胎蔵界大日如来像(桃山時代)と四天王像(鎌倉時代)を安置する。大日如来像は像底の銘から天正17年(1589年)、七条大仏師康住とその子の大弐の作とわかる。」





閼伽井堂





護摩堂(重要文化財)
「本堂と三重塔の間に建つ宝形造、檜皮葺き、方三間の小堂。屋根上の露盤の銘から慶長11年(1606年)の建立と判明する。内部は北面中央間の側柱前に角柱二本を立て、その中に仏壇を設けている。なお、寛政5年(1793)にこの仏壇上に壇を重ねてその上に作り付けの厨子を新造している。三間四方の正面中央は桟唐戸、正面左右は連子窓で、側面中央は板扉または板戸、側面前方は連子窓で、他は板壁という簡素な造りである。また、柱は全て角柱で、絵様大斗肘木に軒先は疎垂木木舞打という軽やかな姿である。」





石碑

三仏堂(滋賀県指定有形文化財)
「桁行五間、梁間四間の入母屋造、檜皮葺き、丹塗の堂で、側廻りは円柱に舟肘木をのせた簡単な造りであるが、内部は木鼻・実肘木を入れた三斗を組む。軒は二軒疎垂木で、背面では一軒としている。元暦元年(1184)佐々木秀義の菩提を弔うため、その子定綱が造立したと伝え、釈迦・弥陀・薬師の桟尊を祀る。永禄年間(16世紀半ば)頃の建立と推定されるが、江戸時代の寛政5年(1793年)に改造されている。」



護法権現社(滋賀県指定有形文化財)
「 三仏堂の西に、短い渡り廊下を経て護法権現社の拝殿がある。拝殿は入母屋造檜皮葺きで、隣の三仏堂と同じく永禄8年(1565年)頃の建立と推定される。奥にある本殿は一間社流造で江戸時代後期の建立。長命寺の草創説話にかかわる武内宿禰を祀る。」





鐘楼(重要文化財)
「境内西方の高い位置にある。入母屋造、檜皮葺き、重層、袴腰付きの鐘楼。上棟式の際に用いられた木槌に慶長13年(1608年)の銘があり、建立年次が判明する。内部の梵鐘は中世にさかのぼるものである。」

如法行堂
「勝運将軍地蔵尊・智恵文殊菩薩・福徳庚申尊安置。」

修多羅岩
「修多羅とは、仏教用語で天地開闢、天下太平、子孫繁栄をいう。封じて当山開闢長寿大臣、武内宿禰大将軍の御神体とする。」





太郎坊権現社
「鐘楼のさらに西方にある、長命寺の総鎮守である。ここに祀られる太郎坊とは大天狗の名で、寺の縁起によれば、後奈良天皇の時代に長命寺にいた普門坊なる超人的力をもった僧が、寺を守護するため大天狗に変じたものという。境内の中で最も琵琶湖の展望が良い。」













拕柷尼天尊(稲荷大明神)





琵琶湖の景色


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日吉神社

2018-12-28 21:56:45 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
由緒書より「創建は不祥、この村の鎮守の神として迎えられお祀りされたのは、おそらくこの地が比叡山延暦寺あるいは日吉大社の社領地であった頃であろう。今は圃場整備でなくなったが小字で山王前と言う所があった。山王とは日吉大社の別称で、その名は伝教大師が中国の天台山国清寺の山王祠にならって比叡山の守護神の神号を山王と奉られたのが始まりです。この小字山王前の後ろの小字宮の森に神社が創建されたのは記録によると文亀元年(1501)4月、坂本村日吉大社より勧請とあります。境内地は1町歩余りを有していたとあります。それが日野川支流の諸川等の氾濫により度々の水厄に遭い、氏子達が心血を注いで100年後の慶長9年(1604)2月24日に南の小高い山麓の現在地に遷座されたのです。」
滋賀県野洲市小篠原140
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本殿(重要文化財)


