旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

花山温泉薬師の湯

2019-01-26 22:37:34 | 温泉、旅館、ホテル
2019年1月23日、茶褐色の濁り湯なので大阪観光をして少し足を延ばして利用しました。
プラン名は「【2食付♪】四季彩会席と成分濃厚な天然炭酸温泉に泊まる。」です。
泉質は、含二酸化炭素・鉄・カルシウム・マグネシウム・塩化物泉でph値6.3、源泉温度25.2℃。大浴場は41.5℃、源泉風呂は26℃、内風呂37℃、露天風呂39℃、泡風呂、サウナ風呂などがあります。日帰り温泉として結構の利用者が入浴していました。
和歌山市鳴神574
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外観







2月2日にウラマヨで13時から放送されるようです。



館内











売店



室内



おもてなし

食事会場



夕食、四季彩会席、大阪観光をして喉も乾いていましたので、生大ビールで食事を堪能しました。
先付、黒豆胡麻豆腐・山葵・くこの実

お造り、鯛・鮪・カンパチ

煮物、蟹真丈・梅麩・里芋・竹の子・菜の花

焼物、カンパチ味噌柚庵焼・とり松風・紅白はじかみ

揚物、海老金婦羅揚げ・くわい・鯛・パプリカ・あわ麩

酢の物、サーモン錦糸巻

蒸し物、鱈白子茶碗蒸し

台の物、豚小鍋

じゃこ釜めし



デザート、苺・生クリーム

朝食

花山薬師










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金剛寺

2019-01-26 22:09:42 | 大阪
2019年1月23日、お参りしました。
パンフレットより『奈良時代、聖務天皇からの命をうけて行基菩薩が密教の寺院「天野山金剛寺」を創建。平安時代初期に「弘法大師が密教練行の聖域にした」との言い伝えが数々残っています。平安時代末期にになると、境内は荒れ果ててしまい、八条女院の政治力と阿観上人の知恵と手腕で復興を成し遂げました。寺領は拡大を続け、子院の数が100を超えて行きます。古い境内図を見ると、伽藍を中心にたくさんの子院が建ち並び、都市に入る門は二重になっています。これは枡形と呼ばれ、城郭の門と同じ構造をとっており、外敵から身を守ることを想定した都市計画がなされています。総合大学クラスとなった学問所から知能にと邁進していきます。清流に恵まれた土地柄、清酒づくりに成功して僧坊酒を生産するなど、商業の流通も発展しました。労働力で生産量をあげて、地域の経済を潤していきます。当時、日本でも流通していた中国銭も境内から多くみつかっています。中世に巨大な境内都市として発展してきました。時を刻み続けた寺院史は濃くふかく、類稀なる文化財を現世へと残しています。』
大阪府河内長野市天野996
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総門

案内図

所化部屋

寺務所











楼門(重要文化財)
「鎌倉後期(1275-1332)建立、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。」



増長天立像(重要文化財)



食堂(重要文化財)
「室町前期(1333-1392)建立、桁行七間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺、正面軒唐破風付、本瓦葺。」



鐘楼(重要文化財)
「室町前期(1333-1392)建立、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺。金剛寺の建物としてはめずらしい唐様の様式を取り入れている。主要部は丹塗、板類は胡粉、連子は緑青、袴腰は黒塗である。」

金堂(重要文化財)
「平安時代治承2年(1178)建立、桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、正面向拝一間、背面一間通り三間庇、本瓦葺。」









多宝塔(重要文化財)
「平安後期(1086-1184)建立、三間多宝塔、こけら葺。豊臣秀頼公による修理の際に大改造された。昭和13年の解体修理で、わが国最古の多宝塔の形式をとどめた極めて貴重な建物であることが判明した。」







経蔵(大阪府指定文化財)

宝蔵(大阪府指定文化財)

薬師堂(大阪府指定文化財)

五仏堂(大阪府指定文化財)
「平安時代の創建。三宝院とも大日堂とも称された。慶長11年(1606)の再建。」



御影堂(重要文化財)
「桃山時代の慶長11年(1606)建立、桁行四間、梁間四間、一重、宝形造、正面向拝一間、背面向拝二間、観月亭 桁行南面一間、北面二間、梁間一間、一重、東面向唐破風造、西面御影堂に接続総檜皮葺。」



