電車に乗った時にふと向かい側に座っている人をながめていたら、ほとんどの人が腕時計をしていないことに気が付いた。これだけスマートフォンや携帯電話が普及すると、わざわざ腕時計をする必要がないからだろう。スマートフォンや携帯電話の時間はいつも正確だ。腕時計は必ずしも正確とは限らないから実用面でも劣ることになる。一部の極めて高価な腕時計をのぞいて、それをする人はこれからますます少なくなるに違いないように思う。
今のようにスマートフォンや携帯電話が普及するまでは腕時計は時間を知るための必須のものだった。もちろんステータスやお洒落のアイテムとしての腕時計は昔からあったが。ただ、時計ははるか昔からあったけれども腕時計はかなり後になってからだと思う。それに初めの頃は時計は高価だったのだろう、一部の人しか持つことはできなかったはずだ。たいていの人は教会やお寺の鐘の音で時間を知ったし、それすらない場合には文字通り、昼と夜すなわち太陽が顔を出してから沈むまでと言うような、時間の感覚だったに違いない。
かつて「大きな古時計」と言う歌が流行したことがあった。2002年の紅白歌合戦の出場曲でもあり、それにいろどりを付けるためというのか、歌手がわざわざアメリカ・マサチューセッツ州まできてモデルとなった古時計の前で歌って中継したことがあり、在ニューヨークの日本人駐在員にも声がかかったことがある。年末にマサチューセッツ州までこういったことで出張するのも、とも思ったが、やはり流行と言うものは大変な力を持っていた。
自分の記憶では、中学生になった時に親に腕時計を買ってもらった。それ以降、腕時計を身に着けていないと何となく落ち着かない感じがして、時代遅れだろうが今でも朝起きると自然に腕時計をする習慣が抜けない。親に買ってもらったその、決して高価ではないいわばエントリーと言った程度の腕時計は今は机の引き出しに置いてある。一日一回ネジを巻かないと止まってしまう、と言う代物で、今でもたまにネジを巻いて動かしてみている。あとは自分で買ったり人から贈られたりして何本か持っているが、今、普段に使っているのは仕事を始めてしばらくした時に海外旅行のお土産として知人から頂いたスイス製のもの。たまたま良品があたったのか、3年に一度の分解掃除と必要な部品の交換をしてもらっていたら40年以上経った今もかなり正確に動いてくれているので手放せないでいる。これはきっと、死ぬまで身に着けるのではないかと思う。
同じく仕事を始めた時に海外帰りの、気障なことに懐中時計をしている上司がいた。デヴィッド・スーシェが演じたポアロあたりに出てくるような、ベストのまえから伸びる鎖の先に小さな時計がついているものだ。そんなことがあって多分、イギリスの骨董市で買ったのがこの懐中時計。いくらで買ったのか思い出せないが、大した値段ではなかったと思う。アマゾンを覗いてみたら安いのでは数百円から沢山の種類の懐中時計が売られていたから。
4年ほど前に早世した友人のお悔みに行ったら彼の写真のかざられた傍にメガネと動いている腕時計が置いてあった。その動いている時計を見ていたら、ついまだ彼が生きていて鼓動でもしているかのように思えた。同じように、そのころ他界した父の腕時計は書棚の中で今でもほぼ正確に時を刻んでいる。そのうち電池が切れて止まってしまうかもしれない。そのままにしておくのは忍びないので、その時は近くの時計店で電池交換をしようと思っている。