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鏡神社

2018-12-28 21:55:57 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
『神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命を祀る。南北朝時代の建築で「日本書紀」にも記されている朝鮮半島の新羅から製陶技術(渡来文化の陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国ー入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた伝えた祖神。天日槍を祀る神社です。天日槍は持ち来たる神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。延喜の御世には大嘗会に鏡餅を献上した火鑽の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として150余首詠まれ、宮廷巫女の歌人額田王や鏡王女にも所縁の地である。』
『謡曲「烏帽子折」は、義経記などの牛若丸(源義経)伝説から創作された。前段は
鞍馬山を抜け出した牛若が、金売り吉次と奥州に向かう途中、追手が迫ったので、鏡の里宿で盗賊の熊坂長範に襲われ、奮闘して退治した武勇伝。鏡の里宿は当地で、鏡神社は牛若が元服の際、源氏再興を祈願した神社とされ、烏帽子を掛けた「烏帽子掛け松」や「元服の池」などがある。元服に使った盥も神社に保管されている。今や一片の板切れとなっているが、その木くずは戦時中、出征兵士のお守りとして役立ったという。大願成就、家内安全にご利益のある神社である。』
滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289番
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烏帽子掛け松



鳥居





手水舎



拝殿

祓所

本殿(重要文化財)
「現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県に遺構の多い前室付三間社流造り、屋根はこけら葺。蟇股を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。」







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大笹原神社

2018-12-28 21:53:35 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
略記より「この神社の場所は大篠原小字天徳で、この前方すなわち南一帯は小字天王前です。そこで明治の神仏分離令が出るまでは天王さんと申しました。はやり病を除く徐疫神としてまつられ、薬師如来の化身といわれ、また素戔鳴尊をその垂迹といいます。だからここから近い岩蔵寺の薬師さんとは一体の神社です。ところが明治になって、大笹原神社と改称されました。実は大篠原神社と申し上げるべきですが、この右(境内社)の篠原神社と同じ名もつけられませんので、シノ竹をササ竹にしてオオササワラ神社と名づけられました。滋賀県では現在神社建築で国宝は8つです。その中の1つがこの大笹原神社本殿です。」
滋賀県野洲市大篠原2375
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拝殿











本殿(国宝)
「この神社は社伝によりますと、今より千年昔の寛和2年(986)に社殿が造営されたこととなっていますが、現在の建物は室町時代の建築です。そのことは応永21年(1414)の棟札によってわかりますし、また、領主馬渕広定の再建であることもわかります。全部の棟札21枚も含めて国宝です。この本殿は前から外陣・内陣・内内陣と分かれ、内内陣はさらに三室に分割してそれぞれに神座が設けられています。外陣は床を一段低くし、建具なども開放的につくられているのに対して、内陣と内内陣は閉鎖的です。この本殿の特色は各所に配した彫刻の見事さです。外陣は花狭間格子戸、その上の透彫の欄間、向拝や母屋の正側面の各々柱間に挿入した蟇股、それに脇障子に施された浮彫彫刻など、沢山ある県下の神社建築のうち装飾の豊富なことは第一です。しかも、個々の彫刻は抑制されたなかにも力強さを発揮しており、優雅な姿とあいまって、室町時代建築のなかの優秀作です。在所からあまりにも離れ、街道からも離れていたことが、戦火は勿論、災害にも遭わなかったのかと思われます。」

境内社篠原神社本殿(重要文化財)
「応永34年(1427)建立、春日造、もともとはこの地の地主神で、村発生と共に在った神で、ご祭神は餅の神様で、この辺は俗に篠原餅といわれる良質のモチ米の産地です。」