法具蔵(大阪府指定文化財)

護摩堂(大阪府指定文化財)
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烏帽子形八幡神社

2019-01-26 22:06:34 | 大阪
2019年1月23日、お参りしました。
「烏帽子形山には楠木七城(河内七城)のひとつとされる烏帽子形城があった。楠小二郎がこれに拠い、城の鎮護として創祀したものと伝えられる。」
大阪府河内長野市喜多町305
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鳥居と参道





烏帽子形恵比須社



参道の階段

本殿(重要文化財)
「桁行三間、梁間二間、入母屋造の檜皮葺、三間の向拝をつけています。正面中央に五段の木階をつけ擬宝珠高欄をめぐらし、側面後端に脇障子をおき、向拝に浜床、その正側面三方に浜縁を設けています。創立年代は明らかにする資料はありませんが、現在の社殿は棟札の墨書によって文明12年(1480)に建立されたことがわかります。」







比良野社

稲荷社





烏帽子形城跡(国指定史跡)の案内

「楠公武威の松」


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長野神社

2019-01-26 22:05:28 | 大阪
2019年1月23日、お参りしました。
説明書より『旧長野・古野の一部を氏神とするこの神社は素戔嗚大神を祀っている。また長野恵比須としてもよく知られている。江戸時代中期の頃までは、木屋堂宮・牛頭天王宮とも言われ、命じ元年に長野神社と改称された。
 長野神社は、明治初年の神社合祀でつけられた名称です。江戸時代には「木屋堂宮」あるいは「牛頭天王宮」と呼ばれていました。この「木屋堂」は正和2年(1313)の後宇多院御幸記に木屋堂御所の記載が初見です。その後も元弘3年(1333)の粉河寺文書や応永6年(1399)の日野観音寺大般若経奥書に「木屋堂」の記事が見られます。』
大阪府河内長野市長野町8−19
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本殿(重要文化財)
「長野神社の本殿は、一間社流造りで、正面に千鳥破風と軒唐破風がつき、屋根は檜皮葺きです。この建築年代は、天文18年(1549)の棟札のある観心寺の訶梨帝母天堂や天文12年の棟札のあった堺市の多比速比売神社本殿とも似ていますので、これらと同時代と推定されています。」







五社

恵比須社

天神社

カヤの木(大阪府天然記念物)、幹回り4メートル、高さ約17メートル
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観心寺

2019-01-26 21:17:41 | 大阪
2019年1月23日お参りしました。
パンフレットより「観心寺は、飛鳥時代後期(701年)、役行者によって開創、平安時代、弘法大師空海により、如意輪観音像を彫刻されて本尊とする。本尊は国宝で秘仏。大師は寺の造営を一番弟子の実恵に任せられた。その後、真言密教の修行寺院、歴代天皇の祈願所として、また高野山と奈良、京都の中宿として発展する。南北朝時代、後醍醐天皇は、楠正成を奉行として金堂を造営される。金堂は大阪府下最古級の国宝建造物。境内には、楠公建掛塔(重要文化財)、鎮守堂(重要文化財)、北斗七星塚、後村上天皇陵、楠正成首塚等がある。」
大阪府河内長野市寺元475
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本坊









山門

参道

拝殿





手水舎



鎮守堂(重要文化財)
「室町後期の天文18年(1549)建立、一間社春日造、正面軒唐破風付、檜皮葺。」







金堂(国宝)
「室町前期の正平年間(1346-1369)建立、桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺。」











鉄燈籠(重要文化財)
「鎌倉時代の貞永2年(1233)製作。」







恩賜講堂







牛滝堂

霊宝館

建掛塔(重要文化財)
「室町後期の文亀2年(1502)建立、桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、茅葺。」





弁天堂



鐘堂



阿弥陀堂

御影堂



行者堂

納骨塔



星塚

開山堂

道興大師御廟



楠正成公首塚
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龍泉寺

2019-01-26 21:05:39 | 大阪
2019年1月23日お参りしました。
パンフレットより『龍泉寺は、高野山真言宗で牛頭山と号す。推古天皇2年(595)勅命によって、蘇我馬子が創建した寺院です。伝説によると、昔この地に古い池があり、そこに悪い龍が棲み人々に被害を与えていました。馬子は、人々を救うため修法を行ったところ、悪龍は、仏法の力にはとてもかなわない、といって飛び去ってしまいました。やがて馬子は、聖徳太子とともに、この地に寺を建て仏法の興隆に努められたといいます。この時期から奈良時代後半にかけて金堂、東西の塔や僧侶の住いなどの建て裳の施設が完成したと発掘調査の結果から推定されます。
 ところが、その後、池の水が枯れ果て、また付近にも水が湧かず、ついに寺も衰退してしまいました。弘仁14年(823)正月8日、弘法大師がこの地を訪れ、里の老人に水を乞うたところ、湧水が少なく困っているという話を聞かされました。大師が訳を尋ねると、老人は昔話をし、「自分はこの地主牛頭大王である。汝の来たるを待っていたここに暫くとどまり、霊地を再興せよ。自分もまた助けよう」といってこつ然と消えてしまいました。大師は池に向かって七日間の祈祷をしました。七日目の夜半に雨が滝のように降りはじめ、再び龍が現れ、やがて夜が明けると池には清水満々として三つの島ができました。大師は、それらの島に聖天、弁財天、叱天を祀り、牛頭大王を鎮守とされました。この池は、現在も庭園(国指定名勝)として残されています。
 天長5年(828)には勅使を派遣して堂塔の再建がはかられています。この時期の伽藍の様子は「春日文書」にある「龍泉寺関連文書」から明らかにすることができます。やがて、鎌倉時代末期の健治元年(1275)には、金剛力士像(大阪府指定文化財)が作られ、それ以前に、これを収めた八脚門(国指定重要文化財)が建てられています。南北朝時代には龍泉寺城を岳山山頂(281.6m)に築いたため、戦乱に巻き込まれ伽藍の大半を失うことになってしまいました。また戦国時代のはじめ、畠山義就と政長の家督争いに単を発した争乱による戦禍のため、立ち直りの機会をも失ってとまったようです。織豊時代には灯明料として三石の除地を与えられ、江戸時代には、地元白木藩主石川氏代々の崇敬を受け、度々の修理をへて今日に至っております。』
大阪府富田林市大字龍泉888
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仁王門(重要文化財)
「装飾は少なく斗ぐみも三っ斗の簡素な門で、中の柱間を広く構え、妻の方には親柱筋の肘木を突出してある等、奈良時代の様式が取り入れられて、堂々とした風格を備え細部手法から見て鎌倉時代中期の建立で府下唯一の古い八脚門であるばかりでなく、この種の遺構は全国的に見て十指のうちに数えられる貴重な存在である。」





金剛力士像二躯(大阪府指定文化財)
「阿形吽形とも一丈二尺(364センチメートル)前後の桧材寄木造の像である。玉眼、両腕、脚の一部などは欅材の後補になるが、頭部躰躯のはほぼ鎌倉当初材を留め、それらは各々頸の付根の前後、さらに前躯を左右に矧ぐ阿吽の顔の表情や躰躯の彫技には本格的な造形の手法がみられ写実的表現には看過ごせないものがある。」





モッコク(富田林市保存樹木)、幹周2.5メートル、高さ13.メートル



鐘楼

本堂





聖天堂

庭園(国指定名勝)
「園地は南北60m、東西45mあり、南北一列に3島を配している。中央中島には春日造(桃山時代)の祠に弁財天を祀る。池水は伽藍北西隅から湧出する豊富な水を湛えたもので、信仰と観賞を兼ね合わせたものと思われる。寺域を囲む樹林、北面にそびえる獄山を含めて、静寂幽すいな景観を作り出しており、この地方にまれな鎌倉時代の庭園として貴重である。」













尊性法親王御墓

咸古神社
「龍泉寺の北側にあり、江戸時代までは龍泉寺の鎮守社であった。創建年月は不詳である。咸古神社では、隣接する龍泉寺の寺伝より弘仁14年(823年)正月の創建としている。明治の神仏分離により、牛頭天王を祀る鎮守社が龍泉寺より分けられた。」



