寄部の池


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生和神社

2018-12-28 21:52:50 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
「生和神社は寛弘6年(1009)の創立と伝え、現在の本殿は室町時代前期の建立である。御祭神忠重公は藤原鎌足公の末孫で、寛弘六年、藤原氏の荘園であったこの冨波之荘の領主として大和の国より赴任。この地を開拓、住民困苦のもとであった一の澤に棲む大蛇を退治し、村民の永年の憂苦を払拭された。その後住民は、この徳をしたい、生和大明神と崇め、村の鎮守として奉斎してきた。朝廷の崇高厚く、延徳三年(1491)後土御門天皇は、正一位の神階と勅額を下賜された。大永六年(1526)、当時の領主藤村左衛門尉成俊は、田地三百石と社記を寄進した。当時神主以下12名の社人が勤めていた大社であったが、天正4年(1576)、織田氏により田地の大部分を没収され、漸次衰微して行った。明治10年、村社に加列。昭和25年、本殿及び春日神社が宝暦・嘉永の棟札とともに重要文化財に指定された。昭和38年には本殿の解体修理が竣功した。昭和48年生和神社遷座700年大祭が行われた。」
滋賀県野洲市冨波乙631-1
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鳥居

社務所

手水舎

拝殿

祓所

神楽庫

狛犬



本殿(重要文化財)
「室町前期(1333-1392)建立、一間社流造、檜皮葺。蟇股、花肘木及び格狭間などの意匠が、近在の大笹原神社本殿の応永21年(1414)よりやや古式なため、南北朝時代の建立と考えられる。この本殿は一間社としては大型で、背面に縁を廻し、中備えに蟇股を飾ることなどが特徴である。」





末社春日神社本殿(重要文化財)
「この建物は、建立に関する記録はないが、その様式から鎌倉時代の建立と考えられる。建立後の修理の変遷も不明だが、向拝の水引虹梁の絵様と蟇股の形状は、明らかに江戸時代以降に取り替えられたことを示している。本殿は規模の小さな一間社流造で、身舎柱を円柱、向拝柱は角柱とし、一連の土台に立てる。身舎の組物は舟肘木、向拝は連三斗とし、妻飾は豕扠首を組む。内部は幣軸板扉構えで内外陣に区画し、外陣を内陣より広くする。外陣は内法長押上に連子の欄間を入れ、格天井を張る。この建物は、向拝の虹梁と蟇股が変えられているのは惜しまれるが、舟肘木と向拝の手狭などに鎌倉時代の様式を見て取れる。小規模な一間社流造本殿の基本的な姿を示す建物である。」

末社日吉神社


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圓光寺

2018-12-28 21:52:03 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
「円光寺は江戸時代、長福寺と円光坊が合体した天台真盛宗のお寺である。本堂は長福寺の本堂であり、鎌倉時代の1257年に造られた神社建築に見られる流造り・切妻の銅板葺で、お寺の本堂としては珍しい構造になっている。」
滋賀県野洲市久野部266
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本堂(重要文化財)
「本堂の建立は、内外陣境柱銘及び旧棟木銘から康元2年(1257)であることが分かる。元禄17年(1704)の修理により入母屋造・本瓦葺に改造されたが、昭和31年の解体修理で、本堂建築では珍しい切妻造に復原された。内部は内陣、外陣、脇陣、後陣に分かれる密教寺院の形態を伝えるもので、内外陣境及び内陣両脇陣境に格子戸をたて、内陣と脇陣は棹縁天井、その他は化粧屋根裏である。外観は円柱の上に舟肘木を置き、内法長押は母屋から庇の間へ順に低く取り付き、板扉を釣り込むところは二重長押とする。背面は連子窓と板壁、妻飾り扠首組、軒は疎垂木とするなど簡素な建物である。」