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建水分(たけみくまり)神社

2019-01-26 21:04:21 | 大阪
2019年1月23日、お参りしました。
由緒書より『創建は第十代・崇神天皇5年(紀元前92)で、同天皇の御宇天下饑疫にみまわれ百姓農事を怠った時、諸国に池溝を穿ち農事を勧められ、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀せられた。御祭神は、天御中主神、天水分神、国水分神である。延長5年(927)修撰の[延喜式-神名帳-]に「建水分神社」と記載の式内社である。また延喜元年(901)撰上の[日本三代実録]には叙位累進の記録がみえる。
 世々皇室の御崇敬極めて篤く、第96代・後醍醐天皇の御代に至り、建武元年(1334)楠正成公に勅して、元は山下の水越川の畔にあった社殿を現地山上に遷し、本殿、拝殿、鐘楼等を再営させられ、延元2年(1337)神階正一位の極位を授け給うた。
 当社は霊峰金剛山の総鎮守で、古来より付近十八カ村の産土神であると共に、累代此地を本拠とした楠木氏の氏神でもある。正成公は勅を奉じ征賊の軍を起こすに当たり、祈念篤く、「久方の天津朝廷の安かれと祈ると國の水分の神」と詠まれた。
 ときに織田信長は河内国攻略に際し、当社領を悉く没収し社頭は一時衰退したが、豊臣秀吉は再び田地を祈祷料として寄進し、深く崇敬するところとなり、旧に復するを得た。
 なお、大鳥居の「正一位 水分大明神」の額は、後醍醐天皇宸筆と伝えられている。
 また、正成公再営の本殿は三殿からなり、水分造とも称される。中殿に一間社春日造、左右両殿に二間社流造を配し、各殿を渡廊で連結するという全国でも他に例をみない様式である。構造の細部も優秀功緻で建築上の模範である。
 摂社の南木神社(なぎじんじゃ)は楠正成公を祀る。延元元年(1336)正成公が湊川で戦死されると後醍醐天皇その悼惜限りなく、翌二年(1337)御親らその像を刻ませ給い公と縁故深き当社境内に祀り、その誠忠を無窮に伝え給うた。さらに次代の後村上天皇より「南木明神」の神号を賜った。
 末社の金峯神社は本社拝殿の北脇に鎮座し、由緒創建は詳らかではないが、皇室の御祖神であり、日本人の総氏神でもある伊勢の神宮の御祭神、天照大御神を奉斎する。』
大阪府千早赤阪村大字水分357
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旧宝物庫

旧絵馬殿

神輿庫

手水舎



参道

拝殿

本殿



末社金峯神社

摂社南木神社

狛犬



拝殿
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錦織神社

2019-01-26 21:02:42 | 大阪
2019年1月23日、お参りしました。
由緒書より「錦織神社の所在する富田林市宮甲田は古代律令制における河内国錦部郡の最北部にあたり、古来より錦部郡内の水流の集まるところとして水郡天王宮と呼称され広く信仰されてきた。明治時代より錦織神社として周辺五カ村の神霊を合祀し地元の氏神様として信仰されている。現社殿の創建は室町時代正平18年(1363)と伝えられ、本殿を中央に、東隣に摂社春日社本殿、西隣に摂社天神社本殿の三棟が並ぶ配置を取っている。」
富田林市宮甲田町9−46
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参道

拝殿

狛犬





本殿(重要文化財)
「本殿は桁行三間、梁間二間、檜皮葺、入母屋屋根の形式をとり、中央に建速素戔鳴命、右に品陀別命、左に菅原道真公を祀り、天照皇太神、伊戔円尊、倉稲魂神、天水分神、高龗神を配祀する。
 本殿屋根は正面に千鳥破風、軒に唐破風、側面に縋破風を設け、複雑かつ重厚な形態であるが、檜皮葺の軽快感と絶妙なバランスを保ち屋根の美しさを演出している。また、室町時代の特長がよく表れている蟇股には牡丹と唐草、向拝蟇股は桐、橘の彫刻が、正面欄間には椿、葉に筆、柘榴等の彫刻で飾られる他、縁廻り、柱は漆塗り、柱頭、長押、組物、彫刻、琵琶板は極彩色で荘厳に仕上げられる。なお、脇障子には金鶏鳥、銀鶏鳥の花鳥図が描かれている。」









摂社 
「摂社春日社本殿、摂社天神社本殿はともに二間社流れ見世棚造、檜皮葺の形式で、春日社には熊野速玉神、春日大明神を、天神社には火産霊神、大国主神、恵比寿神をそれぞれ祀る。現在の摂社は平成修理の際、棟札が発見され文明12年(1480)の建立であることが判明した。」
摂社天神社(重要文化財)



摂社春日社(重要文化財)



末社弁財天・金刀比羅宮

富田林市保存樹
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富田林寺内町の町並み

2019-01-26 20:59:37 | 大阪
2019年1月23日、散策しました。
『富田林は、大阪の中心地から東南へ約20km、石川流域の平野と金剛山系に連なる南部山地、そして緑の丘陵が広がる西部からなる自然の中の町です。市の中心部にある寺内町は、16世紀に京都興正寺の第16世、証秀上人が河内守護からどの村にも属さない「富田の芝」という荒地を、銭百貫文で買い受け、周辺4カ村の庄屋株、信者など町衆とともに整備してきたもので、町の4カ所に門を置き、自治・自衛を行い、江戸期には周辺地域の流通拠点として栄えた。またその後も行政、商業の中心地として発展し、今に残る町並みの美しさは往時の面影を伝えている。
 富田林村は1890年(明治22年)に町村制で毛人谷村と合併。1897年に富田林町となり、1942年(昭和17年)近隣六カ村と合併、1950年に府下16番目の市となった。市の発足時の人口は約3万人。1994年には約12万人となっている。面積39.71㎢の市域には日本の歴史上きわめて重要な文化遺産が点在するだけでなく、緑豊かな環境を生かした大規模公園、公共施設、文化施設、そして歴史散策のためのルートが整備されており、都市近郊の恵まれたアクセスにより、魅力に満ちたゾーンを形成している。
 寺内町は、東西約400m・南北約350m、600軒の町家のうち250軒ほどが伝統的な町家である。南河内の交易、交流の中心として栄えた寺内町のたたずまいは、城之門筋の江戸・明治・大正の三時代が混然となった町並みが象徴的だ。』
市営駐車場に自動車を止めて、網の目に散策します。まずは西方寺から
西方寺
「浄土宗京都知恩院の末寺で天正山神宮院西方寺。本堂には当寺の本尊である阿弥陀如来坐像が安置されています。この仏像は天和3年(1683)に尾州名古屋の伊藤治郎左衛門から寄進されたもので、像高143センチ、寄木造の堂々とした姿は、藤原時代の様式で鎌倉末期の作像と指定されます。」
山門





イチョウ(富田林市指定保存樹木)、幹周3.6メートル、高さ26メートル

本堂



鐘楼



町並み







旧杉山家住宅(重要文化財)
「杉山家は寺内町の形成された当初から旧家と伝えられ、江戸時代から明治の半ばまで造り酒屋として、河内酒造業の肝煎役を努め最盛期には使用人70人を数得たと言われている。現存する建築は1650年頃に建てられた土間が最も古く、1734年にはほぼ現在の姿が完成した。座敷周りは赤味のある大阪壁、襖絵は狩野派の絵師による豪壮なものであり、南河内の往時の豊かさを伝えるものである。」











寺内町センター

展示品

















石上露子
「本名杉山タカ、明治15年に杉山家に生まれた。[富田林の酒屋の娘、大和・河内にない器量]と俗謡で歌われた明星派の歌人。美人であり、また時代の矛盾に正面から向き合った孤高の人柄は、この地の風土と自由を示す象徴として今も人々の心に生き続けている。」







仲村家住宅(大阪府指定文化財)
「当家は屋号を[佐渡屋]といい、酒造業を営んでいた。代々徳兵衛を名乗り、寺内町八人衆を努めたと伝えられる。正徳5年(1792)に酒造株を取得してからは、造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5年(1785)には江戸市場を大正とした酒造業の理事長にあたる[河内一国江戸積大行司]となった。主屋の建築年代は普請入用帳から天明2~3年(1782~83)であることがわかっており、主屋西側の店部分、南に続く3室の別座敷も同時期のものである。この座敷には文人墨客が数多く訪れ、長州藩士吉田松陰もその内の一人と言われている。」