九重塔(重要文化財)
「鎌倉前期の建造、康元(1256-1257)の刻銘がある。」

鐘楼



大行事神社
「円光寺の鎮守社として始まったと伝えられ、祭神は高皇産霊神を祀る。」








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御上神社

2018-12-28 21:51:12 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
由緒書より「当神社の社記によると天之御影神は今から2200余年前の孝霊天皇6年6月18日三上山に御降臨になったので神孫の御上祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた。降って養老2年勅命によって現在の地に社殿を造営して遷祀された。爾来朝野の崇敬あつく清和天皇の御代に正一位、醍醐天皇の御代に明神大社、次に圓融天皇の御代には勅願所と定められ四海太平の祈願を行われた。武家政治になっても源頼朝を始め各武将も崇敬深く神領を寄進奉った。神祭神天之御影神は御神徳高く霊験あらたかで忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰され、当地方は昔から神体山三上山を中心に忌火郷、悠紀郷、むかで退治の神話で有名で、山麓からは24個の銅鐸が発掘され、5~6世紀の古墳群が現存している。」
滋賀県野洲市三上838
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鳥居



手水舎



社務所

楼門(重要文化財)
「楼門は、上下階とも桁行三間、梁間二間で、上階は下階より柱間を狭くする。上階間増斗束の墨書から康安5年(1365)頃の建立と知られ、本殿、拝殿、摂社若宮神社本殿とともに14世紀の神社境内の様相を今に伝えており価値が高い。」



















拝殿(重要文化財)
「拝殿は四周に木口縁をまわす単純な形式で、様式手法上より、本殿と同時期の鎌倉時代の建立と推定される。本殿、楼門、摂社若宮神社本殿とともに14世紀の神社境内の様相を今に伝えており価値が高い。」







神輿庫

鳳輦神輿「高貴な方が乗られる構造となっており、宝徳2年(1452)の銘が残っている。」

本殿(国宝)
「建立年代は明らかではないが、様式手法からみて鎌倉時代後期の建立と推定される。入母屋造、漆喰壁及び連子窓など仏堂的要素が融合した神社建築で、簡素であるが優れた形をしている。中心部一間四方を母屋として正面に板扉を構え、その周囲に一間通り化粧屋根裏の庇を廻した構成であるが、側柱の間隔はすべて同じで、母屋の柱間はその一間よりやや広い。母屋、側廻りとも隅柱上に舟肘木をのせ、向拝の蟇股は内部彫刻を失っているが、柱上連三斗の組物と共に力強く、手狭みは珍しい形をしている。反花を刻んだ縁束石が並んだところは壮観であり、その正面右端のものに建武4年(1337)の刻銘があり、縁廻りおよび向拝は、この時の改造とみられる。」



若宮社(重要文化財)
「御上神社本殿と同時期の鎌倉時代の建立と推定される。御上神社の本殿、拝殿、楼門の3棟とともに14世紀の神社境内の様相を今に伝えており価値が高い。」



三宮神社(滋賀県指定文化財)
「一間社流造、檜皮葺。建立年代は室町時代、御上神社の摂社で「十禅師社」とも称した。構造形式は若宮神社と似ており、蟇股には牡丹の透彫が入っている。」





鎮魂殿
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勝手神社

2018-12-28 21:49:49 | 滋賀
2018年12月24日、お参りしました。
由緒書より「当社の創祀は上古に属し大和国吉野山の勝手神社の御祭神で天孫降臨の時32社の神と共に天降られた神様で愛鬘命と申奉る。大和国より移住した豪族が古里を偲び平安前期の貞観元年(859)清和天皇御即位を祝し通称明神谷に勧請す清和天皇より正一位を賜り鳥居の額は御宸筆であると伝えられる。現在の本殿は棟札等によれば、応永7年(1400)に上棟され、様式も当時の特徴をよく表している。三間社流造の庇に建具を設けて前室とし、さらに向拝をつける形式は滋賀県には中世の遺構が多く、古式流造が一層優美に発達したものである。鏡神社本殿によく似ているが、屋根を檜皮葺として、母屋柱上の組物を実肘木つき出三斗組として複雑化するかわり、蟇股は、向拝に限ってつけている。前室及び向拝の組物には手挟を備え、その彫刻は、蟇股と共に時代考証のよい資料である。」
滋賀県蒲生郡竜王町大字岡屋1347
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社務所

拝殿



本殿


















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