上野家住宅
「主屋は東面し、桁行8間・梁行5間・身舎梁間4間、居室は6間取りであるが、その裏方には増築部分が付いている。店のとり方は、土間部分の表を全面開放し、下店と店を左右に配してその中央半間の土間によって、後方の土間へ導いている。この建物の建築時期は不明であり、本体にはかなり古い材も残されてはいるが、現況はほとんど幕末期の建て替えであろうと思われる。なお、当家の向かいの仲村家、さらに北西に旧杉山家があり、付近一帯の景観上からも重要な遺構と言えよう。」













道標[町中くわへきせるひなわ火無用]
「この道標は、京都から高野山に通じる東広野街道の道しるべとして建てられたもので、刻字から宝暦元年(1751)11月の建立であることがわかります。室町時代の末期、石川の段丘上に建設された富田林寺内町は、江戸時代を通じ、南河内随一の商業都市として発展し、東高野街道を通って多くの旅人が往き来しました。[くわへきせる]や[ひなわ火]は、当時の旅人が携帯した必需品の一つで、江戸時代の旅の風俗をよく表しています。道標に刻まれた銘文は、町の中での火の用心を呼びかけたものです。寺内町には、わら葺きの民家が密集し、高台ゆえに水の便が悪く、町全体が火事の予防に細心の注意を払ってきました。」











木口家
「古い町絵図によると、この辺りは宝暦3年(1753)の間に区画ができたと思われるが、当家の主屋の遺構は古風な面が多く、18世紀中期の築造と推定される。敷地内には江戸末期の土蔵2棟と明治期の離れ座敷が残っており、かつての繁栄がしのばれる。当家は屋号を[木綿庄]といい、始めは木綿商を営んでいたといわれるが、四代前より瀬戸物商に転じている。」









橋本家









妙慶寺



興正院別院











































葛原家住宅
「葛原家は十津川の元郷士で、天明元年(1781)頃に当地で酒屋を始めたと伝えられている。しかし、現在の母屋が建てられたのはそれより後で、19世紀の初め頃の再建と考えられている。敷地内には主屋のほかに、東方に表玄関をもつ別座敷と土蔵が壺庭を[コ]の字形に囲むように配置されている。接客空間の奥に12畳半の広い書院座敷があり、当時の大商人の実力がしのばれる。」



南葛原家住宅
「当家は北向いにある葛原家の分家であり、現住宅は安政元年(1854)に[三治郎]という人が分家した時に建てられたものである。主屋は敷地の西方に東西に長く建ち、主屋の東に中庭を経て茶室と三階蔵がある。三階蔵の東方に幕末頃までは会所があったことから、会所町の名称もここから由来したと考えられる。」























南奥谷家住宅
「当家は北側に面する奥谷家(岩瀬屋)の分家で、本家6代目の時にこの家を起こした。分家の年代は明らかではないが、明治時代の前半頃と推定される。主屋は桁行6間半、梁間5間半、梁行3室並びの整形六間取り居室である。2階は床棚付2室を設けるなど極度に発展しているが、表側は江戸時代同様の低い2階造となっている。屋根は切妻桟瓦葺で、煙出しは設けず、後方妻壁上部の窓によって煙を抜くようになっている。このように富田林寺内町には当家を初め、各時代を代表する建造物が数多く残されており、それらの変遷をみることによって地域における生活の移り変わりを知ることができる。」































浄谷寺
「当寺は、正式には半偈山三仏院浄谷寺といい、寺内町の一画南会所町にある。融通念仏宗を唱え、大阪市平野区にある総本山大念寺の末寺となっている。弘安9年(1286)済戒真證上人によって毛人谷村に開かれ、天正2年(1574)に当地に移転し、今日に至ったとされている。また、資料には、慶長13年(1608)に[大念仏道場]とあり、寛文6年(1666)に総門徒の寄進により再興された記述が残っている。」


















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